2-49・覚悟
「何が……何がおかしい?!」
思わずティラールは叫んでいた。こんなザハドは見た事がない。これは、自分の知っているザハドじゃない。
「おかしい……というより、嬉しいのかも知れません。そう、確かに今まで言葉にした事がなかった。それを言う機会が訪れたのが嬉しいんですよ」
ザハドは笑いを収めたが、その唇の端にはまだ冷酷な愉悦の残渣が残っている。蛇と蝙蝠は、このまだるっこしいやり取りを隠れて聞きながら苛立っているだろう。彼らにとってはどうでもいい話、一刻も早く書状を手にしたい筈だ。それでもザハドは、今こそが長年待っていた時だと確信していた。どうせティラールは逃れられない。
「若が聞かれなかったので、今まで申し上げる機会がありませんでした。もっと早く誤解を解いて差し上げた方が若の為には良かったのかも知れませんが」
「誤解……とは?」
聞きたくない、と一瞬ティラールは思ったが、すぐにその思いを打ち消した。『知りたくない事は知らずに』はもう止めなくてはいけない。そうでなくて、どうしてユーリンダを護れようか?
「誤解とは、今、若が仰ったこと全てですよ。わたしは若の味方ではないし、若に恩など感じた事もない。それだけです」
ザハドは面白そうに、ティラールが更に青ざめて戦慄くさまを眺めていた。
「なぜだ?! あんなにずっと一緒にいたのにおまえは……。それに、俺がおまえを助けてやったのに、恩を感じていないと? 俺は、おまえは最初は恩返しのつもりで俺についてきてくれたものと思って……」
「そこが間違っているのです。わたしを助けて下さりわたしが恩を感じ一生を捧げると感じた相手は、決して若ではありません。お館さまです」
ティラールは息を呑んだ。
「だが、おまえだって知っているだろう! 俺が父上に頼まなければ、父上はおまえの事なんか決して助けやしなかった! 父上だってあの時はっきり仰ったじゃないか! 俺は今でも覚えている。『今日の儂は機嫌が良い、ティラールの望みを聞いてやろう』と!」
「そういう事を臆面もなく言えるから、わたしは若を、若を憎んでさえいるのです。助けてやった? いいえ、違います。若はただ子供の気まぐれでおねだりをしただけだ。もしも若の父君がただの町人であったなら、どうしようもない事だ、奴隷などに構うなと怒鳴られて終わった事でしょう。若の父君が力のあるお方であられたからこそ、わたしは救われたのです。もし本当に若がお館さまにその能力を認められた息子でそれ故にお館さまが若の進言をお聞き入れ下さった、というなら若にも恩義を感じもしましょう。だが、実際は、たった今若が仰った通り……単なるお館さまの気紛れから起こった事に過ぎない。それなのに、若は自分がわたしを救ったからわたしは当然若に従うと思っている。わたしは、そんな若の傲慢さが死ぬ程嫌でした。若は折角バロック家のご子息として生まれながらも、それを無駄にするばかりで何の責任も果たさない。やんわりと指摘されれば、俺は馬鹿だから役に立たないからと逃げる。そうしながらもそんな自分を恥じる事もない。いつもわたしが一緒にいた、って? それはお館さまにそう命じられたからに過ぎません。仕方なく一緒にいただけです」
もうザハドの貌に笑いの影はなかった。十数年の鬱屈を一気に吐き出した彼は、忌々しそうにあるじを睨み付けてさえいた。ティラールは言葉も出なかった。
「解ったでしょう? わたしは決して若の味方ではありません。さあ、これが最後です。書状をお出しなさい」
「い……いやだ!」
絞り出すように叫ぶとティラールは後ろ向きに階段を降り始めた。
「おまえがそんな風に思っていたなんて……だが、それとこれとは話は別だ。とにかく、そうと聞いては尚更渡す訳にはいかない。俺の味方でもない奴に渡せる筈もない!」
「若がすんなり渡しはしない事くらい察していましたよ。ルーン公に懐柔されるなど、まったく若は愚かでバロック家の恥さらしだ。しかしそれでも結局、若は渡さない訳にはいかないのですよ」
「なんだと……力尽くで奪うつもりか? この俺に刃を向けるつもりなのか?!」
「まさか、そんな事はしません。我が主人バロック公殿下のご子息にそんな事が出来る訳ないでしょう? ご心配なく……若に傷一つおつけしませんから」
そう言うとザハドはまた表情を消し、
「蛇、蝙蝠、やれ」
と呟いた。今か今かと出番を待っていた二人が動いた。
「なっ……」
階段を降りかけたティラールの足がぴたりと止まる。金縛りに遭い身動きが取れない。
「なんなんだ、これは?! おまえ……いったい何をした!」
「魔道ですよ。別に痛くも痒くもないでしょう?」
「おまえが魔道を使えるなんて初耳だぞ!」
「……」
蛇と蝙蝠の存在は伏せておく、というのが事前の取り決めだった。ティラールは魔道になぞ興味もないし、どういう種類のどんな難度の魔道かなど判る筈もない。異国出身のザハドが身につけていた能力と思わせておいた方が色々勘ぐられずに済む。
ザハドは無言のまま、固まっているティラールにゆっくり近づいた。首から上だけが自由に動かせるティラールは、焦りの表情で何とか逃れようと試みているようだが、彫像のようにその身体はぴくりとも動かない。
「やめろ! 俺に触るな!」
喚いているのを完全に無視し、ザハドはティラールの懐を探る。すぐに油紙に包まれた書状を見つけ出した。
「諦めて下さい。降参だと仰れば術を解いて差し上げます。解かれたところで襲いかかろうとしても無駄ですよ。わたしはいつでも若の動きを止められます。わたしの生まれ育った国では、子供の頃に身につける魔道です」
はったりだった。相手の動きを封じる魔道は高位魔道であるし、二人がかりでかけている術も、そう長い時間は保たない。一旦解けばまた印を結び直さねばならず、ティラールに猶予を与える事になる。だが単純なティラールは疑わないだろうと思った。ザハドは包みを解こうとした。わざと、無力なティラールの目の前で。
「……待て!」
鋭い声でティラールは制した。先程までとは何か違う響きが含まれている。ザハドはティラールを見た。緑色の瞳には、怒りや焦りとはまた別の感情が映し出されていた。それは、覚悟だった。
「おまえの言いたい事もやりたい事も理解した。おまえが俺を憎む理由も解った。俺の愚かさを謝れというなら謝りもしよう。だが、俺はその書状に関してだけは、譲る訳にはいかない。絶対に封を解かずに届けると誓ったのだ。命に代えても俺は誓いを守る!」
「若のお気持ちには心打たれますが、わたしも譲る訳にはいかないのです。他の我が儘でしたらいくらでも聞いて差し上げます。さっき言った事は全てなかった事にして、今まで通りに楽しく過ごして下さって結構です。わたしももう二度と言いません。でも、これだけは駄目です」
「楽しく過ごすのはもう終わりだ。おまえと過ごした間、楽しかったよ。礼を……礼を言う。それから、詫びを。だが、その書状は返してもらう。そうでなければ、俺は、こうするしかない!」
あっと思わずザハドは声を上げた。ティラールは勢いをつけて自らの舌を噛み切ろうとしている!
「な、何を……! 馬鹿な事はやめなさい!」
慌ててザハドはティラールの口をこじ開けようとする。唇の端から泡を含んだ血液が溢れ出た。
「やめさせろ! 口を封じろ!」
『無理です、ザハドさま。術はもうあまり保ちません。それよりも、書状を持って逃げて下さい!』
蝙蝠の声が頭に直接聞こえた。ザハドは舌打ちして、ティラールの頬を平手打ちした。勢いでティラールの口が開き、そこでティラールは一旦舌を噛むのを止め、ザハドを睨みながら言った。
「おまえが、それを奪ったら、俺は死んでやる。今、仮に俺の動きを封じても、明日には死んでやる。舌を噛んで死ぬなんて、女みたいな最期だな……だが、父上はどう思われるか?! おまえのせいで俺が死んだとなれば?」
荒い息をつきながら、ティラールは血の塊を吐き出す。
「或いは、それは俺の命なんかよりも父上にとって価値のあるものかも知れない。でも、そうでもないかも知れない。俺を殺してそれを手に入れたと、父上に胸を張って報告できるなら、やってみるがいい!」
「そこまでして! そこまでしてルーン公との約束を守るなど馬鹿げている。若にそんな度胸がある訳がない!」
「じゃあ試してみろよ。さっきまでの俺は、俺にはおまえだけが味方だと思っていた。だがそうじゃなかった。だったら俺の持ち札はもう、俺の命しかない! だから俺はそれを賭ける! おまえの目の前で、おまえのせいで死んでやる! 嬉しいか? 憎い俺が惨めに自害したら、おまえは嬉しいか?!」
「若……」
呆然としてザハドはティラールを見つめた。こんな行動をとるとは予想もしていなかった。共に過ごした十数年、ティラールは確かに色んな思いつきや我が儘で彼を困らせてきたが、最終的には彼のお小言をちゃんと聞いて従った。本当は彼を憎んでいるのにそんな自分を心底信用している彼を、馬鹿にしていた。馬鹿にしていたけれど……憎んでいたけれど、それでも、一瞬たりとも嬉しくない訳じゃなかった。自分が世話をしてついていてやらねば何一つ出来ない、馬鹿な、駄目な公子、いつか本心を打ち明けたらどんな顔をするだろう、と従順な貌の下で悪意に満ちた空想に浸る事もあったが、それでも、死ねばいいとまでは思っていなかった。
(まさか、これが『情』というものなのか?)
ザハドは戸惑っていた。ティラールの眼は本気を語っている。長年側にいたザハドにはそれが判る。
(違う、ここで若に死なれては俺はお館さまにお咎めを受けるから、だから困惑しているだけだ)
自分に言い聞かせる。
南の島国の族長の息子として生まれながらも、幸福だった頃の記憶も家族の顔もおぼろにしか浮かばない。戦に負け、父や兄たちを殺され、母や姉妹と別れ別れに売り飛ばされた時、絶対に復讐すると誓ったのだ。復讐には情など要らない。要るのはただ、力だけ。だが、いくらそう思っても、ただの奴隷少年に過ぎなかった彼に何をなせる訳もなく、ただ毎日の重労働を終えては死んだように眠るしかない毎日。絶望を感じていた時に、不意に差し伸べられた腕。
『そちは南国の出身か? 言葉は解るのか? ふむ、利口そうな眼をしておる。我が末息子が退屈しておる。相手せよ』
大きな大きなひとに見えた。一瞬の間の出来事だった。たったそれだけ言うと、アロール・バロックはもう興味を失ったように去って行った。「若君のお相手に奴隷の子など……」と誰かが遠慮がちに進言していたが、「よい、役に立たねば放り出せばいいだけだ。一時の退屈しのぎにはなろう」とバロック公は機嫌のよい声で言っていた。
ザハドの前に立っていたのは、にこにこしている同じくらいの齢の少年だった。見た事もないような上等の服を着た、茶褐色の髪の可愛らしい少年。何の苦労もした事のなさそうなあどけない表情。
『よかった! お父さまがご機嫌がよくって。だいぶぶたれていたね、大丈夫? 今、膏薬を持ってこさせるからね』
嬉しそうな少年を前に、ザハドの胸には解放された喜びに入り交じり、黒い影がさす。何なんだ、この差は? 同じくらいの年齢なのに、片や我が身の自由の欠片も持たぬ奴隷、片やただの好奇心で簡単に人間ひとり手に入れられる貴族の子……。
『ザハドと申します。どうかよろしくお願い致します』
平伏しながらも、少年に対する敬意や謝意は感じ難かった。今思えば随分不遜だが、彼はティラールに嫉妬していたのだ。反面、彼の身柄を買い取ってくれたバロック公はまさに神のごとく思えた。
(あの方こそ我があるじ、我が神にも等しいお方……)
奴隷の彼の主人だった商人は、自称敬虔なルルアの使徒。その方が商売がやりやすかったからだ。異教徒である奴隷達にも毎朝ルルアへの祈りを唱えさせていたが、その教えはちっとも心に響かなかった。ルルアがもし実在するなら、なぜ自分にこんな酷い運命を与えたのか。ザハドにとっては、ルルアよりもずっとバロック公の方が神だと思えた。
「こんな事をしても何にもなりません。若は事故で亡くなったと報告すればいいだけなのですから!」
「そうか。なら仕方ないが、そう報告すればいい。とにかく、必ず届けると誓ったこの書状をおまえに渡して、俺はそのままのうのうと生き続ける訳にはいかない! 俺は初めての、そして最後となる本気の誓いが果たせない事に命をもって購う!」
言い放つと、ティラールはまた己の舌を噛み切ろうと力を込め始めた。苦痛に顔が歪み、口の端から血が流れる。
「やめなさい! わかった、わたしの負けです!」
ザハドは思わずそう叫んでいた。