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12月3日

「どうしたもんですかねぇ、マスター?」

「マスターに聞いたってしょうがないよ、とーま君。俺だったら、まず電話番号とアドレス聞いてだな。おっとその前に俺に紹介してほし……」

「春樹君?」

「あぁごめんね、桜子ちゃん!機嫌損ねないでぇ!」

「どうしたもんですかねぇ、マスター?」


 マスターはふむ、と無精髭をなでた。その後何か言葉が続くのかと思ったが、マスターは意に反して無言で皿を洗い始めた。思わず溜め息をついてしまった。

 僕は日課である図書館での勉強をせずに、今朝の出来事を相談しに『カフェ:FS』に来た。なのにこの始末、どうしてくれよう。


 『カフェ:FS』は僕の狭い行動範囲の中でも貴重な場所である。ちなみに他に貴重な場所があるかといえば図書館くらいである。

 この場所は、居心地がいい。モダン的な空間、狭くなくかつ広すぎない店内にはジャズが流れ、マスターはお洒落なナイスミドル。外観は赤煉瓦と洒落た女神様の看板によって、街からいい意味で浮いている。

 メニューはコーヒーの他にもジュースやケーキ、おまけにランチもある。そのおかげか、お客様は老若男女問わず色々な人が訪れる。

 人々はここでご飯を食べたり、仕事や勉強をしたり。さらには隣にいる春樹君と桜子さんのようにデートでここを利用する人もいる。

 今は僕と春樹さん、桜子さん以外にお客さんはいない。こういう雰囲気も好きだが賑わっている時の『カフェ:FS』はまるで地球の縮図のようで、僕のお気に入りの空間である。


 僕はこの場所で育った。そして、マスターの識さんに育てられた。厳密には僕達、兄妹である。僕達は物心着いた時から、『カフェ:FS』にいた。だから少なくても10年くらいは識さんはマスターのだ。

 学校から帰ってきたらここで勉強し、休日は朝起きたら一日中ここで本を読んでいた。もちろん妹も一緒にだ。閉店までずっとジャズを聞き、オレンジジュースを飲み、本の世界に潜った。

 店を開けている時は識さんではなく、マスターとして僕らに接した。仕事中に遊んでくれる事はなかったし、行儀悪くしたり、マナーが悪ければ叱られた。

 でも、僕らは識さんが大好きだ。閉店すれば、マスターではない、識さんの大きな手を握って家に帰った。右手は僕、左手は妹。識さんの両手は僕らの手を優しく包んでくれていた。

 識さんはおしゃべりな方ではない。識さんから話かけてくることも決して多くない。その代わりなのだろう、いつも僕と妹の話を聞いていてくれた。

 僕は今日こんな本を読んだんだ。私はこんな本を読んだんです。他愛ない話に識さんは、うんうん、そうか、そりゃ良かった、と暖かい笑顔で頷く。

 そしていつの間にか、僕らの家に着いてしまう。家にはおばあちゃんがいて、おかえりと言ってくれる。だから僕らは不思議な気持ちになる。帰りたくないような、帰りたいような。

 おばあちゃんはいつも識さんにご飯を食べていけ、と言っていた。しかし識さんはおばあちゃんの部屋に少しの時間寄るだけで、ご飯は食べない。

 識さんは僕らを送り届けた後、必ず「おやすみ、明日も本読めよ」と言って、帰路につく。それをいつも手をふって見送った。


 流石に中学生、高校生になってからは自分の家に直帰する事の方が多くなった。いつまでも子供ではいられない。

 でも今でもこうして『カフェ:FS』の常連として足を運んでいる。あの頃を懐かしみながら、オレンジジュースではなくコーヒーを飲み本を読む。いつ来ても、ここは愛おしい。


 だが今日ほどここに来なきゃ良かったと思った日はない。


「でもとーま君にもついに春がくるとなると、忙しくなるなぁ」

「なんで春樹さんが忙しくなるんですか?」

「だって可愛い弟分のとーま君がモテてるなんて聞いたら色々アドバイスしたくなるじゃん?」

「別にモテてなんか……それに本当に好きと言われたわけじゃ」

「いやいや!とーま君バカなの!?朝迎えに来てくれて、一緒に登校なんてもはや恋人だよ!?羨ましい!」


 春樹さんの本音が伺える言葉を聞いて、桜子さんはジトリと春樹さんを眼鏡の下から睨みつける。顔は笑っているけれど、笑える状況じゃない。

 春樹さんと桜子さんは大学生で、以前から『カフェ:FS』の常連さんである。なので二人とは仲良くさせてもらっている。

 春樹さんは今時の大学生だ。茶髪にピアスと若干いかつく見えるがとても優しく、僕を弟のように可愛がってくれる。

 桜子さんは逆に今時珍しいお嬢様だ。長くて良く手入れの施された髪、透き通るような肌。眼鏡の下の目は汚れをしらないように澄んでいる。

 よくこの二人は一緒にここにくるが、僕はイマイチこの二人の関係を理解していない。だが雰囲気でなんとなくは分かっている。


「だからまず電話番号とメアドを聞け!まず相手を知らないとだな!」

「春樹、その辺にしておけ」


 マスターは苦笑いしながら助け船を出してくれた。だが僕はマスターの表情から、きっとこの人も楽しんでいるのだろう事を知り恥ずかしくなった。


「まぁ春樹の言うことも一理あるが、お前の好きにやればいいさ」


 好きにやればいいさ。マスターの癖だ。助け船を出しているように見えて、自分でなんとかしろ、という意味合いの言葉。僕はこの言葉で育ったと言っても過言ではない。


「まぁ春樹君はさておきまして、私もまず沢山その女の子とお話してみるべきかとー」

「桜子さんまで?」

「だって、相手が何を考えてるか、何をしたいかなんて、あくまで想像でしかないんですよー?」

「まぁ、そうですね、確かに」

「だったらちゃんとその子とお話してみなきゃ答えなんて分かりませんよー?」


 桜子さんののらりくらりとした言葉が僕に突き刺さる。春樹さんもニヤニヤしながらこちらを見ている。もしかしたらマスターもカウンター越しにそんな表情で見ているかもしれない。だから


「はぁ、参考にはしてみます」


 と強がりしか言えなかった。

 でも本当は不安で不安でたまらなかった。どうして僕が?僕なんかが?そんな疑問が、コーヒーに入れたミルクのように渦をまいていた。

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