2-47・蛇と蝙蝠
ユーリンダを襲った男は顔を押さえたまま、人通りのない暗い道をよろめきながら歩いた。ルーン公私邸からそう遠くはない場所だが、普段から人けが少ない。加えてこの豪雨、夜中に出歩く者に出くわす可能性は極めて低く、最初から、魔道を用いて脱出する際はここと決めておいた辺りだ。が、目標地点からは少しずれが生じてしまった。雨に打たれながら男は暫く歩いてようやく別の小さな路地の入り口まで辿り着いた。灯りは殆ど点っていない、まともな者なら昼間でも足を踏み入れるのを躊躇う淀んだ街角……。だが男は躊躇いもなく路地へ踏み込むと、そのまま進んで闇に溶けるようにふいと一軒の家へ入った。
公爵家私邸付近は殆どが整備され、小貴族や富商の館が建ち並ぶ瀟洒な町並みだが、北西のこの区画だけは大昔からの家並みが残っている。表向き法に触れてはいないが明るみにも出せない……そんな怪しげな商店、占いと称した魔道所、何でも請負屋……そうした者たちがギルドを作り、手出しを拒んできたのだ。通称裏小路、まっとうな市民を自負する者なら決して近寄らない場所。代々のルーン公が、何とか立ち入って健全な場所にしたいと抱負を持ちながらも、難題として抱えたままになっていた所だ。アルフォンスはこの問題に積極的に取り組んできた為、ここの住民たちからは元から疎まれていた。とは言えど、表通りに近い数軒が摘発されて潰れただけで、それ以上の成果はなかなかに難しかった。奥まってゆくほど、アルマヴィラ建都以来その実態が明かされぬ魔窟となっているのだ。
家は狭く、入ってすぐの部屋には四方の壁には棚が隙間なく置かれ、魔道書や呪器など怪しげなものが詰め込まれている。中央のテーブルに向かって座り、魔道書を読み耽っていた男が、気配に顔を上げた。
「蛇!」
男は声を上げたが、それは火傷を負った男を心配する声ではなく、怒りの声だった。同じように黒衣を纏っていたが、この男は蛇と呼ばれた男よりやや年かさで少し背が低く、白いものの混じり始めた口髭を生やしていた。
「蛇、貴様なにをしたのだ?! それはただの火傷ではないな? あれ程勝手な手出しは禁じられていたのにまさか……」
「別に、かの姫を殺した訳ではありません……場合によってはそうするつもりではありましたが」
焼け爛れた蛇の顔面を歳上の男は躊躇もせず殴った。
「何を考えている?! あれ程若君から禁じられていた事を! 姫を殺していたら、貴様も儂もただの『処分』だけでは免れまい!」
「それは、すみませんね、蝙蝠どの……しかし、私はただ若君の御命を忠実に聞く事だけが忠誠とは思っていないのですよ。若君はまだ年若く未熟な面もあられる。だから我々が補佐して差し上げねば、下らぬ感情に囚われ、獲物を逃してしまう事だってあるかも知れない。尊師もそんな事を仰っていたではありませんか」
「つけあがるな、貴様などただの小者に過ぎぬのに!」
蝙蝠は蛇の胸ぐらを掴み上げた。だが蛇は無表情のままで応えた。
「今の若君にはまだまだ本当の忠心を持って尽くすしもべと呼べる存在は少ない。小者と言えど、自らの保身を真っ先に考えた蝙蝠どのよりはお役に立てるつもりでいますよ」
「……!」
蝙蝠は怒りに顔を赤く染めて蛇を睨み付けていたが、やがて気を変えて掴んだ手を離した。
「わかった……あくまで裏切りではなく忠心から出た行為だと言うのだな? 儂とて、本当に忠心を示せる時が来たなら、こんな命なぞ何の惜しみもない。その傷、癒やしてやるから全て話せ。但し、聖炎で焼かれた傷は元には戻らぬぞ。醜い傷跡は……」
「解っています。ルルアの呪い、生涯この身に刻印として残しておきましょう」
そこで蝙蝠は禁じられた闇の呪文を唱え始めた。ルルアの信者には害をなす禍々しい呪も、魂まで闇に捧げた使徒には癒やしとなる。蛇の、じくじくと水疱から汁が滲み出る爛れた傷は徐々に乾いて、赤くひきつれた薄い皮膚がそこを覆い始めた。すると痛みも徐々に和らいだ。
「ありがとうございます」
蛇は律儀に礼を言う。蝙蝠はふんと鼻を鳴らして座った。蛇は二人分の茶をカップに注いでテーブルに置き、もう一つの椅子にかけた。
「それで? 何がわかったのだ?」
「私は、かの姫の力を知りたかった。無力なら今後の邪魔になるばかり。だがある程度の力があるなら洗脳して利用する事も出来るだろうと思いました。そして、脅威になる力なら、今のうちに消すべきかと」
「……それで」
「正直、迷っています。私は幼子のように世間知らずな様子に苛立ち、半ば本気で殺そうとしました。その結果がこの傷です。私は防御の印を結んでいましたが、死に瀕して目覚めた力に負けました。だが私を殺すには至らなかった。それどころか、苦しむ私を見て、もういい、と叫び、聖炎を弱めたのです……恐らく無意識に。とにかく吐き気がする程甘えた娘ですが、確かに本人も気づいていない力はあるようです。それがどの程度のものなのか測るつもりでいましたが奥底まで見極めるに至らず、結界が解けてしまい、逃げ戻った次第です」
「……それでは、眠っていた力を引き起こす手助けをしただけのようなものではないのか?」
「結果的にはそう言えるかも知れません。しかしあの性格では、力を自ら使おうとはしないでしょう。力なんか怖い、と言う体たらくでしたから。そこに操る隙があると思います。しかし危険な賭かも知れない」
「とにかく、尊師に報告して指示を仰ぐしかない。まったく、勝手な真似をしたものだ。いずれにせよ、若君のお怒りは覚悟しておくのだな」
「それはわかっています」
その時、すいと扉が開いた。この家の扉には結界が張られていて、許されざる人物は立ち入る事は出来ない。二人は振り向いて訪問者を見た。
「ザハドさま」
二人は立ち上がった。ずぶ濡れのマントから水を滴らせながら、浅黒い顔に険しい表情を浮かべて入ってきたのは、ティラールの従者ザハド。
「なんだ、蛇どの、その顔は」
怪訝そうに言ったが、蛇が答えるより先にせわしなく言葉を継いだ。
「火急の用だ。一緒に来てもらいたい」
「何事でございますか」
「影からの報告だが、若が例の件に関する情報をルーン公から得たらしい」
「何ですと!」
蛇と蝙蝠の顔に喜色が浮かんだ。
「どのような情報なのですか?」
「それはまだ判らない。大事な書状を託された、としか。しかし、金獅子の目を避ける為にあえて若に託すという危険を犯すくらいだから、恐らくあの件に関わる事だろう。とにかく、早く館に来てくれ」
「ルーン公は一命をとりとめたという事ですか」
「そのようだ。だが若に書状を託すなど、死にかけても馬鹿は治らぬらしい」
嘲笑うようにザハドは言い、さっさとまた扉の外へ出て行った。後を追いながら蛇と蝙蝠は、
「これぞダルムのお導き」
と囁き合った。
光の神ルルアと真逆の存在、闇を司る神ダルム。
ルルアの聖典によれば、
「『古の大神』により神々が生み出された時、ルルアとダルムは双子の兄妹神として、他の神々の上に立つべき神となるべく誕生した。ところがダルムは自らが頂点に立つ為、妹のルルアを殺そうとした。その為に『古の大神』の怒りに触れ、永遠に闇と氷に閉ざされた場所に堕とされ、そこで罪深き死人を責め苛む役目を負わされる事になった」
とある。『古の大神』とはいわば『神の神』であり、人の世と関わる事は一切ないとされる。
ダルムは『忌まれる神』ではあるが、神格は持っており、世の人々はダルムに対し畏怖を感じ、何かの罪を犯してしまった時、ルルアに許しを乞うと共に、ダルムにどうか呼び寄せないで下さい、と祈るのだ。
だが、ルルアこそ邪神であり、ダルムが正当な神々の支配者であると主張し信仰する者もいるという。人はそうした者を、邪教徒と呼ぶ……。