2-31・ルルアの門
アルフォンスは、幽明の境にいた。周囲は靄に包まれ、何も見えない。ただ、前方は妙に明るい。
「アルフォンスさま……」
どこかから呼び声がする。身体が軽い。確か、自分は何かで苦境に置かれていたのではなかったか? しかし、頭にかすみがかかったように、今の状況が把握できない。
「わたしを呼ぶのは誰だ? どこにいる?」
声の主を探そうと、かれは先へ進んだ。一歩進む毎に更に身体が軽くなり、心地が良くなる。何か大事な事があったような……そんな焦りは遠のいていき、この幸福感をもっと味わいたいと、足が速くなる。
前方の光がどんどん強くなる。これはよく知っているものだ。聖炎……ここは、ルルアの祝福に満ちている。思わず笑みがこぼれ、アルフォンスは両手を伸ばした。聖炎の中へ……ルルアのもとへ。そこへ行けば、すべての魂は永遠の安らぎが得られる筈だ。
「アルフォンスさま!」
今にも温かな光に呑まれようとしていたアルフォンスを先刻の声が止めた。アルフォンスははっとして辺りを見回す。
「誰だ?」
その声は、どこかで聞いたような、懐かしい……。
「わたくしです……」
ふわりと目の前に一人の女性が現れた。アルフォンスは驚愕する。
「シルヴィア!」
白いドレスを纏ったシルヴィアは、十三年前に亡くなった時の姿のまま。
「シルヴィア……きみは……そうか、ここは……」
驚いてシルヴィアの顔を凝視しているうちに、アルフォンスの頭の霧は晴れてゆく。
「ここはルルアの国か。わたしは死んだのか……」
さっきまでの幸福感が薄らいでゆく。まだ成さなくてはならない事があったのに、あんな所であんな死に方をするのが、結局自分の運命だったのか。
「いいえ、アルフォンスさま。あなたはまだ死んではいけませんわ」
「しかし、もう……」
「あなたのお身体は、まだ毒と闘っています。だから、これ以上この道を進んではいけません」
「戻れるのか、わたしは?」
「それはあなた次第……でも、あなたなら出来る筈、きっと……」
シルヴィアの口調は、生前よりずっとくだけている。
「シルヴィア、きみはルルアの国で幸福か? 永遠の安らぎを……手に入れたのか?」
この質問に、シルヴィアの貌は一瞬の陰りを帯びる。
「わたくしのことなど気になさらないで下さい。わたくしはあなたを止める為に現れた影……生きる者は、ルルアの国の事を詳しく知ってはいけません」
「どういう意味だ? きみは安らいではいないのか?」
「……いずれ。いずれまた、あなたはここに来ます。その時に、すべてお話しましょう。さあ、戻って!」
シルヴィアの背後で聖なる炎が絡めとるように噴き上がり、ふたりを呑み込もうとする。シルヴィアは思わぬ力でアルフォンスを押し戻す。その表情にはなぜか苦痛のようなものが浮かんでいた。波がひくようにざあっと炎がひいた時、シルヴィアの姿はそこにはなかった。
「シルヴィア?」
あたりは静まり返っている。来た時と同じように、柔らかく誘うような聖なる炎がどこまでも先まで続いている。
「……ありがとう、シルヴィア……」
呟くと、アルフォンスは踵を返した。シルヴィアのことは気にはなるが、これ以上ここに留まっては、彼女が救ってくれた事を無駄にしてしまう。
戻る道は、来た時とは正反対だった。足を踏み出す度に心に暗いものがこみ上げ、幾度も、振り返りたい誘惑に努力して打ち勝たねばならなかった。人々の敵意や憎悪。国王の怒りと不信。そして今陥っている肉体の苦しみ。ルルアの国の門まで呼ばれていながら、そんなものに向き合う為に戻るなんて馬鹿げている、と心が折れそうになる。戻っても、結局は処刑される運命なのかも知れないのに。
「駄目だ、わたしはまだ死ぬ訳にはいかない!」
自分に言い聞かせるように叫んだ。叫び声に呼応するかのように、ごうと冷たい風が吹きつけた。
「団長閣下!」
近づいてくる医師の姿に、ウルミスの鼓動は早くなる。もしや、今の間に? だが、医師の言葉は意外なものだった。
「下手人を成敗されたそうですね。早く、早くその女の家を捜索して下さい!」
あっ、と思わずウルミスは声を出しそうになった。そうだ、毒を使う者は大抵その解毒薬を持っている!
「わたくしの存じていない解毒薬を持っていたかも知れません。もう、それしか手段はありません。どうか、早く……!」
「感謝する!」
言うなり、ウルミスは走り出していた。ノーシュはその後ろ姿を見送り、深い溜息をついた。
女の家から、家族の誰も見覚えのない包みが見つかった。包みの中はふたつの袋。医師は、そのひとつがドゥルブの毒だと言い、誰も素手で触れぬよう注意した。もうひとつの袋には、医師も見た事のない薬草の束が入っていた。
「これが解毒薬だという保証はございません。ドゥルブを解毒できたという話をわたくしは存じませんから。でも、もうこれに賭けるしかないでしょう。このままでは、間違いなくご容態は、あと半日も保ちません」
「解った。もしこれで悪い結果になるとしても、そなたを責める事はない。この薬を、ルーン公に……」
ウルミスは祈るような心地で医師に言った。
薬草から薬湯を作り、医師はアルフォンスに飲ませた。もう物を飲み込む力も殆ど残っていない患者に飲ませるのは骨が折れたが、なんとか薬は喉を通った。
とてつもなく長く感じられた数刻後、医師はウルミスに、僅かながらも希望が持てるほうへ向かっている、と告げた。