2-46・襲撃
アルマヴィラは連日の豪雨に見舞われていた。まるで私の涙みたい、とユーリンダは思った。母と引き離された後は、状況は何も変わらないまま数日が過ぎた。
アトラウスとローゼッタだけが毎日会いに来てくれる。アトラウスは優しく慰め、今までと同じように額に軽くキスをしてくれる。でも忙しいらしく、あまり長くはいてくれない。ローゼッタは少しでもユーリンダの気持ちを引き立てようと、面白おかしな話をしてくれる。でも彼女の目は笑っていない。鈍感なユーリンダも数日も続けば流石にそれが解るようになった。だがローゼッタの痛みが、アトラウスへの愛からくるものだとは夢にも思わない。ローゼッタは私を哀れんでいるのだわ、とユーリンダは思った。ローゼッタがもたらした、ティラールが父の見舞いに行ったという話だけが、彼女の心の唯一の拠り所だった。ティラールさえ戻れば、知らない間に既に父は死んでいるのかも知れない、という毎夜の苦しみからは少なくとも解放される。父が旅の半ばで死ねば自分に死罪が及ぶ事はない、などという計算は勿論ユーリンダにはないし、誰かが教えたとしてもそれを願う事などあり得ない。それは、無論父を愛しているからでもあったが、それよりも、自分が処刑されるなどという未来を想像する能力に欠けているせいが大きい。彼女はただただ幼子のように、何もかもが元通りになりますように、と儚い願いを込めて日夜ルルアに祈った。
カレリンダがいなくなって七日目の晩の事だった。
相変わらずの豪雨の中も、金獅子騎士の監視は緩みない。ユーリンダはオリアンが大嫌いだ。母や兄へ文を書けばすかさずやって来て検閲する。早く会いたい、というような他愛もない内容なのに、嫌みな目で、何かの陰謀が隠されていないかと、じっくりと検分するのだ。
夕餉もいつも一人で侘びしい。エリザやマルタが気を遣って色々話しかけてくれるが、何を食べてもろくに味もしない。最後に家族で食卓を囲んだ時の事を思い出そうとしたが、いつだったのかよく思い出せない。食事時も金獅子騎士がいつも一人は部屋の隅に控えていて重苦しい。
寝る前の祈りを済ませてから、ユーリンダはふかふかの寝台にもぐり込んだ。枕に顔をつけると、また心配事がどっと溢れてきて涙が零れた。
(お父さま……お願い、早くご無事で帰ってきて……)
彼女は、昔アトラウスから聞いた話を思い返した。主人公の少女の裕福な両親が旅先で亡くなり、少女は欲深い人たちから辛い仕打ちを受けるものの、実は両親は生きていて、たくさんのお土産を持って帰って来て、悪者たちは罪を裁かれた、という単純な昔話だ。だが最近、ユーリンダは頭の中でこの話の主人公になりきりながら眠る事が習慣になっていた。今は辛くても、その分後からいい事があるんだと信じなければいけない。自分は何も悪くないのだから、お話の結末は幸せなものである筈。
枕を涙で濡らしながらも、うとうとと微睡みかけたその時、ユーリンダは何かが室内で動く音を聞いた。
(……なに?)
耳を澄ませると、押し殺したような息づかいが聞こえた。誰かがこの部屋にいる。
寝る前には確かに異常はなかった。外のバルコニーの下には金獅子騎士の見回りが、次の間には当番の侍女がいる。誰も入り込める筈もないのに! ユーリンダは恐ろしさに震えた。早く助けを呼ばなくてはと思うのに、恐怖で声も出ない。声を出せば即座に襲いかかられそうな、きんと張り詰めた空気が冷え冷えと室内に満ちている。
(ルルア……どうかお助け下さい!)
侵入者は父を陥れようとする何者かなのだろうか? いずれにせよ、禍々しい邪気を発しながら室内に潜んでいるその者が、善き者である筈もなかった。ユーリンダは布団の衣擦れの音を立てぬよう震える手でルルアの印を切った。すると、暗がりの中でゆっくりと人影が動いた。
「何をそんなに怯えておいでですか」
聞いた事のない低い男の声がした。自分の寝室に知らない男が侵入しているという現実に、これ以上気づいていない振りを続けるのは難しかった。ユーリンダは飛び起きて扉へ駆け寄った。
「マリース、マリース、助けて! 誰かいるわ! マリース!!」
扉の向こうの次の間に控えている侍女に助けを求めて、ユーリンダは泣き喚きながら扉を開けようとした。だが、扉はびくともしない。こちらからしか施錠できない筈なのに。そして扉の向こうからは微かな物音すら聞こえない。
「無駄ですよ。結界を張っていますから。聖炎の神子がいなくなって守護の魔道が緩んだとはいえ、ここまで簡単に侵入できるとは思いませんでした。本当に姫君はご自分を護る術を学んでいらっしゃらないのですね」
長身の影が静かな口調で語りかけながらゆっくりとユーリンダに歩み寄る。暗がりの中では、ただ男の身体の輪郭が黒い塊となって見えるだけだ。
「こ……来ないで! なんなの、あなたは?! は、早く出て行きなさい!」
扉を背に、薄い寝衣のまま膝を震わせながらも精一杯の勇気を見せてユーリンダは叫んだ。だが男は動じる風もない。
「姫よ、これから世は動乱に満ちる。弱いという事はただそれだけで生きる事を許されない罪となる時代が来るのです。ただの庶民の娘なら、逃げ惑って生きようと足掻けば身を隠す場所もあるかも知れない。だが貴女は違う。次期聖炎の神子でありながら、ただ安穏と護られるだけで何の力を得ようともしなかった。弱き神子など存在の価値はない。死になさい」
混乱したユーリンダには、男の一言一言の重みがすべて理解できた訳ではない。ただ、「死になさい」という言葉だけが胸を抉った。
「いやよ! どうして弱いと死なないといけないの?! お父さまが、アトラが、ファルが護ってくれるもの……私は女だもの……力なんていらない! 力なんて……怖い!」
「姫の家族がそうして姫を駄目にしたも同じこと。その結果どうなりましたか? 父上は死の淵を彷徨い、他の二人もここにはいない。誰も貴女を助けてくれない。他人の力などに縋ったからこうなったのですよ。男も女も関係ない。自分の身は自分で護らないと」
くっくっと男が笑った。何が可笑しいのかユーリンダにはさっぱり解らない。ただ、どうにかして逃げて助けを呼ばなければ……そればかりを考えていた。
男はゆっくりと歩み寄ってくる。裸足のままユーリンダは男との距離を縮めないようじりじりと壁際を伝った。その時、窓の外で眩いばかりの稲光が走った。一瞬、男の姿が光の中に浮き上がる。黒衣を纏った痩せた男だった。獲物をいたぶるような愉悦を湛えたその瞳は闇と同じ色。
「あなた……アルマヴィラの者なの?」
喘ぐようにユーリンダは尋ねた。男はやや不思議そうにユーリンダを見返した。
「確かに生まれはアルマヴィラだが、それがどうしたのです?」
「アルマヴィラの者が私に……ルーン家に仇なすなんて! お父さまの民がどうして……!」
今度こそ本当に声を立てて男は笑った。完全に馬鹿にしたような笑い方だった。
「そんな考えでいるから駄目なのですよ。生まれや育ちなど関係ありません。何を信じるか、どうしたら強くなれるか、それが全てです。貴女がルーン家の姫君だからといって、私に何か与えてくれたのですか? 貴女の父上は確かに優れた領主だった。だから民はルーン公を敬愛していた。だが今はどうです? 皆が疑心暗鬼に駆られている。つまり、ルーン公、ルーン家……大事なのはそれではなく、『優れた領主』『力ある領主』なのです。足下を掬われて獄に繋がれるような間抜けな領主など要らないのです」
「なんてことを! お父さまは間抜けでも罪人でもないわ! そんな事を言うのはおまえだけよ!」
怒りに震えたユーリンダの黄金色のひとみは、思わず恐怖も忘れ男を睨み付けた。男はユーリンダを怯えさせたり怒らせたりする事を寧ろ楽しんでいるようだが、彼女はそれには気づかない。
「お喋りは終わりです。早くルルアのところへ行きなさい。お父上が待っているかも知れませんよ」
「お父さまは死んでなんかいないわ!」
男はついと進んでユーリンダに近づいた。壁際に追いつめられた彼女にはもう逃げ場がなかった。
「どういう死に方をお望みですか? その細い首をそこのカーテンの紐で絞めましょうか。それとも両手で折って差し上げましょうか?」
男はゆっくりとユーリンダに向かって手を伸ばした。涙をぽろぽろ零しながらも、ユーリンダは男を睨み続けていた。
「おまえなんかに殺されはしないわ!」
叫ぶなり、ユーリンダは傍の花瓶を男に投げつけた。花瓶は男の腕に当たり、その僅かな隙にユーリンダはさっと身を翻して今度はバルコニーに向かって駆け出そうとした。
だが次の瞬間、男は背後からユーリンダの髪を掴んで引き寄せ、強い力で彼女を床にねじ伏せる。
(……っ!!)
後頭部をいやという程床に打ち付け、息もつけないでいると、男は仰向けに倒れたユーリンダの華奢な身体に馬乗りになり、先の言葉通りにその指を細首にぐいぐいと食い込ませてきた。生まれて初めて受けた暴力に、あまりの痛みと苦しさに、ユーリンダの意識は遠のきかけた。
(アトラ……私、死ぬの……?)
(いやだ……死ぬのは、いや……ルルア……)
「ぐああっ!!」
次に起こった事が何なのか、すぐにはユーリンダには解らなかった。男はユーリンダから手を離し、顔を押さえて苦悶している。男の上半身を、黄金色の炎が包んでいる。それはユーリンダにとっては熱くもなく……。
(……聖炎!)
ようやく呼吸が自由になり、ひどく咳き込みながらもユーリンダはよろよろと身体を起こした。今度は恐怖からではなく、絞められた首の痛みに涙が出たが、それでも何とか立ち上がって、男から離れた。
ルルアの信徒には何の害もない温かな炎が、男の顔面を焼き焦がしている。邪な者だけを拒み焼き尽くす、ルルアの聖炎。
(私が……やったの……?)
ユーリンダは呆然として悶え苦しんでいる男を見つめた。聖炎が実際に人を傷つける所など見た事もなかったし、身を護る手立てになるとも思いもしなかった。そもそも、儀式の為に聖燭台に灯す事を少しずつ学んでいるところで、祈祷もせずに聖炎を出す事が出来るとすら知らなかったのだ。
男はよろめき、苦しみながら膝をついた。肉の焦げる嫌な臭いが漂う。
「もういい、もういいわ!」
思わずユーリンダは叫んでいた。このままでは男は死んでしまう。殺そうなんて思ってなかったのに! その時、何かが弾けるような音がした。
ぱぁん……というような音と共に、外界のざわめきが戻ってきた。男の張った結界が消えたのだ。
「姫さま、姫さま!!」
既に異変を察知していたらしい侍女たちや金獅子騎士が扉からなだれ込んできた。人々は、聖なる炎に包まれた男を見た。
「ろ……狼藉者!」
咄嗟に叫んだのは、乳母のマルタ。マルタは一目で大体の状況を悟り、金獅子騎士がこれがユーリンダのした事と気づく前に何とか気を逸らそうとしたのだ。確かに誰が見ても、不審人物が姫君の室に入り込んでいるのは明らかであったので、騎士達は厳しい顔で男を取り囲んだ。だが、男を包む炎は徐々に消えつつあった。男は低く何かの呪を唱えていた。
「……貴女の力、しかと見せて頂きましたぞ」
ユーリンダに向かって男は言い、不意にその姿が闇に溶けるように揺らめき始めた。
「呪いを使うぞ! 早く取り押さえろ!」
オリアンが叫んだが、部下たちが飛びかかるより先に、男の姿はかき消えていた。
「姫さま、姫さま、ご無事でよかった!」
マルタはユーリンダを幼子のように抱きかかえて涙を流した。ユーリンダもまた子供のように乳母に抱きつき、声をあげて泣いた。