2-33・ファルシスの苦悩
同じ頃、ファルシスも、父危篤の報を金獅子騎士から受けていた。
(父上……!)
事件の概要とカレリンダの身柄の移送について事務的に告げた騎士が去った後、ファルシスは思わず机を拳で殴りつけた。
(どうして……どうしてこんな事になったんだ)
ほんの半年くらいの間に様々な事があった。ティラール・バロックの来訪、アトラウスとユーリンダの婚約、リディアの婚約、呪殺事件、父への嫌疑……。どこから運命の歯車は狂いだしたのだろう? 皆から敬われ慕われていた父を心から尊敬し、その跡継ぎとして恥じぬよう研鑽してきた。
『わたしを超えなさい、ファル。陛下の一の信を担う臣となり、家臣には常に公平に、民には慈悲深く……きみはそうやってわたしを遙かに超えて行きなさい。それがわたしの一番の望みだよ』
穏やかによくそう言っていた父。こんな立派な父を超えるなどという事が自分に出来るとは思えない。ただ、父にいつか追いつけるよう、それだけを目標にしてきた。
リディアの婚約。その真相。それが、長年の親子関係に亀裂を入れた。まさか、裏でリディアに無理な縁組を強いていたのが自分の両親だったなんて。最初は、とても信じられなかった。でも、母は否定しなかった。
『リディアの縁談は、内々に父上や母上が間を取り持ったと聞きました! まさか、本当ではないでしょうね?!』
『……あなたの為なのです、ファル、やがては、あの娘に、リディアにとってもこの縁組が最善だったと、そしてあなたの為にもなったとわかります』
『信じられない、そんな事をするなんて。そんなお方ではないと思っていた!』
『あなたはまだ若く、何が本当の幸福か判断できない事もあるのです。リディアの縁組のことは、あなたの為、ルーン家の為に、そしてリディア自身の為に』
何がリディア自身の為だ、中年男の後妻など、幸福になれる筈もない! リディアは自分を慕ってくれていたのだ。そして自分もずっと彼女を想い続けてきた。それに両親が気づき、そのせいで彼女は厄介払いされてしまった。リディアを正妃とする事など無理、それくらい自分だってわきまえていたのに!
「……」
どうしてティラール・バロックはリディアを拉致したりしたのだろう? その情報は既にローゼッタから得ていた。取りあえず生きている事が分かって言い切れぬくらい安堵させられたが、いくら考えても理由が解らない。リディアはただの平凡な侍女だ。何か重大な情報を持っているとでも思ったのだろうか?
何かがおかしい。両親の、らしからぬ行い。いったいどうして急にこんな事になったのだろう? 一方的に腹を立てていないで、もっときちんと父と話し合えばよかった。母との会話だけでかっとなってしまい、父にはその後必要な事以外ろくに口もきかなかった。
リディアに冷たい仕打ちをしたといっても、父がいつも自分の事より周囲の者の事を優先し、そして大貴族に相応しい国と国王への忠誠心に満ちた人物である事には間違いない。道半ばで死んでいい筈もない! なのに、いつも慈しんできた領民の手で毒を盛られるなど……なぜルルアは、このような試練をお与えになったのか。
「父上……ぼくにはまだ父上が必要です。どうか、どうか御無事にお戻り下さい……」
いまこの瞬間にも、父は死んでいっているのかも知れない。何一つ自分には出来ない。母はどれだけ心を痛めているだろう。そして妹はどれほど怯えているだろう。
父が連行されてから、色々な事を考えてきた。もしも有罪になったら? 自分は殺されようとも、無実の罪の為に母や妹まで死なせる事など許せない。かつてない事件だけに、どこまでの身内がどのように罰されるのか、誰にもはっきりと判らないのだ。法典では、国王や王族、大貴族の暗殺を企てた者は一家もろとも処刑されると決まっているが、罪を犯した者の身分が高い場合、必ずしも法典通りに刑が行われる訳ではないからだ。もしも母や妹にまで累が及んだ時、どうやって二人を護るか、ローゼッタと幾度か相談した。
ローゼッタは、アトラウスとファルシス両方に媚びを売るばかな女の振りをしていると言っていた。確かにそのやり方は有効だったらしく、最近は金獅子騎士たちも呆れて、以前程厳しく二人の会話に耳をそばだててはいない。ローゼッタは大仰に心配したりすり寄ったりしながら、小声で出来る限り情報を耳に入れてくれた。アトラウスの考え、都民の様子、小貴族たちの動向や、リディアについて解ったこと……。
だが、ここ二、三日、ローゼッタの様子はおかしかった。努めて明るく振る舞おうとしていたが、ふと暗く物憂げな顔になる。何か悪い状況になっているのかとファルシスは気になったが、報告の内容には変わりがないので、それ以上は聞けなかった。もしかしたらアトラやローゼッタはこの事をもっと前から知っていたのだろうか? 金獅子騎士より早く情報を掴むなど、難しい筈だが。
勿論、ローゼッタの憂い顔は今回の事とは関係なく、アトラウスとのことで胸苦しさがいっぱいだからだ。どういう顔でユーリンダに会えばよいのかまるで解らず、会いに行けなくなっている。だが、アトラウスとローゼッタが関係を持つなど、ファルシスの想像の域を超えた事だ。アトラウスにユーリンダ以外の女性関係の噂が出た事など一度もなく、ユーリンダ一筋で女遊びには興味のない堅物だとばかり思っている。
窓の外で、激しい稲光が走った。こんな雷雨の中でも、金獅子騎士の監視は緩みない。父は勿論のこと、母も妹も愛しい女性も、皆が苦境に陥っているのに、自分はどうしてこんなに無力なのか。出来る事と言えば、アトラウスとローゼッタを頼る事くらいだ。万一の時のアトラウスの計画は、うまく行くだろうか? 本当に信じていいのだろうか? 黄金色の髪を掻きむしり、ファルシスはただ苦悩する事しか出来なかった。