2-51・二人の公子
「ティラール・バロック卿がご面会を希望されています」
いつものように切れ切れの浅い眠りから起きて顔を洗っているところに、騎士見習いが告げに来て、ファルシスは一瞬耳を疑い完全に目が覚めた。ローゼッタの情報では、ティラールは『ルーン公を見舞いに行く』などと言って姿をくらましたという話だった。ファルシスは、恐らく何らかの工作を行う為の口実であろうと思っていた。でなければ、目立たぬようにバロック家へ戻ったか。もしも彼がアルマヴィラを引き払うのであれば、捕らえている筈のリディアはどうなるか? それが最も気にかかっていた。
「本当にご本人なのか?」
思わずそう聞き返してしまったくらい、意外だった。しかも、こんな早朝に……金獅子騎士達はいったいどう思うだろう? 騎士見習いはおかしな問い返しに戸惑った顔で「は? はい」と答える。
「いや、済まない、独り言だ」
ファルシスは苦笑した。我ながらつまらない事を言ってしまったと反省する。そんな名を騙って彼に会おうとする輩がいる訳がない。
「すぐにお通ししてくれ。……きっと朝餉がまだだろう。何か軽いものを用意してくれ」
そう言いつけて、ファルシスはティラールの目的を色々と想像し始めた。
ティラールは『自分は警戒されるだろう』と思っているが、ファルシスにとっては警戒どころではなく、ティラールは完全に敵である。バロック家の息子である事以前に、妹の侍女で自分の密かな想い人リディアを拉致した張本人であると思っているのだから。リディアの拉致が、彼の従者ザハドが関与しているだけでティラール本人は露も知らぬ事とは普通は思わない。
「ティラール卿、お久しぶりです。お訪ね下さりありがとうございます」
ティラールが部屋に入ってくると同時にファルシスは丁寧に挨拶したが、すぐにその恰好を見て驚いた。今までは粋に着飾った姿しか見た事がなかった。それが、長旅をしてきたようなくたびれた服装で、おまけに口の周りが少し腫れていた。
「どうされたのですか、いったい……」
「はは、そんなに驚かれる程見苦しかったですか、申し訳ありません」
ティラールは爽やかに笑おうとしたが、口内の傷の為にその言葉はやや聞き取りづらかった。
「ちょっと、従者と揉めたので……」
「あの、いつも一緒に旅をしておられたという従者の方ですか。まさか従者が手出しを……?」
「いや、お恥ずかしい。身内の恥です。わたしが愚かだったのです」
そう言ってティラールは誤魔化そうとしたが、ふとこれは会話の糸口になると気づいた。かれはまず言った。
「金獅子騎士の責任者殿には、宰相の息子の名においてここは人払いをと強く申し入れています。だからわたしはわたしの真実をありのままに話したい。信じて頂けるかどうか判りませんが聞いて頂けますか? 大事な預かりものもあるのです」
「預かりもの……とは?」
警戒しながらファルシスは問う。確かに金獅子騎士の気配はしない。しかし勿論ティラールの言う事を鵜呑みになどできる筈もない。
「それよりまず第一にご報告する事があります。ルーン公殿下はご無事です。大層お窶れではありましたが、意識もしっかりされて、色々お話させて頂きました」
「ほ、本当ですか!」
ファルシスの顔に赤みが差す。これは嘘ではないだろうと思った。いずれはわかる事なのだからこんな嘘をつくのは無意味だろう。
「では、本当に父を見舞って下さったのですか?! 父に会われたのですか!」
「本当に、とは? ああ、ローゼッタ嬢から聞かれたのですね。本当です。ところで、椅子にかけさせて頂いてもいいですか。実は夜通し駆けた上に結局一睡もしていなくて、少々くたびれていまして」
「あ、気づかずに申し訳ない。朝餉もまだでしょう? どうぞ、そちらに用意させています」
不調法を詫びながらも、ファルシスにはまださっぱり事情がつかめない。しかしとにかく、父が回復しているという報は何よりもかれを元気付かせた。ティラールは勧められるままに、パンとスープといくつかの皿が並べられた簡単な朝餉のテーブルについた。
「腹もかなり空いていますが、この口の傷ではあまり食べられそうにないですね」
ティラールは苦笑し、続けて言った。
「実は従者と揉めたのは、わたしがバロックの名を捨てた事と関係しています」
「……は?」
「すみません、順を追って話さないと訳がわからないでしょうね。わたし自身もまだ混乱していますし」
傷に沁みるのを用心しながらそうっとスープを口に運びながらティラールは言う。
「っ痛。すみませんが、傷を消毒する為にも、ワインをいただけますか?」
「あ、はい」
頼まれるままにワインを運ばせる為に世話係を呼びつけながらも、ファルシスの頭には疑問符が飛び交っていた。
消毒と気付けを兼ねてワインを口にすると、ティラールは身のうちに温かい力が戻ってくるのを感じた。やはりファルシスは警戒しているようだが、何とかして自分が味方である事を解ってもらわなければならない。
「ファルシス卿、わたしは愚かでした。わたしは当初から今回のお父上の事件を大変遺憾に思い、また絶対の殿下の無実を固く信じていました。しかし、この事件に我が父の意向が絡んでいるなどとは知らなかったのです。今回、殿下へのお見舞いを思いついたのは、本当に単純に、ユーリンダ姫のお役に立ちたいという気持ちからです。しかし、そのおかげでわたしは様々な事を知り、いかに自分が馬鹿な道化であったかを悟ったのです」
「……」
ファルシスは返答に詰まる。仮にも相手は宰相の息子。その彼がはっきりと『事件に父の意向が絡んでいる』と言ってくるとはどういう事だろうか? 皆が疑っている事ではあっても、証拠は何もないというのに。
「道化などと……とんでもない。そうだ、まだ礼も申し上げていませんでした。遠いところまで父を見舞い下さり、また、そのようにお疲れのご様子なのに急いでお知らせ下さるとは、本当に感謝の念に堪えません。もう妹には知らせて下さったのですか?」
女性を訪問するには早すぎる時間だ。だが、この男がユーリンダより先に自分の所に来るとは思えずにファルシスは問うた。
「いいえ、まだこんな早朝ですし、それに姫よりも先に卿にお会いせねばならぬ理由があるのです。卿宛てにルーン公殿下から書状を預かってきたのです。とても重要な内容のようですが、ルルアに誓ってわたしは中身を存じません」
そう言ってから、ティラールはウルミスに言われた事やアルフォンスと話した内容を語った。
「お父君からの伝言です。『次期ルーン公として恥じぬように振る舞い、そしてわたしを越える人間になれ』と」
それは、よく父が口にしていた言葉だった。ファルシスは少しずつティラールの話に心を傾けていた。父は恐らく、自分がティラールを信じるように、このメッセージを送ってきたのだろうと思った。ティラールの話しぶりは誠実さに満ちているし、辻褄が合わない部分もない。リディアの事さえなければ、父と同じように彼を信用していただろう。
「お話はよく解りました。ありがとうございます。とにかく、その書状を見せていただけますか?」
「はい、確かにここに」
ティラールは懐から油紙に包まれた書状を取り出す。油紙が少し破れかけているのにファルシスは一瞬不審そうな顔をしたが、中身は確かに封蝋を施されたままで開かれた形跡はない。ファルシスは封を切り中身を読んだ。見慣れた、繊細で優美な父の手跡ではない。大きく乱れて震えた文字。だが、普段の手跡の癖は僅かに顕れていたし、弱った身体でこのようにしか書けない、と綴られていた。印も間違いなく父のものだ。ファルシスは本物だと直感した。父と彼しか知らない内容もある。直接的に重要な情報は書かれていない。だが、もしも最悪の結果になった時に逃れる術があればその時手に入れるよう、『真の次期ルーン公として知るべき事』が記された書のありかが、家族以外の者には解らない表現で記されていた。ファルシスは読み終えてすぐに書状を細かく裂き、封筒に入れて懐にしまった。以前アトラウスからのメッセージを処分した時と同じように、少しずつ飲み込んでいくくらいしか処分の方法がない。
(アトラからのメッセージ?)
ふと彼は違和感を覚えた。殴り合いの喧嘩をして派手に仲違いしてみせた時に送ってきたメッセージ。あれには、『ローゼッタは信用できない』と書かれていた。だがその後、ローゼッタが『アトラウスからの伝言』を伝えてくるようになったので、一人では暴走しかねないローゼッタの危うさを知って、アトラウスが彼女の手綱をとっているのだろう、と思っていた。
『あなたの想い人は無事よ。ティラール・バロックが拉致監禁しているわ』
ローゼッタの囁き。あれは、確かに信用していい情報だったのだろうか? そもそも、ローゼッタがもたらす情報は本当にアトラウスが発しているものなのだろうか? 元恋人のローゼッタ。恋人関係が終わってからも、姉のように親身になってくれて、心から信じていた。しかし……。
ティラールは不安げな顔でファルシスを見つめている。自分の話が信じてもらえただろうか、と案じている顔だ。
「確かに書状を受け取りました。父の書いたものに間違いないと確信しました。届けていただき心より感謝します。ところで、さっきとんでもない事を仰ったような。わたしの聞き間違いでなければ、確かバロックの名を捨てた、とか……」
「はい。バロックの名で面会と人払いを押し通しましたが、わたしはバロック家と縁を切るつもりなのです。父の正義とわたしの正義が異なってしまった事が明らかになり、わたしは父に心酔する従者に、『バロックを捨てルーンにつくのか』と迫られました。従者はその書状を父の為にわたしから奪おうとしたのです。わたしはバロックを捨てる道を選びました。どんなに愚か者と呼ばれようと、罪なきルーン公殿下やその御一家を葬ろうとする父は間違っていると思ったからです」
「ティラール卿、そこまで……我が家の為に、御実家を捨てると仰るのですか。我が家は今や沈みかけた泥舟のようなものなのに」
ファルシスは心打たれた。ティラールは率直に話していると感じられた。ならば自分も率直にならねばなるまい。
「わたしは卿のお気持ちに強く胸を打たれました。だが、ひとつだけ引っかかる事があるのです。卿を信じて率直に伺います。妹の侍女、リディアという者をご存じですか?」
「姫の侍女……ですか? 伺った折りに顔を合わせてはいるでしょうが、名前までは……」
唐突な質問に戸惑った様子のティラールに、ファルシスは畳みかけるように言った。
「その侍女は、幼い頃から仕えてきて、わたしにも妹にも、家族同然に思える大事な人間なのです。その侍女が失踪して、卿が拉致監禁しているのだという情報がもたらされているのです」
ファルシスの額に汗が滲む。もし読みが完全に外れていたら、そのせいでリディアの命が危険に晒されかねない。だがティラールは不思議そうに首を振った。
「なぜわたしが姫の侍女を拉致せねばならぬのでしょう? 全く解りません。しかしもしその情報に信頼性があるのなら、それはわたしの従者がした事かも知れません。従者は、わたしよりも父の求めるものを理解しているので。だとしたら、本当に申し訳ない」
ティラールは深々と頭を下げた。ファルシスはそんなティラールの手を握った。
「解りました。情報提供者はきっと、従者がした事を卿の指図に違いないと思い込んだのでしょう」
馬鹿で気障で胡散臭い男としか思っていなかったティラールを、こんなに簡単に信じようとしている自分が半ば不思議にさえファルシスには思えた。だが、父が信じるのなら、自分も信じてみようと思った。何しろこの無力な自分に対してここまで芝居をし、バロックの名を捨てると言ってまでつけいっても、それに見合う得はティラールにはないのだから。
「侍女が監禁されていそうな場所に心当たりはありませんか?」
祈る思いでファルシスは尋ねたが、ティラールは申し訳なさそうに首を横に振った。
「わたしが遊んでいる間に旅先の土地でわたしの知らない情報網や、つてを得るのがあいつの役目みたいなものでした。わたしには何も解りません。しかし、自由の身であるわたしは、卿や姫の為に何とか手を尽くして調べてみましょう」
「申し訳ないが、そのご好意に甘えるしかわたしには術がない。しかし、侍女が無事に見つかれば間違いなく妹は大喜びするでしょう。妹の為にどうかよろしくお願いします」
半分は真実だが、半分は自分の為の願いである。想い人を救う為にさっきまで敵と思っていた男に頼るとは、なんと不甲斐ない自分であるかと悔しくはあるが、リディアを救う道があるのなら、自分の面子などに構ってはいられない。
「ユーリンダ姫の笑顔を見る為ならば、どれだけでも尽力しましょう」
ティラールは、ようやくファルシスの信頼を得られたと感じて微笑して約した。とりあえずこれでアルフォンスとの約束も果たす事が出来た。安堵から、急にティラールはどっと疲れが吹き出すのを感じた。
「卿?」
ファルシスの声が遠のいていく。
突然倒れてしまったティラールに驚いてファルシスは駆け寄ったが、ティラールは床に倒れたまま小さく鼾をかいて深い眠りに落ちていた。