2-38・呼び声
ルルアの門から離れ、辛い現実へと再び戻ろうとするなかで、アルフォンスは何度も膝を折りそうになった。ルルアの国へ入ればすべての苦難から解放される。汚名を雪ぐ事は出来なくても、家族の命は恐らく救われる。自分の名誉の為に家族を、愛する妻や子供たちの命を賭けるのか? そんな言葉が次々と耳に刺さってくる。いや、これは幻聴だ。自分の心の中の何処かにある迷いが増幅されているだけだ。腕に爪を立てて正気を保とうとし、自分に言い聞かせながらアルフォンスは先へ進む。身体の苦痛も一足毎に高まる。
(折角シルヴィアが救ってくれたんだ。ここで折れる訳にはいかない)
だが、ルルアの門から遠ざかるにつれ周囲は薄暗くなり、遂には足下が見えなくなった。自分が地を踏んでいるのか、どちらに向かっているのか、上下左右の感覚すら危ぶまれてくる。
(どうすればいい……)
苦痛に身を呵まれながら、アルフォンスは途方に暮れて立ち止まった。その時、遙か前方で何かが光った気がした。ルルアの光だろうか? 回り回って、また同じところに戻ってきたのだろうか? だが、その光はルルアの国の光に似てはいるけれど何かが違う。
『アルフ……あなた……どうか戻ってきて……』
「カリィ! きみなのか?!」
驚いてアルフォンスは叫んだ。微かな光と微かな声。だが確かにそれは、最愛の妻のものだった。
「待っててくれ! 必ず……戻るから」
もう迷いはなかった。痛む身体を気力で動かしながら、アルフォンスは光へ向かって一直線に歩き出した。
ウルミスは鎧戸の隙間から射す朝日にうたた寝から覚まされた。
解毒薬の投与によりアルフォンスの容態がもち直してから五日。だがまだかれの意識は戻らない。痙攣の発作に苦しむ回数はかなり少なくなったが、度々高熱を出し、衰弱している。医師はまだ危険が過ぎた訳ではないと言う。村人たちの冷ややかな視線を受けながら、王都への帰路へつく見通しも立たないままで、団員たちの苛立ちも高まりつつある。ウルミスの気疲れもかなりなものになってきていた。金獅子騎士団の名誉にかけても、もう二度と暗殺者を近づけてはならない。アルフォンスの病室の隣室に常在し、ウルミスの心身は休まらない。女をあの場で成敗するのは必要な事ではあったが、その前に毒をどうやって入手したのか聞き出しておくべきだった。何もかも、後手後手に回ってしまっている気がしてならない。口では勇ましい事を言いながらも、本当は自分は宰相を敵に回す事を恐れているのだろうか? ウルミスは疲れた頭を振った。所詮自分は武人であり、謀りごとでは宰相の敵にもならない。そうと解っていながらも、アルフォンスの無実を信じ、かれを支持すると決めたのだ。恐れなどある筈もない。恐れる事と言えば、国王の信を失ってしまう事だけだ。だがたとえ国王が自分をも排するとしても、自分の忠誠は息絶えるまで国王の上にある。だったら迷う事はない筈だ。しかし、肉親に等しい情を持つ部下たちに賛同を得られず、その上に親友を護れず死の瀬戸際まで追いやる事になってしまったのは、全ては自分の不徳から起こった事とウルミスは自分を責める。心が安らぐ時はない。アルフォンスが無事に快復して、自ら無罪を勝ち取る日までは。
彼はゆっくりと立ち上がり、水差しから水を注いで飲んだ。鎧戸を開ける。眩いくらいの朝日。冷たく乾いた風が無精髭の伸びた頬を撫で、ウルミスの頭は次第にはっきりしてくる。過ぎた事を悔やんでも仕方がない。これからの事を考えよう。
「団長閣下! お目覚めでいらっしゃいますか?」
控えめに、だが急いた声が扉の向こうからかかった。医師だ。慌ててウルミスは扉を開けた。
「どうした、何か変わりが?」
「いえ、ご様子には特に変わりありません。深く眠っておいでです。ただ、おかしな事が……」
「おかしな事とは?」
「とにかく、こちらへ」
二人は急ぎ足で病室へ入った。
「なんだ、これは?」
ウルミスは訝しげに言った。寝台に横たわるアルフォンスの胸元が光っている。ウルミスは病人に近づいた。白い包帯の上にかかった小さなペンダント。看病の間、外そうとすると意識のない病人が拒むように握りしめるので、そのままかけられていたものだ。それが、不思議な光を放っている。温かく柔らかな色の光……。
「これは神殿で見たルルアの聖炎に似ている。そう言えば、これは聖炎の神子であるカレリンダ妃が別れ際に渡していたペンダント……」
ウルミスは呟く。離れたアルマヴィラの地に居るカレリンダの祈りに呼応してペンダントが光っている事は、無論ウルミスには判りようもない。そして、ウルミスと医師が見つめる中、アルフォンスは静かに目を開けた。
「アルフォンス!」
言いようもない程の安堵を覚え、ウルミスは声をかけた。
「ここ……は? そう、か……戻ってきたんだな……」
掠れた声でアルフォンスは言い、首を動かそうとして痛みに顔を顰めた。
「ウルミス……厄介をかけてしまった」
「何を言う。すべてはわたしの責任だ。しかしよかった、本当によかった、アルフォンス。きっと、きみの奥方が護ってくれたんだな」
ウルミスとアルフォンスは、ペンダントを見た。光は徐々に薄くなり、やがて元通りになった。
「この光を見つけて帰ってきたんだ……わたしはいったい、何日気を失っていたんだ?」
「七日だ。本当に一時はもう駄目かと思った」
「そんなに……なんと、情けないことだ。陛下は益々、お怒りだろうか」
「失礼ながら、まだあまり長くお話なさらない方がよろしいかと」
ウルミスの背後から、静かに医師が声をかけた。アルフォンスは問うようにウルミスと医師の顔を見比べた。
「ネイベル医師だ。ずっときみの治療にあたってくれた、信頼できる人物だ」
ウルミスの紹介に、医師はただ頭を下げて、微力ながらお世話させて頂きました、とだけ言った。
「ありがとう、本当に感謝する」
「勿体ないお言葉でございます」
「わたしの身体は……元通りになるのか? 目がかすむ。体中が痛む。うまく動かせないような気がする」
アルフォンスの面差しはげっそりとやつれ、筋肉も衰えてしまったようだ。
「正直に申し上げますと、後遺症が残る可能性は高いと思います。しかし今はまず、ゆっくりお休みになって栄養を摂られる事が肝要かと存じます」
「ゆっくり休んでいる間などないのだが……」
そう言いながらもアルフォンスは疲れたように目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。
「団長閣下、ルルアがルーン公殿下をお救い下さいました。もう、お命の心配はないでしょう」
「ネイベル殿、あなたの尽力のおかげだ。あなたがいなければ、かれの命はとうに尽きていただろう。この七日、殆ど休んでいないだろう。ここはわたしがついているから、少し睡眠をとりなさい」
「……それでは、お言葉に甘えましてそうさせて頂きます。何かありましたらすぐお呼び下さい。休憩をとりに行った女性たちももうすぐ戻ってくると思います」
この七日間何一つ愚痴も不平も言わなかったネイベルだが、その面に深く疲労の色が出ているのは誰の目にも明らかだ。ウルミスは当初は他の医師も呼んで交代で治療に当たらせる事も考えていたが、アルフォンスに関わるのは最低限の人数にしたいという慮りからネイベルに任せきりにしてしまっていた。悪い状態がこんなに続くと判っていたら、アルマヴィラからルーン家お抱えの医師を呼び寄せていたのだが。だが、結果的には彼に任せてよかった。ネイベルは一礼して部屋を出て行った。
ウルミスは枕元の椅子に座った。七日ぶりに意識を取り戻したばかりで会話をしすぎて力を使い果たし、無防備な眠りに陥った親友の顔を眺めた。あの先王の御前試合から、思えばもう二十年の付き合いだ。何が起こるか先が見えないのが人生だが、七公爵の一人、大安の世で王太子とも親交篤く何もかもに恵まれたように見えたアルフォンスを、こうして罪人として自分が護送する日が来るとは思いもしなかった。今は危機を脱した。だが、周囲の状況がよくないのは何も変わっていない。王都への到着が遅れる事は、それだけ宰相に時間を与える事にもなるし、国王の心証を悪くもするだろう。しかし、ここからかれを動かせるようになるまでには、まだまだ時間を要するように思える。
溜息をついた時、表の方がやけに騒がしいのに気づいた。アルフォンスを一人にする訳にはいかないので、彼は窓を開けて外の様子を窺った。団員と誰かが口論しているようだ。
「わたしはルーン公殿下をお見舞いに来ただけだ! わたしの身分を疑うなら、早く騎士団長どのに会わせて頂きたい!」
若い男がそう叫んでいた。