2-30・死の気配
話は三日前に遡る。
アルフォンスが倒れてすぐに医師が呼ばれた。
――――ルーン公暗殺。
瞬く間に噂は広まり、小さな村は大騒ぎになった。だが、ウルミスはそんな事に構ってはいられない。それ程にアルフォンスの容態は悪かったのだ。ウルミスは、取りあえず王都とアルマヴィラへ使者を送り、報告した。これ以上アルフォンスの家族の心を痛ませるのは本意ではないが、もしもの事を考えれば、心の準備をする期間があった方が良い。
医師の見立ては、
「恐らくドゥルブの毒。触れただけで手が腫れ上がる程の猛毒です。そして遅効性。僅かな量を口にしただけでも、全身の神経に毒が回り、苦しんだ挙げ句に死に至ります」
「解毒薬は?!」
「わたくしの知る限りでは、ございません。ドゥルブ自体が珍しいものですから。王宮仕えのような上級医師の方なら或いは何かご存じかも知れませんが、今から王都に問い合わせても、とても間に合わないでしょう……」
「助かる見込みは?」
「ドゥルブを口にして命が助かった者の話は、わたくしは聞いた事がございません」
医師は小さく首を振った。年配の落ち着いた男だ。この辺りでは一番評判がいいという医師を隣町から呼び寄せたのだが、所詮は田舎の医者でしかない。背後の扉の向こうからは、アルフォンスの絞り出すような呻き声が途切れなく続いている。
「出来る限りの治療はさせて頂きますが、最後はルーン公殿下の体力、そして運が頼りです」
そう告げると、医師は頭を下げてウルミスの脇を通り抜けてまた室内へ戻っていった。
(わたしが迂闊だった……)
ウルミスは両手で顔を覆い、壁に寄りかかった。暗殺の可能性は勿論頭になかった訳じゃない。当番制で毒味役も置いていたのだ。その毒味役は、アルフォンスに症状が顕れる僅か前に変調をきたし、苦しんで死んだ。毒味役はアルフォンスより若い二十代の青年だった。そして、アルフォンスは毒味役よりずっと多く毒を摂取してしまった筈だ。
(厨房から部屋まで、隈無く監視を置くべきだった。こんな所で仕掛けて来はしないだろうと、どこかで甘く考えていた)
バロック公は裁判により正式に国王から断罪が行われ、アルフォンスに汚名を着せて消す事を望んでいる……その読みに気を取られ過ぎていた。しかし考えてみれば、この状況で裁判の前にアルフォンスが死ねば、事件の真相は灰色だが、大逆の疑いをかけられたままのアルフォンスの嫡男ファルシスが跡を継げる可能性はなく、カルシスがルーン公となるだろう。バロック公の目的はこれでもとりあえず達せられる訳だ。
(死なないでくれ、アルフォンス。きみの望みは、陛下に直に無実を訴える事だろう?! こんな所で死んではいけない!)
ウルミスは病室へ入った。医師と手伝いの女二人が慌ただしく動き回っている。確実な解毒剤がない以上、対症療法と一般的な薬湯を与える以外に術がない。
室内には汗と血の臭いがこもっている。アルフォンスは苦しみ呻きながら痙攣を繰り返し、吐血する。その目は見開いているが、黄金色のひとみから光は消え、ウルミスが誰であるかも判っていないようだ。喉元に包帯が巻かれているのに気づき、ウルミスは、
「それはどうしたんだ?」
と女に問うた。
「お苦しみになられて、ご自身でひどい掻き傷をお作りになってしまったのです」
そう言っている間にも、アルフォンスは包帯の上を掻きむしる。まるでそこから毒を抉り出そうとしているように。しかしその力は既に弱り切っていて、包帯を乱す事すら出来なかった。
ウルミスは思わず目を逸らした。この部屋にはもうひとつの臭いがする。死の臭いだ。もう、そこまで来ている。
平和な時代で大きな戦争の経験はないとはいえ、賊の討伐や辺境の小規模な反乱の制圧など、実戦の経験は積んでいる。そのなかで、多くの負傷者や死にゆく者を見てきた。中には、弟もいた。深手を負い、死に誘われていく者の放つ臭いが、ウルミスにはわかるようになった。
(駄目なのか……死ぬのか、アルフォンス)
流れ矢を受けて腕の中で死んでいった弟。あの時と同じ感覚がウルミスの身体をじわりと這い上がってきた。
「ウル……ミス」
掠れた声にウルミスははっとした。
「わたしがわかるか、アルフォンス! しっかりするんだ!」
寝台に駆け寄り、アルフォンスの手を握る。アルフォンスの視線は宙を彷徨っていたが、そこにウルミスがいる事は感じているようだ。
「たの……む、む、息子に……つたえてほしい……」
「何をだ、何を?」
「わたしの……書……ルーン家の……アルマヴィラの、秘……」
だが、最後の力を振り絞ったこの言葉も、再度の吐血に遮られた。慌てて女が盥を持ってきて拭き清める。アルフォンスは再び意識を失っていた。
「アルフォンス! 死んではいけない!」
ウルミスの叫びも、最早アルフォンスには届かなかった。
その時、扉が叩かれた。
「団長閣下! 下手人を捕らえましてございます!」
部下の言葉に、ウルミスは軽く驚く。一応、不審な者を見た者はいないか、潜んでいないかと、辺りを捜索させてはいたが、バロック公の手の者ならそう易々と捕まえる事はできないだろうと思っていたからだ。
「今行く」
もう一度、親友の手を力を込めて握ってから、ウルミスは病室から出た。
宿の前に人垣が出来ていて、その真ん中に、一人の者が縛られ、地に伏せさせられていた。村の者はざわめいている。村人が近づけないように、騎士たちはしっかりと下手人を取り囲んでいた。下手人を見て、ウルミスは心中驚き、そしてまた自分の迂闊さを呪った。
バロック公の刺客ではなかった。それは、昨日隊列の前に飛び出してきた、村の女だったのだ。
「ルーン公はまだ死なないの?!」
女はウルミスを見て怒鳴った。
「死ぬものか。おまえごときに殺せる筈がない!」
ウルミスも怒鳴り返す。
「どういう事なのだ、これは?!」
ウルミスは傍らのノーシュに問うた。
「この女は元々、この宿の厨房で働いていたのでございます。昨日は、錯乱して何か仕出かさないかと案じた家族の者が室に閉じ込めていたそうですが、隙をついて抜けだし、勝手知った厨房に入り込んで毒を入れた、と自ら供述しております」
「……相違ないか、女?!」
ウルミスの問いに女は憎々しげに睨み返し、
「間違いない。あたしがやったんだ。あたしの手で、ニーナの仇を討ったんだ!」
と叫んだ。
「おまえが罪をみとめると、おまえの家族にも累が及ぶが、それでもよいのだな? 死んだ娘の為に、生きている家族も、おまえは道連れにするのだな? 身勝手とは思わなかったか?」
女はさすがに顔色を変え、
「これはあたし一人でした事です! 家族は何も知らない! あたしを止めようとしていたんです!」
「何を言うか、大貴族の暗殺などという大罪を犯して、自分一人の咎で済むと思うか!」
「そんな……そんな……」
本当に女はそこまで考えていなかったらしい。女の浅はかさ、そして今から自分がなさねばならない事に、ウルミスの心は重い。
「大胆にも領主にして七公爵のお一人、ルーン公爵殿下を殺害しようと企んだ罪、万死に値する。今すぐに、命をもって償え。大罪人のおまえはルルアの元へは行けぬ。娘とも永遠に会えぬな」
最後の言葉は、単純に自分の怒りを女にぶつけただけだ。昨日は哀れんだが、今は、浅慮で動き、アルフォンスを死なせるような行いをした女に対し、憎悪しか感じない。
「お願いです! あたしは勿論死ぬのは覚悟していますが、家族は、家族は殺さないで!」
「……ルーン公が命を取り留めれば、おまえの家族の命は見逃そう。ルーン公も、そうお望みになる筈だからな」
「……」
がっくりと女は項垂れた。
「覚悟はいいな」
人垣からいくつもの悲鳴があがる。素朴な暮らしをしてきた村人たちだ。処刑の場面など見た事はあるまい。だが、これは今ここで、ウルミスが自分でしなければならない事だ。ウルミスは静かに剣を抜いた。アルフォンスの苦しみに比べれば、この女は易く死ねるものだ。
「女の死体はどう致しますか」
血糊をおとしているウルミスに、騎士の一人が近寄ってきて尋ねた。
「本来なら晒しものにすべきだが……こんな田舎でそんな事をしても大して意味もなかろう。処刑を見た事で既に村人は充分に思い知った筈だからな。家族に返してやれ。家族は逃げぬよう見張っておくのだぞ」
淡々と答えるウルミスに、騎士ははいと答えて走り去って行った。
「やれやれ、とんだ騒ぎですな」
ノーシュが傍に来ていた。
「我々は今や村人の憎悪の的ですぞ。とっととこんな場所は引き上げたいものだ。ルーン公のご容態は如何ですか」
「悪い」
ノーシュの唇の端に笑みが走るのを、ウルミスは見逃さなかった。
「そなた、ルーン公が死ぬのが嬉しいのか」
団長の怒気に触れて、ノーシュははっと表情を消した。
「まだ罪が決した訳でもないのに、どうしてそなたたちはルーン公を目の敵にするのか。ルーン公は罪人でもないし、こんな場所で死んでいいお方ではない! なぜそれが解らぬのか!」
「……団長閣下こそ、何故に、我々の気持ちをご理解下さいませぬか」
「何?」
「陛下が一度罪ありと仰せなのだからそうに決まっている……そういう気持ちもあります。呪術で大逆など、あまりにおぞましい……疑いをかけられる者には、それだけの理由があるからだとわたしは思います。しかし、それだけではありません。我々は、団長閣下の御身を案じているのです! あまりに閣下はルーン公寄り……それを、宰相閣下はお見逃しなさいますまい!」
「ノーシュ……」
唖然としてウルミスは副官の顔を見つめた。そんな風にノーシュや団員たちが考えているとは、思いもしていなかった。ノーシュは続けて言った。
「それに、ルーン公ご自身の為にも、公の場で断罪されるよりも、ここでお命を落とされるのなら、その方が良いのではないですか。真相は闇の中へ……さすれば、御一家まで処刑の憂き目をみる事はないでしょう」
「……」
ノーシュは融通の利かないところはあるが、元々誠実な男なのだ。それを見込んで副官にしたのに、アルフォンスへの態度があまりに悪いものだから、最近それを忘れかけていた。今の言葉は、心からのものだろう。だが、ウルミスは小さく首を振った。
「かれは生きるべきなのだ。生きて、陛下の御前で無実を勝ち取る……それが、かれの望みなのだからな。そして、わたしは自身がいくら宰相閣下に睨まれようとも、ルーン公を支えると決めたのだ。わたしがもし罷免されれば、そなたが跡を継げ。まあ、任命されるのは陛下だが、多分、それが妥当だろう」
「閣下!」
ノーシュは顔を歪ませた。
その時、向こうから息を切らせながら険しい顔の医師が走り寄ってきた。
「団長閣下っ!」