2-35・ティラールの提案
「本当ですか、それは?!」
心から驚いたようにティラールは顔色を変える。これが演技なのだから大したものだ。ちゃらちゃらしているようでも流石アロール・バロックの息子だ、とローゼッタは内心感心する。
「残念ながら、本当のようです。ティラール様なら、色々とつてがおありでしょうし、金獅子騎士とてティラール様には隠しだてする事もないでしょうから、既にご存じかと思っておりましたわ」
勿論、話題はアルフォンス危篤の件である。ティラールは、まったく知らなかった、と言った。
「わたしは金獅子騎士と親しくする趣味はないのですよ。美しい女騎士でもいれば別ですが……おっと失礼、軽口を叩いている場合ではありませんでした」
「金獅子騎士でなくとも、あの、優秀な従者の方なら、色々耳に入れていらっしゃいそうですわ」
「ザハドですか。あいつはよく尽くしてくれるし、どこへ旅してもちゃんと諜報網を作っています。でもこの事はあいつからも聞いていませんね」
「そうですの……」
「あいつはわたしにとって、実の兄弟よりも心を許せる奴です。いやしかし、ルーン公殿下がまさかそんな事に……ユーリンダ姫はどんなに心を痛めておいででしょうか」
「この後、わたくしお慰めに伺うつもりです。公妃殿下までお傍にいらっしゃらなくなって、本当に心細くていらっしゃるでしょうから」
「公妃殿下と姫を引き離すなど、ルーン公殿下と親友と言われているヴァルディン殿のなさる事とも思えませんな。よく気を回すお方との評判は耳にしていましたが、気の回し方がおかしい。ルーン公殿下はともかく、姫や公妃を毒殺して利を得る者などないでしょうに」
ティラールは、金獅子騎士団長ウルミス・ヴァルディンと面識はない、と言った。ひとつひとつ、彼の言葉を記憶してアトラウスに伝えるのがローゼッタの役目だ。どういう意図で言っているのか……ローゼッタにはまったく判断がつかない。
「それは、今回の事も、ルーン公殿下が事件の犯人と思い込んだ者がした事ですから、同じような者が、逆恨みして害をなさないとは言い切れませんわ」
「そうだろうか? だいたい、その村の女は、どうやって毒を手に入れたのだろう? 女の恨みを利用して、誰かが仕組んだのではないだろうか?」
この言葉には、ローゼッタもはっと息を呑んだ。確かにそうだ。珍しい猛毒で解毒薬がない為に重篤な状態に陥ったという話だ。その辺の山野で手に入るような毒ではない筈だ。
誰かが仕組んだ……それなら無論、一番疑わしいのは、言った本人の父親、宰相バロック公に決まっている。だが、それならどうしてわざわざそんな事をかれは言うのだろう? 父の仕業と知っていてこちらを脅す為だろうか? それとも……。
『もしも伯父上が道中で亡くなれば、大逆罪は確定しないだろう。そうなれば、ユーリンダの命は保証される』
……まさか。まさかそんな筈はない。ユーリンダを悲しませる事はしない、とあんなに言っていたのだし。ローゼッタは悪い考えを振り払おうと頭を振った。
(裁判で有罪になると決まった訳でもない。飛躍しすぎだわ。この男の言葉に惑わされてはいけない!)
「どうかしましたか、レディ?」
ティラールは様子のおかしいローゼッタを心配げに見る。
「いいえ、何でもありませんわ。ただ、ルーン公殿下やユーリンダ様が心配で。ティラール様のお力で、どうにかなりませんの? 例えば、毒に詳しい医師を派遣するとか……」
「お力になりたいのはやまやまですが、今更遅いでしょう。金獅子騎士団としても、警備の甘さから高貴な囚人が暗殺されたなどとなれば面目に関わる事だから、出来る手は全て打ってあるでしょうし、わたしなどがしゃしゃりでる幕はないと思います」
「そうですか……」
このティラールの返答は正論だし、予想通りのものだ。
「わたしも後ほど、少しでも姫のお気持ちが休まるように伺いましょう……いや、待てよ……」
「なんですの?」
独り言を言ったかと思うと、急にティラールの表情が少し明るくなる。
「そうだ、わたしがその村へ行ってルーン公殿下をお見舞いしてきましょう! 宿をとらず馬を飛ばせば村まで約三日。自由に動けるわたしにしか出来ない事だ。これで少しは姫のお役に立てる!」
「まあ……そんなにまで」
突飛な申し出に、ローゼッタは心底驚いた。
「或いは間に合わないかも知れないが……もしも危機を脱しておられれば、公のお言葉を姫にお伝えする事も出来るかも知れない。そうしよう! ああ、ザハドには内緒ですよ。あいつは口うるさいから、絶対に文句を言うだろう。ちょっと気晴らしに小旅行に出ることにしますから、黙っていて下さいね、レディ・ローゼッタ」
「え、ええ……」
唖然としてローゼッタは、立ち上がったティラールを見上げた。この男の思考がまったく読めない。或いは、最初からそのつもりで、きっかけを待っていたのだろうか? 瀕死のルーン公に止めを刺そうとでも? ……まさか。バロック公の子息ともあろう者がわざわざ自らそんな事をする筈もない。
「姫にこっそりとそうお伝え下さい。では、急ぎ旅支度を調えますので、わたしはこれで失礼します」
そう言うと、ティラールはさっさと部屋を出て行ってしまった。
「……まったく、訳がわからないわ……」
残されたローゼッタは、思わず口に出してそう呟いてしまうのであった。
まだ昼だというのに既に疲れ果てた気分だったが、ローゼッタはユーリンダの元へ向かった。
ローゼッタが来たと聞いて、自室に閉じこもっていたユーリンダは、泣き腫らした顔で客間に出てきた。
「ローゼッタ……来て下さってありがとう。あなただけだわ、私を心配してくれるお友達は」
そんな風に言うユーリンダにアトラウスの顔が重なって、ローゼッタの胸は締め付けられる。しかし、あまりに哀れさを誘うユーリンダの様子に、覚悟していた程には嫉妬による苦しみは湧かず、元々善良な性質のローゼッタは心から同情する。
「お気の毒に……ほんの少し前まで、まるで世の中で一番恵まれていらっしゃるご様子だったのに、こんな事になるなんて」
「お父さまは何も悪い事なんかしてないのに。どうしてこんな事になったの? ああ、今すぐにお父さまの所へ行って看病して差し上げたい!」
この言葉に、何と言って慰めようかと悩んでいたローゼッタは、ティラールの事を思い出す。善意を装った何かの罠であるとしてもユーリンダには判らないだろうし、取りあえず少しは彼女の気分を変える事が出来るだろう。
「わたくし、先程ティラール卿にお会いしましたの。何か力になって頂けないかと思って、この事を内密にお話ししましたら、すぐにルーン公殿下の所へお見舞いに駆けつけて下さると仰いましたのよ」
「まあ、ティラール様が?」
「ええ、とにかく、貴女の不安を少しでも取り除こうとなさっているようでした。もし回復されていたら、ルーン公殿下のお言葉を貴女に伝えられるかも知れない、と仰って」
「私の為に? わざわざ遠くまで?」
ユーリンダは目を丸くする。
「私はずっとティラール様につれなくしてしまったのに、そんなにまでも私の為にして下さるなんて、申し訳ないけど、でも、嬉しい。最初はずっと、あの方の甘い言葉は全部、うわべだけのものと思っていたわ。でも、お父さまが連れて行かれても変わらず励まして下さって、嬉しかった。勿論私はアトラ以外の男の方に気を許せる事はないし、無力なこの私には何のお礼も出来ないのに」
「ただありがたいと仰るだけで、あの方は充分満足なさると思いますよ」
「そうかしら。だといいんだけど」
表面上は……と心の中でローゼッタは付け加えた。ティラールが何の為にここまでしてユーリンダに媚びるのか解らなく、それだけに不気味でもある。侍女や手紙の件で彼が裏の顔を持っている事を知らなかったなら、ローゼッタもユーリンダと同じように、計算などなくひたすら純愛の為に動く彼の誠意が素晴らしいと思えたかも知れない。でも、知ってしまったからには、何もかもが疑わしい。
「そうだわ。色んな事があってすぐに思い出せなかったけど、貴女がまたいらしたらすぐ聞きたいと思っていた事があったんだわ。私の侍女のこと」
偶然だが、まるでローゼッタの心を読んだかのようにユーリンダは言った。
「リディアが失踪した、って仰ったわね? どういう事なの? 私には何も解らないもの、どういう事か、お願い、教えて下さらない?」
「……ファルシスから聞いたのです。どうしてその事を知ったのかは、尋ねる時間がありませんでした。ただ、その事で出来たらアトラウス様のお力を借りれたら、と言われて」
もしこの質問が出たらこう言うように、とアトラウスから指示されていた通りにローゼッタは答える。
「ファルが?」
ユーリンダは驚いた。最近は滅多に顔を合わせる機会もなかったようなファルシスとリディアである。いったい囚われの身でどうしてそんな事を知ったのだろう? だがそれは後から考えるとして、大事な事を聞かなければいけない。
「リディアはどうなったの? リディアは私にとって、ただの侍女ではないの。小さい頃からずっと傍にいて、姉妹のようなものなの」
「ご安心なさいませ。アトラウスさまが手の者を使って、無事に保護されているそうですわ」
ローゼッタは指示されていた通りに嘘をつく。果たしてユーリンダの顔にやっと少しだけ笑顔が戻った。
「本当に?! よかった! 貴女にリディアの話を聞いてから、アトラと話をする事が出来なかったから、まさかアトラが助けてくれていたなんて思わなかったわ。昨日はその事を話すどころではなかったけれど、どうしてアトラはお手紙でそれを知らせてくれなかったのかしら? それに、早くリディアに会いたいわ。リディアが傍にいてくれたら、どんなに心強くなるでしょう!」
「今は、その、リディアの件は秘密なのです。貴女への書状はすべて金獅子騎士の検閲が入りますから、それは書けなかったのだと思います」
「秘密って、どうして? リディアはただの侍女よ?」
「……それは、わたくしにもわかりませんわ。今度直接アトラウスさまにお尋ね下さいな」
「まあ……ではすぐにリディアが戻ってくる訳ではないのね」
またユーリンダの貌が曇る。
「色々な事がありすぎて、私、もうどうしたらいいか判らないわ。お父さまに、お母さまに会いたい……」
「お気の毒なユーリンダ! でも、希望をどうか捨てないで。皆様、この同じ地に生きていらっしゃるのです。きっとまた会えますわ」
「でも、お父さまは……」
またユーリンダの瞳に涙の粒が浮かび上がる。
「ルルアに祈るんですわ、ユーリンダ。貴女は次期聖炎の神子。きっと、貴女の祈りはルルアに届く筈。そしてきっとティラールさまが吉報をもたらして下さいます」
自身でもあまり希望を感じられない事で相手を励ますのは難しい。しかし結局、アルフォンスやカレリンダはローゼッタにとって身内でもなんでもない。それより彼女は、いま、アトラウスに命じられた役割を果たすことに集中していた。
「大丈夫ですわ、きっと!」
根拠のない言葉でも、繰り返し言われると、単純なユーリンダは段々そんな気持ちに傾いてくる。
「そうね、そうね、私、祈るわ……ありがとう、ローゼッタ」
涙を零しながら手を握って礼を言われる。こんなに純粋な娘を騙している、と思うとローゼッタの気分は逆に重く沈んでいくのだった。