2-40・ウルミスとティラール 2
「おお、ルーン公閣下はもうそのようにご体調がよろしいのですね!」
ティラールはぱっと顔を輝かせて立ち上がろうとする。ウルミスは慌ててそれをとどめた。
「お待ち下さい。ルーン公は先程ようやく昏睡状態から醒めたばかりなのです。ご面会はどうかせめて明日以降に願いたい」
「しかし、ルーン公閣下ご自身がわたしに会いたいと……」
「ルーン公は長く伏せっておられた事で気が急いておいでなのでしょう。まだそんなに体力が回復されておられません。今すぐの面会は、わたしが許可しません。ルーン公のお身柄に対する責任はわたしにあるのですから」
ウルミスは言い切った。アルフォンスはまだ意識があやふやなのだろうと思った。今の病み衰えた姿を他人に、しかも敵の息子に見られたいとは、正常な神経では思う筈がない。
「そんなにお加減がお悪かったのですか」
不満げな顔をしながらも、ティラールは一応納得したらしく座り直した。ウルミスは扉の向こうの部下に、自分が後で行くと言えと命じた。
「そうです。猛毒を盛られて……あんなに公が慈しんでおられた自らの民によって。まだ裁判の結果が出たという訳でもないのに、愚かな逆恨みをしたようです」
「なんとお気の毒な。わたしは公の無罪を信じています。わたしは半年間もアルマヴィラに滞在させて頂き、公の高潔なお人柄はお傍で見てよく判っています。忌まわしい犯罪になど手を染めるようなお方では決してない」
「……」
ウルミスは咄嗟に返答しかねた。これがこの若者の本音であるなど、あり得る事だろうか? バロック家の息子ではあるが、家を出たも同然。勘当されている訳ではなくとも家の事情を何も知らされておらず、本当にユーリンダの為だけに動いている、と信じられようか? すると、ウルミスの表情を見てティラールは静かに言った。
「なぜ、わたしがルーン公を擁護すると皆そのようなお顔をなさるのか、わたしには訳がわかりません。わたしの言っている事はおかしいでしょうか? 騎士団長閣下はルーン公殿下を有罪と思っておられるのですか?」
ウルミスは虚をつかれた態で相手の顔を見直した。誠実で真剣な眼差しだ。
「いや、わたしは公の無実を信じています。長年の付き合いです。半年で卿が感じられた事なら、わたしはその40倍も感じているのです。約20年前から公と親しくさせて頂いているのですから。卿の言葉は何もおかしくはない。ただ、正直に申して、卿のお立場からそのようなお言葉が出るとは意外だと思っただけです」
「わたしの立場とは、バロック家の一員ということですか? 確かに、公がユーリンダ姫に対するわたしの求婚をお断りになったことで、父は怒ったようです。しかし、姫があの時既にわたしよりアトラウス卿を愛していたというのは、長年の絆もあるそうですし、仕方のない事です。その後、あらゆる言葉や態度でわたしは姫に、アトラウス卿よりわたしの方が姫を幸せにする覚悟だと示してきました。それでも姫がわたしになびいて下さらなかったのは、すべてわたし自身の至らなさゆえのこと。ルーン家とバロック家の間柄に多少のひびが入ったとしても、父がその為にルーン公を陥れようとしている、と思われているなら、それはあまりに父に対する誤解が過ぎるというもの。父は曲がった事を許さぬ気質です。わたしは父へ、ルーン公を擁護して欲しいと書簡を送りました。返事は受け取っていませんが、父がルーン公と話して公の無罪を感じたら、きっと国王陛下に取りなしてくれると思います」
「本気ですか」
思わず礼儀も忘れてウルミスは不躾に問うた。
「勿論です」
ティラールはきっぱりと言った。ウルミスは頭の中を整理しようと必死だった。この若者は真実の思いを語っているのか? 別の目的を隠し、下手なやり方で自分は味方である振りをしようとしているのではないか? そもそも本当に彼はバロック公の息子なのか? もしも間諜であるなら、こんな馬鹿な事を語って何の利があるのか?
ウルミスは、あの衝撃の日、カルシス・ルーンが実の兄を国王の前で告発した日の宰相の様子を直に見たのだ。いくら証拠を添えての告発であるにせよ、アルフォンスを知る者には荒唐無稽とさえ思える告発を王妃の一言で鵜呑みにし、少し前まで寵愛していた重臣の首をとって持って来いと喚く国王をラングレイ公と共に必死で宥めている間、バロック公は一言も口にせず、冷ややかな視線を送っていた。動揺もせず。理も説かず。この騒ぎが起きる事を予め知っていたようにしかウルミスには思えなかった。
『宰相閣下。あなたからも陛下に仰って下さい。不仲な身内の告発を鵜呑みにして一方的に七公爵の一人を死罪にするなど、どれだけ秩序が乱れ、また陛下のご高名にも傷が付きかねぬかと。七公裁判を行うべきです!』
ラングレイ公が思いあまって彼にそう言ったものの、バロック公は表情を動かす事もなく、
『全ては陛下がお決めになる事。儂はいちいちお諫めするような身の程をわきまえぬ口は持たぬ。陛下が一旦仰った事ならそれがすべてだ。我々は皆、陛下の忠実な臣であるのだから』
と突き放したのだ。日頃王妃を通じて国政に関わる様々な案件に対する国王の判断を影から操っている事は、国王に近い者は皆知っている事なのに。直接進言しても、その効果は多大である事は明白……それなのに沈黙を保つとは、あわよくばこのままルーン公死罪が定まってしまえばいいと思っているとしか考えられない反応だった。普通の人間ならラングレイ公の言う事の方が全て正論と当然感じる筈なのに。
その場は何とか裁判を行う方で収まったものの、ラングレイ公は憤懣やるかたない様子で後からウルミスにそっと言った。
『宰相は本当に陛下を良き道に導くおつもりがあるのだろうか? こんな時にこそ諫言せずしてどうする。公正な裁判も行わずに七公を処刑など、恐怖政治の始まりだ。陛下はまだお若いから一時の感情で仰ったこと、理を説けば判って下さったのに、それに手を貸して下さらぬとは、どういうおつもりなのか』
ラングレイ公も薄々感じていたのだ。この件に予め宰相の意が関わっていない筈がないと。
腹の探り合いはウルミスの得意とするところではない。ウルミスは率直に言った。
「わたしはルーン公が告発されたその場におりました。国王陛下は王妃陛下の進言により、即ルーン公を討つよう仰せでした。宰相閣下とてルーン公のお人柄はよくご存じの筈であるが、わたしとラングレイ公殿下が必死で陛下を宥めている横で、宰相閣下は素知らぬ風でおられました。いくらご子息の頼みでも、宰相閣下がルーン公の為にお取りなし下さるとはとても思えません」
機密事項である。ウルミスの額に汗が滲み出る。宰相の意を受けて来た者であるなら知っている筈の事ではあるが、それでも、口に出すのはかなり危うい事だ。
「リーリアが! あのじゃじゃ馬……」
言いかけてティラールは流石にはっと口をつぐんだ。歳の近い叔父と姪の関係であっても、王妃であるリーリアに対してティラールは未だ爵位も持たぬ身に過ぎない。呼び捨てにして許される筈もない。咄嗟にそんな近しさを窺わせる不敬な発言をしたのはとても演技には見えなかった。とにかくこの若者はやはり宰相の息子に間違いはないのだろう。
「リ……王妃陛下は才気芳しくおられるあまりに、何も言わぬよう父に視線でも送られたのかも知れません」
段々ティラールの言葉は力弱くなる。いくら王妃となり才気芳しいとはいえ、リーリアがその位を手に入れられたのは祖父の力によるものであるし、祖父に指図出来る程の力はさすがにリーリアにはない。王子を産み、もう少し歳を重ねれば或いは力関係は変わってくるかも知れないが……。
それにしても、ティラールは王妃となった姪の事を良く思っていないらしい。今までに見せた愚直さが芯からのものであるなら、確かに二人は水と油だろう。リーリアの性格なら、幼い内からティラールなど馬鹿にしきった態度で接していたかも知れない。
ウルミスは殆ど、この若者の言葉を信用していいのではないかと思い始めていた。例え愚かで状況をろくに理解していなくとも、敵である宰相の息子がルーン公の無実を信じる、と断言した事は大きい。もしここにローゼッタがいたら、かれがどんなに無害そうに見えても、ユーリンダの腹心の侍女を拉致監禁するような裏の顔を持つ男なのだと警告しただろう。しかし彼女はここにはいない。
「お父上にルーン公を擁護して頂くというお考えは素晴らしいが、無理であるとわたしは思います。宰相閣下のお力は絶大であり、ご自身の意に反して王妃陛下の御命にすんなり従われるとはとても思えません。宰相閣下には何かお考えがあってあの時沈黙されていたのだと思います」
「……」
ティラールは唇を噛み、暫し黙り込んだ。聞いた話の内容を頭の中で整理しようとしているのだろう。かれにとってはバロック公は、正義の側に立つ最高に尊敬できる父親であるようだ。会ったばかりの人間から聞かされた内容だけで、その父親像が簡単に覆る訳がない。バロック公もルーン公も正義とすれば、どうとれば辻褄があうのか、必死で考えているのに違いない。
「……とにかく、ルーン公殿下ともお話させて頂かねば、わたしとしては素直に納得する事はできません」
ティラールは顔をあげるとそう言った。
「そうでしょうとも。わたしごときの言葉でお考えをすぐに変えられるなど、それこそ宰相閣下のご子息らしからぬ事。ではわたしはルーン公の様子を見て参りますから、ゆっくり旅の疲れを癒やされて下さい」
「そうですね。確かに少し疲れました。休む部屋を用意して頂いてもいいでしょうか? そして許しが出ればすぐにでもルーン公殿下にお目通りさせて頂きたい」
「すぐにそう手配しましょう」
最上級の一室がティラールにあてがわれ、かれが室に入ると、決して目を離さぬよう部下に言い含め、ウルミスは急ぎアルフォンスの室へ向かった。