12月3日
「ただいま」
「おかえり。早かったですね、兄さん」
「帰ってきたかい?」
「ばあちゃん、ただいま。インフルエンザの予防接種どうだった?」
「どうだったも何も痛かったやぁ」
あの後僕はあまり長居せずに帰路についた。市立図書館に行っても良かったが、こんな状態で勉強なんか出来やしない。センター試験前なのに、とあの少女を少しだけ恨んだ。
家にはいつもの時間よりだいぶ早く着いた。その為少し妹は驚いているが、おばあちゃんはいつもの笑顔で迎えてくれた。
「そっか、熱出ないといいね。今日は早く休んでね。そうだ、僕も夕飯作り手伝うよ」
「なんたら、いい孫だこと。んなら着替えてからおいで」
「うん、ちょっと待ってて」
僕は靴を丁寧に片付け、急いで階段を登った。その途中で気がついた、カレーの匂い。僕の大好物だ。
きっともう妹やおばあちゃんがある程度、いや完成に近いくらいは作ったのだろう。だからこそサラダなどの副菜くらい僕が作ろう。そう思って部屋に駆け込み、荷物の片付けもおざなりに着替えを始めた。
最近、カレー食べてなかったな。この匂いすら懐かしい。『カフェ:FS』のメニューにカレーがあるため、懐かしいと思うわけがない。でも僕自身のどこかに刻まれていたこの匂い。
急にお腹がすいた。家に帰りたくなった。全身を襲う疲労感。だがこの疲労感が心地よい。家に帰ってきているはずなのに、ノスタルジア。
土の臭い。桜の臭い。雨の臭い。風の臭い。木の臭い。落ち葉の臭い。雪の臭い。
衝動的に、声をあげたくなる。
父さん、母さん。
「兄さん」
ノックと妹の声がした。何故だろう、僕はこの感情を妹に見られてはいけない気がして、すぐに返事が出来なかった。
「兄さん?あの……」
「ごめん、ちょっと待って」
これが精一杯だった。僕は急いで脱ぎ始めた学生服をもう一度羽織り、そして袖口でいつまにか出ていた、涙をぬぐった。
「ごめん、お待たせ」
ドアを開けると妹が伏し目がちにこちらを見ていた。
「あの、夕飯カレーなんです」
「うん、いい匂いだ」
「私が作ったんですが、嫌じゃなかったですか?」
どうしてこんな事を聞くのだろう。
妹はおばあちゃんがいないとき、例えば今朝みたいに朝から病院にいく時などにご飯を作ってくれる。
ご飯はとても美味しい。おばあちゃんの手伝いをしてるからなのだろう、煮物や和食を得意としている。だがカレーのような洋食だって美味しい。だからこそ、こんな質問される理由が僕には分からなかった。
「嫌なわけないよ。もうお腹空いてるから楽しみ」
「なら、良かったです」
「そうだ、サラダとか僕が作るよ。今朝もそれに弁当も、おばあちゃんの代わりに僕の分まで作ってくれたし」
「え……サラダ?」
「うん。何がいいかな?僕でも作れるとしたら……ツナサラダくらい?」
レタスを千切って、ツナ缶を開けてそれに乗せるだけ。これくらいのサラダなら僕にもできるだろう。 それを聞いた妹の顔が一瞬強ばったのを、僕は見逃さなかった。そしてその表情は笑顔になった。泣いてしまいそうな悲しい顔の裏にある、笑顔。
「うん、私もそれが食べたい」
「ん、任せてよ」
「……じゃあ着替えたら来て下さい」
妹は僕の部屋を後にしようとした時、僕は、いや僕じゃない僕が妹に声をかけた。
「紅葉!」
妹は振り返った。少し驚いた顔をしてるのは、僕が滅多に名前で呼ばない事と関係あるのだろうか。
僕は妹を呼び止めたけれど、何も、言葉は出てこなかった。絞りだしてやっと出てきた言葉は、ごめん何でもない、だった。妹は少し残念そうな顔をして部屋を出ていった。
いつからだろう?紅葉が僕に敬語を使い始めたのは。
いつ以来だろう?「私もそれが食べたい」と敬語を使わなかったのは。
僕は良く分からなかった。
何故自分に父さんと母さんがいないのか。
何故マスターが親代わりだったのか。
何故少女が僕の名前を知っているのか。
ふと識さんと手を繋いで家に帰った時のことを思い出した。今と昔、僕は何か違うのだろうか。