2-45・アルフォンスとティラール2
「父に、ルーン家の婿となり、必要に応じて情報を流すように、と命じられました。放浪の旅にも少し飽きてきていたし、そんな重要な立場になって父の為に役立てるのなら悪くない、と思いました。わたしはそれまで、口説き落とせなかった女性などいなかったし、美しいと評判の次期聖炎の神子の夫にならなってもいい、となどと考えながらアルマヴィラを訪れたのです。しかし勿論すぐに、わたしは自分が如何に世を知らず高慢であったかを思い知りました。ユーリンダ姫ほどに美しくかつ意思固く無欲な女性がおられようとは」
「娘は世間知らずなだけなのです。わたしも甘やかし過ぎてしまった。嫁ぐ日まではわたしが護ってやればいい、そしてあの娘を生涯かけて護れる夫と娶せてやればいい……そんな考えでいつまでも子供扱いしてしまっていた。このルーン家最大の危機にあって、あの娘は次期聖炎の神子の身でありながら、自分を護る術を、そして自分の責任をまるで知らない。本当に後悔しています」
これはアルフォンスの本心からの言葉だった。先程ウルミスは遠慮して詳しく言わなかったが、カレリンダと引き離されてどれ程幼げに泣いた事かと易々と察しはつく。
「しかし、殿下がそうして慈しみ護ってこられたからこそ、あのように世に二つとない純真で美しい花が咲いたのではありませんか。姫の無垢な有り様は……そう、芸術に等しい」
アルフォンスは苦笑した。
「どんなに美しい花も、手折られればすぐに枯れてしまいます。わたしはその危険を考えなさすぎました。……しかし過ぎた事を悔いても仕方がない。無力な今のわたしには、娘どころか自分の身ひとつ護る術がないのですから。今のわたしが娘にしてやれる事と言えば、ルルアに祈る事くらいです」
「ご自身の幸運は祈られないのですか?」
「わたしの無実の証明は事実によってつかみ取るべきもので、幸運によってもたらされるべきものではありません。それよりも、もしもわたしが大きな力の前に敗れ去った場合に、卿やアトラウスが娘を助けて下さる事を、その成功を祈りたいのです。陛下が娘にも死を賜られるのなら、それを受け入れるべきなのでしょう。しかし、わたし自身は忠誠の証として無実の罪の為に死ぬ事を厭わずとも、娘までその為に死なせるには忍びないのです」
「『大きな力』とはなんですか? わたしの父でしょうか?」
単刀直入にティラールは問うた。
「わかりません」
アルフォンスもまた率直に言った。
「正直に申せば、その『大きな力』のひとつが宰相閣下であるとわたしは考えています。わたしは宰相閣下が悪意をもってわたしを陥れようとなさっている、とは言いません。ただ、宰相閣下は閣下なりの理由でわたしを葬ろうと考えておられると思います。これが、卿がお尋ねされたわたしの本心です。わたしにはひとつもやましい行いをした覚えはないが、宰相閣下はわたしを消す事が閣下にとっての『正義』と思っておられるのだと思うのです。その理由をわたしは知りたい。いったい、卿をルーン家に婿に出してまで、宰相閣下が欲しがっておられた我が家の情報とは何なのですか?」
「……」
暫く瞑目してティラールは考え込んだ。何をどう言い繕うかではなく、どう受け止めればいいのかを考えているようだった。やがて、彼は口を開いた。
「よく解りました。お話し下さりありがとうございます。益々殿下の無実を確信致しました。わたしがこれまで思っていた父は曲がった事を許さぬ正義の人。しかし、父の正義と殿下の正義はいま、大きく違えているのですね。父は大義の為には犠牲もやむなし、と考えるところがあります。この点は、昔からわたしには受け入れがたいところがありました。何の為であろうと、罪なき人が犠牲になってよい筈がない、とわたしは思います。だから、殿下をお助けする僅かな力添えになるのなら、思いつく事はすべてお話しします。しかし父の知りたい事は、詳しくは解りません。わたしがユーリンダ姫の夫となり、ルーン家の方々の信頼を得てから徐々に明かされる筈だったからです。わたしの求婚を断られた後、それでもわたしがまだアルマヴィラに滞在して姫のお心を引きたいと願うと父は、それで姫から何か情報を引き出せる可能性があるなら暫くは許そう、と言ってきました。正直意外でした。あの体面を重んじる父の事だから、これ以上恥を晒さずにすぐに戻れ、と言うだろうと思ったのです。しかしそれでも、具体的にわたしに何を探るべきなのか、という指示はありませんでした。ただ得た情報はすべて送るようにと……」
ティラールがこれ以上隠し事をしているとはアルフォンスは思わなかった。となると、結局肝心な事は何もわからない。ティラールがユーリンダから何か意味のある情報を引き出せたとは思えない。そもそもユーリンダはまだ殆ど何も知らないのだから。次期聖炎の神子として、儀式や式典のしきたり、それに伴う魔道については学んでいるが、実際にやった事はない筈だ。そして、代々の聖炎の神子のみに伝わる秘伝などは、実際の継承の時期が近づいてから母親から教えられる事になっていた。初めの聖炎の神子エルマ・ヴィーンから長々と受け継がれてきたものを。
思えば、聖女アルマとエルマが双子として生を受けて三百年。そして厳然として保たれてきたそのふたつの血筋が交わって生まれた子供たちがまた双子……これには何かルルアの意図が働いているのだろうか?
バロック公が欲している情報がアルフォンスの危惧するものであるなら、それはどうしても渡す訳にはいかない。大神官、聖炎の神子、ルーン公爵の三者以外知るべきではない秘密。しかし自分は今その手がかりをまさに、バロック公の息子の手に委ねようとしている。そんな危険は犯すべきではないとわかってはいる。少なくとも大神官は安泰であるのだから、秘伝が途切れる心配はない。しかしそれでもかれは、それをファルシスに残しておきたかった。大神官ダルシオンの一手に握らせてはいけないと感じていた。ファルシスもまた、自分と共に消される運命にあるとしても、それでも……。
(もしこの選択が間違っていたら、次に本当に死ぬ時はもうルルアの国へは行けないだろう)
ルルアの造反者としてダルムの闇獄に繋がれる事になるかも知れない。そう思うと、感じた事のない種類の恐怖が胸を締めつけた。それでもかれは意を決して言った。
「ティラール卿、話してくれてありがとう。わたしはあなたを信じます。ところで、もし今、わたしがあなたに、まさに宰相閣下が求めるものを託し、決して封を解かずに息子に渡して欲しい、とお願いしたら、あなたはそれを息子に届けてくれますか? それともお父君に届けますか?」
「えっ……」
唐突な申し出に驚いたティラールは、咄嗟に返事が出なかった。
(ほら見ろ、迷っているじゃないか。そこまではっきり言わなくてもいいものを)
立ち聞きしているウルミスはアルフォンスの率直さに苛立ちを感じる。だが、ティラールは迷った訳ではなかった。
「そんな大事なものをわたしなどに預けると仰るのですか?」
「そう……金獅子騎士を介するとそこで検閲が入る事になる。それでは困るのです。だから自由な身の卿にお願いしたい。どうですか? もしお父君に知れたら卿は不興をかうでしょう。だから断って下さっても構いません。ただ、中身を見られると、わたしは勿論のことだが卿の身にも危険が及ぶかも知れない。だから、どうか正直にお答え頂きたい……正直なお答えを下さると信じています」
「殿下がわたしを信じて託して下さるのであれば、わたしは必ずやそれをファルシス卿に届けます。勿論、中は見ずに。そういうお役に立ちたくて、わたしは来たのですから!」
ティラールは頬を紅潮させて叫ぶように言った。
「中を見なければわたしは情報を知った事にはならない。だから父に届ける義務もない訳です。殿下も父も、どちらも裏切る事にならない。そうでしょう?」
ティラールらしい単純な計算だったが、アルフォンスは微笑した。
「そうですね。本当に感謝します。きっとそう言って頂けると思っていました」
アルフォンスは弱々しい手つきで懐から書状を取り出した。きちんと封蝋をしてルーン公爵の印を押している。ティラールはそれを受け取り、丁寧に懐にしまった。
「命に代えてもしかと届けます。他に、伝言はありますか? 姫や他の方々にも」
「息子には、次期ルーン公として恥じぬよう振る舞えと、そしてわたしを越える人間になれと。娘には……離れていてもいつも心は傍にあると。妻には……いや、卿が大神殿にいる妻に面会を求めるのは不自然だからやめておきましょう」
そう言ってから、アルフォンスは暫し考え、言おうか言うまいか迷った挙げ句にこう口にした。
「アトラウスに。わたしは死にかけてルルアの国の門まで行き、そこでシルヴィア……彼の母上に逢った。あれは決して夢ではない。シルヴィアはわたしを助けてくれた。ルルアの門から現世に帰るよう背を押してくれた。だから。きみも母上に倣ってどうかユーリンダを助けてやって欲しいと。……卿にとってはアトラウスは恋敵、不愉快であればこれは無視して頂いても構わない。伝えるべきかどうか、わたしも迷う事だから」
「いいえ、そんな……そんな事があったのですね。ルルアの国の門……そんな神秘的な事が。アトラウス卿がわたしと会って下されば、お伝えします。難しければローゼッタ嬢を通じてになるかもしれませんが」
「どちらでも構いません。卿の厚情には本当に感謝するしかない。卿の娘への求婚を断ったわたしをどうか許して頂きたい」
「許すも許さぬも、お断りされたのは姫ですし、原因はわたしの力不足なのですから、殿下をお恨みする気持ちなど最初から持ち合わせておりません」
ティラールは破顔した。アルフォンスも微笑んだ。
こうして会談は終わり、ティラールは大事な書状を懐にアルマヴィラ目指して戻って行った。長く喋りすぎた為にアルフォンスはまた熱を出し、ウルミスに叱られる羽目になった。だが、アルフォンスの体調は日に日に回復の兆しを見せてきた。