2-50・訣別
ティラールは疑わしげにザハドを見返した。「わたしの負けです」なんて言葉を本音で引き出したのは、長い年月のなかでも初めての事だった。ゲームでも何でも、時々わざと手を抜いて勝たせてくれる事はあっても、本気の勝負でザハドに勝ったことなどなかったのだ。手を抜いて勝たせてもらっても、さすがに嬉しくはなかったが、ザハドの気遣いなんだろうと思い、気づかぬ振りをして喜んで見せていた。今思えば、気遣いではなく、単に馬鹿にしていただけだったのだろうが。
これも芝居だろうか? 油断させておいてまだ何かあるのかも知れない。舌を噛むのは一旦止めたものの、用心深くザハドを見据えているティラールに、ザハドは微苦笑した。
「書状はお返しします。だが、お返しする前に聞いておかなければならない。若は、バロックを捨て、ルーンに付かれるのですね?」
「……父上は、王家への忠誠よりも上回る何かの為に、罪なきルーン公殿下とその御一家を葬ろうとされている。何の罪もないと知っていながら、ただ目的の為に、意のままにならぬ殿下が邪魔だから。それで合っているんだな?」
「そうです」
ティラールは思わず吐息をついた。それならもう肚は決まっている。
「ならば、俺はバロックの名を返上しよう! 父上の目指すものが何であれ、その行動は俺の正義に、俺の信じた父上にそぐわない。もしもまた父上にお会いする機会があればお諫めしたいところだが、俺などの言う事に動かされる父上ではないと解っている。父上の道とこのティラールの道は違えてしまった。ならばもう俺は父上の息子と名乗る資格はない!」
きっぱりとティラールは宣言する。寂しさもあった。不安もあった。けれど、自由になった。自分だけで自分の道を行く……たったそれだけの事で、不思議に胸が高揚する。
「本当によいのですか? バロックの名を捨てて、若がお一人で生きていけるとは思えませんが。これまでのように楽に生きていくには、地位が、金が要るのですよ?」
「たとえ野垂れ死ぬとしても、俺は父上のお考えを受け入れる事は出来ない。今までずっと、バロック家の一員である事に誇りを持ってきたが、その誇りが保てなくなった以上、もうバロックの名は名乗れない。そうだ、確かに俺はおまえの言う通り、バロックの名の恩恵を受けるばかりで何の責任も果たしてこなかった。だから、これは当然の結末かも知れない。ただ……予め言っておくが、俺の為でなくユーリンダ姫の為に、バロックの名が利用できると思った時には、その時だけは使わせてもらう」
「随分身勝手ですね。しかしまあ、いいでしょう。お館さまへの報告は急がない事にします。わたしも、監督不十分で処分されるかも知れませんし」
「おまえの父上への忠誠は、俺が書状を送って保証しておく。おまえは最高に父上に忠実だ。こんな馬鹿な俺に長年仕えてくれて感謝する」
ザハドはティラールの懐に書状を戻した。彼もまた、奇妙な清涼感と寂寥感を味わっていた。一度手にした貴重な獲物を手放すなんて自分は度し難い愚か者だと思う。しかし、見下していた筈の愚か者に自分は完全に負けたのだ。書状を奪ってティラールを死なせても、書状を手放した上にティラールの背反を見逃しても、どちらにしても自分はバロック公の怒りをかうだろう。ならばせめて……。
「わたしが若の為にして差し上げられる事はこれが最後です。今度お目にかかる時はわたしと若は敵同士です。容赦はしません」
「ああ、解っている」
その時、何かが軽く弾けるような音がして、ティラールの身は自由になった。術の効力が切れたのだ。
「もうすぐ夜明けだ。荷物をとって俺は出て行く」
そう言うとティラールは書状を懐の奥深くへ戻し、階段を上がっていく。ザハドは脇に避けた。程なくティラールは荷を詰め直して部屋を出た。アルマヴィラに来た時に持ってきた大切な品と金に換えられそうな装飾品を旅装に加えただけだ。アルマヴィラで仕立てた洒落た服の殆どはもう必要ない。
廊下にはザハドの姿はなかった。ティラールは背筋を伸ばして館を出た。バロックの名を捨てる事よりも、ザハドとの別れの方がずっと寂しい。しかし、ザハドの言う通りだと思った。自分では兄弟のようと思いながらも実際の態度は、ただ恩を餌に忠誠を強要しているようにしかザハドには感じられなかったのだ。
(俺は何と愚かで傲慢だったのだろう……許せ、ザハド)
「ザハドさま、正気ですか?! 見逃すなど……まだ間に合います、追いましょう!」
ザハドの室では、蛇と蝙蝠が姿を現し、血相を変えて詰め寄っていた。
「追ったって、また自分の命を盾に取られれば敵わんさ。甘く見過ぎていた俺の失敗だ、すまん」
「我々にとっては、ティラール卿のお命よりも大事な書状なのですよ?!」
「いや、あくまでそれは可能性でしかない。書状自体が罠という可能性も否定できないし、大した情報が出ない恐れもある。引き換えて若はバロック公のご子息、あれでお館さまは結構若を可愛がっておられるし、そのお命を奪ってまで手に入れるというのは、おまえたちにとっても大きな損になる。大丈夫だ、書状がファルシス卿の手に渡っても、情報を得る方法はある。本当にファルシス卿に情報が渡っていたら、判決が下されて混乱している時に卿を拉致して拷問にかければよいのだ」
「なるほど……」
蛇と蝙蝠は不承不承頷いた。ルーン公の子息を拷問にかける、という想像は彼らの嗜好に合っていたので、その案も悪くないと互いに言い合った。
ザハドはバロック公へどう報告しようかと思案しながら、門を出て行くティラールの後ろ姿を窓から見送っていた。
空が白みかけていた。数日間アルマヴィラを悩ませた豪雨は過ぎ去ろうとしているようで、雨は今は霧雨のようになっている。人が起き出す時間になったらすぐにファルシスを訪ねようと再び愛馬に跨がったティラールは思った。だがその後は? 啖呵を切って出てきたものの、これからの身の振りようは何も考えていない。
(ま、なんとかなるさ)
今頃になって、口の中の傷がじんじんと痛み出したがどうにも出来ない。痛みに顔を顰めながらティラールはファルシスのいる聖炎騎士団宿舎の方へゆっくり向かう。これまでの経緯を考えると、ファルシスはバロック公の息子である自分に対し警戒するだろう。ローゼッタはかれに、自分はあくまでユーリンダとその一家の味方であるという気持ちを伝えてくれている筈だが、それを鵜呑みに信じてくれているとは限らない。そもそも元から、許婚の定まった妹にしつこく言い寄る自分を好ましく思っている訳がない。夜会で会話を交わす度、ファルシスは常に礼儀正しいがあまり打ち解けてくれる様子はないと感じていた。『バロックを捨てルーンにつく』その決断を信じてもらうにはどうしたらいいだろうか。普通では考えられない選択をしてしまったのは自分でも判る。しかし、書状が偽物であるとでも思われたら、今までの苦労は全て水の泡だ。
(少しでも眼の利く人は皆解っていたんだな……金獅子騎士団長殿も、ローゼッタ嬢も、父上はルーン公殿下の敵であると。勿論ファルシス卿やアトラウス卿もそう思っているに違いない。しかし、他ならぬルーン公殿下が俺を信じて下さったのだから、他の方々にも信じてもらわない訳にはいかない)
そして大きな問題に思い当たり、深く溜息をついた。
(ユーリンダ姫も心の奥では、俺を敵の息子とお恨みだろうか。聡明なお方だから、俺が助力したいと言えば喜んでみせて下さっているが、その実、芝居と思って蔑んでおられるのかも知れない)
他の者が気づいている事なら当然ユーリンダも気づいているに違いないと思い込むティラール。実は人を疑う事が苦手な点ではよく似た二人である事に、全く気づいていないのであった。
聖炎騎士団の宿舎が朝霞の向こうに見えてきた。張り番に見咎められないよう距離を置いて馬を止め、日の出を待ちながらティラールは思案を続けた。