2-36・ティラールの旅
ティラールは、昼夜を問わず愛馬を駆った。丁度運良く留守にしていたザハドには置き手紙。
単独の『小旅行』は、これまでの旅の間で何度かあった事だ。過去のものはいずれも、親しくなった令嬢と、別荘などで二人の時間を過ごす為のものであったが。そして甘い時間が過ぎれば、ティラールはザハドに連れ戻されてみっちりお小言をくらい、令嬢は束の間の夢を見られた事を一生の思い出として涙と共に親元へ帰るのだった。相手は大体、豪商か男爵の娘。女性と関係する時、常にティラールは本気だが、手を出して本当に正妻に迎えなければならないような身分の娘には本気になった事は今までない。まだ縛られたくない、という気持ちが強かった。別れる時にはいつも、「いつかこの身を落ち着ける時が来た時に、まだ貴女が待っていて下さったなら必ずお迎えに来ます」と告げていた。愛妾の立場で良ければ……という意味だ。娘も自分の身分は解っているので、ただ「いつまでもお待ちしています」と言うばかりだったが、実際にはいつも程なく、身分の釣り合った相手と結婚した、という話を聞く事になった。娘の親としては、娘がバロック公の子息の正妻になれたらこの上ない幸運だ。だが、四男できちんとした役職にも就かず遊び暮らしているような男の愛妾になっても大した益はないし、一時の気まぐれに決まっているのに、娘がいつまでも未練たらしく待って嫁き遅れては困る。さっさと釣り合いのとれた相手と縁づけてしまおう、という思いだろう。
今回、父の命でアルマヴィラを訪れた時は、それほど気乗りしていなかった。堅苦しい騎士の暮らしを厭うて故郷を飛び出した身だが、それでも勘当せずに彼の気持ちを汲んで援助してくれる父には本当に感謝している。各地を廻り、そこの地域社会の情報を得て父に送るのが彼に課せられた唯一の仕事だったが、今回は違った。
『ルーン公の一人娘の心を奪い、ルーン家の秘密に迫る事。そして……』。
内容的には、易い使命と思った。今まで、彼が本気で迫ってなびかなかった女子はいない。美しいと評判のルーン公爵令嬢。ここいらで身を固めるのもまあ悪くないかも知れない、とも思った。旅暮らしにもやや飽きてきたところだったが、気の合わない兄たちのいるイルランドへはあまり帰りたくない。美しく申し分ない身分の妻を得て、良い評判ばかりのルーン公爵家の婿養子となり、義理の父親や兄を立てつつも、ルーン家の秘密とやらを探るバロック家の密偵でもある。なかなかスリリングな人生を送れるかも知れない。ただ唯一気になったのは、婿養子の立場で大勢の愛妾を侍らせる事が出来るのか、という事だ。愛妾の数で歴史に残るのが彼の大きな夢だ。しかしまさかそんな事を父に向かって言える筈もなく、まあ何とかなるさ、という気持ちでユーリンダに近づいたのだ。
しかし、ユーリンダは彼が出会った中で一番美しく、そして手強い娘だった。だいたい、身分が高くうら若い姫君は余程でない限り、美しい、ともて囃されるものだ。だから、噂にはあまり期待していなかった。だが、数多の美女をものにしてきた彼が実際にユーリンダの前に立った時、その美しさに、これまでの恋の記憶が全て霞んでしまった、と思った。
淡黄色の薄絹を幾重にも重ねたふわりとしたドレスを纏い、同じ布の大きなリボンで黄金色の髪を飾った、半年前のあの日の彼女の姿は、細部まで違わずに今も思い出せる。純白の肌。桜色の形の良い唇。幼子のように無垢で頼りなくもあり、それでいてしっかりした意志の固さも感じさせる、大きな黄金色の瞳。
(これは、なんと美しい……こんな美しい女性がこの世にいたのか)
「ティラール・バロックさま?」
思わず呆けたように見とれて初対面の挨拶すら忘れて佇んでいるティラールに、ユーリンダは困ったようなはにかんだような笑顔で話しかけた。銀の鈴を鳴らすような、耳障りの良い澄んだ声。ティラールは、絶対に彼女を妻にする、とこの瞬間に決めた。愛妾なんか、どうでもいい。
だが、最高の賛辞も思わせぶりな笑顔も、様々な女性を蕩けさせてきた、愛を伝える眼差しも、何もかもユーリンダにはお気に召さなかったらしい。明らかに社交辞令としか思えない笑顔で彼女は距離を置いてきた。最初、ティラールは彼女の高慢さが彼を遠ざけたのかと思った。これ程に美しく完璧な女性の前では、もっと重々しく振る舞うべきだったのかも知れない。考えてみれば、彼女はルーン公の長女。望めば王妃候補ともなれた身分なのだ。宰相の息子としてどこに行っても最高の扱いを受けてきたので、未婚の娘は皆すり寄ってくるものと思い込んでいたが、四男で騎士の叙勲も受けていない彼を、ユーリンダは見下しているのかも知れない。そこで彼は、父から与えられている潤沢な資金を惜しまず投入して、豪華で珍しく美しい宝飾品やドレスをどんどん貢いだ。旅をしているのは別段父親から疎まれている訳ではない、というアピールだ。だがこの作戦も上手くいかなかった。『こんな高価なものを頂く理由がございません』と全て送り返され、彼女の態度は更に硬化してしまったのだ。
初恋に戸惑う少年のようにそわそわしているあるじに、ザハドは呆れた視線を送った。
『そんなに時間をかけずとも、正式に求婚なさればよいではないですか』
『俺は姫に好かれていないらしい。断られてしまったらどうすればいいのだ』
『若はバロック公のご子息なのですよ。姫のお心がどうあれ、父君のルーン公殿下がお断りなさる筈がありません。弟君のルーン伯とアサーナ様のご縁もあるし、更に宰相一族と縁戚の絆が強まる話を、断るなどあり得ません。大貴族の婚姻など、そんなものです。婚約が整ってから、徐々に姫のお心をほぐしていけばよろしいでしょう』
『そうか、そうだな……』
従者の巧みな甘言に、ティラールは徐々に、そんなものかと思うようになった。あまり会えないから、ユーリンダはどうやら自分を誤解しているようだが、許婚として共に過ごす時間が長くなれば、勿論自分の良さを解ってくるだろう。
彼女には既に想う相手がいる、とは思いつかなかった。宮廷にも出ずに籠の中で大事に育てられた深窓の姫君なのだ。それに例えそんな相手がいたとしても、自分は他の誰よりも世界一彼女を愛している、幸せに出来るという自信がある。恋は盲目、とはよく言ったものだ。これまでずっと、身分を盾に女性を意のままにする事は決してしない、と固く心に決めていたのに、それがユーリンダの為になると思ったら、それでも構わないと思うようになってしまったのだ。