2-29・別離
アルマヴィラ都は激しい雷雨に包まれていた。
金獅子騎士団の当番の者は、その雷雨に晒されつつも、ルーン公爵邸の門を固く閉ざし、不審な者が出入り出来ぬよう勤めを果たしていた。その門の方へ、大きなマントを被った騎馬の者が駆け寄ってくる。もう、夜も更けている。
「何者か?!」
険しい顔で騎士は何時なりと剣に手をかけられる体勢をとる。
「怪しい者ではありません。団長閣下から伝令として遣わされた者でございます」
マントをあげて男は雨に打たれながら顔を見せたが、騎士の不審はまだ拭えない。
「お前の顔は知らぬ。伝令なら、我々も見知っている筈だ」
「いえ、護送の騎士や従者をこれ以上割く事は出来ぬと、雇われた者でございます。お疑いであれば、これを」
男は、油紙に幾重にも包まれた書状を差し出した。騎士の一人がそれを受け取り、雨に濡れない場所まで移動して紐解いた。
「……確かに、団長閣下の筆跡だ。よし、いいだろう。オリアン殿に届けてくる。返書が出来上がるまで、門番小屋で待機しておれ」
騎士は男にそう言うと、書状を丁寧に包み直し、館へ向かった。
オリアンは、ルーン公私邸の警護の責任者である。書状に目を通したオリアンはその内容に顔色を変えた。
「これは……」
思わず唸り声を発した後、彼は、
「この書状を届けた者に、同じものを大神殿にも届けたのか、と聞いてこい」
と、返事を待っている騎士に命じた。
「大神殿……ですか?」
「そうだ。早く行け!」
解せない面持ちの騎士を急かし、騎士が慌てて退出すると、オリアンは唇を引き結んでから、館の執事と侍女頭を呼ぶよう、傍らの従者に言いつけた。
すぐにやって来た執事と侍女頭に、オリアンは書状の内容を伝えた。二人は顔面蒼白になった。
「そ……んな。何かの間違いでございましょう?!」
エリザという中年の侍女頭は、取り乱し気味に涙を浮かべて叫んだ。初老の執事ウォルダースは、すぐに言葉が出ない程衝撃を受けていた。彼は、先代のルーン公の時代からこの家に仕えてきた身である。
「……それは、それは何日前の日付なのでございますか」
振り絞るような声でウォルダースは尋ねた。
「三日前だ。村との距離を考えれば、随分早く駆けたものだ」
オリアンは素っ気なく答えた。その時、先の騎士が扉を叩いて入室する。
「間違いなく、大神殿にも届けたとの事でございます。大神殿の方では、いつでも構わない、と伝えるように言われた、との事」
「そうか。ではすぐに、実行しよう」
「お……お待ち下さい! 公妃さまはお休みでございます。夜中でございますよ! せめて、明朝までお待ち下さいませ!」
喘ぐようにエリザは言ったが、オリアンは取り合わない。
「用意が整い次第実行せよとの命令だ。何時だろうと関係ない。そなた、つまらぬ事を言っておらずに、さっさと公妃を起こしてこい。着替える間くらい待つが、いつまでも出てこなければ、こちらから公妃の部屋へ伺うからな」
「な……なんというご無礼な! 公妃さまに向かって、一介の騎士さまがそのような……」
「エリザ、オリアンさまの言う通りにしなさい」
ウォルダースが諫めた。その目は悲痛と苦悩に満ちている。だが、判断力は保っていた。
「そうしないと、この方は本当にカレリンダさまのお部屋へ押し入るだろう。金獅子騎士団の方々は、七公爵家への敬意など持ち合わせておられぬようだから」
「陛下への忠誠篤い貴族の方々への礼は弁えておるが、大逆の疑いをかけられるような者への敬意など持ちようもあるまい。勿論、陛下が無罪とされるなら非礼はいくらでも詫びようが」
オリアンも、アルフォンスの有罪を確信しているという態度を崩さない。金獅子騎士は殆どがそうだ。諦めた顔で、よろめきながらエリザは小走りに室を出て行った。
うとうとと寝台で微睡んでいたカレリンダは、扉を叩く音にすぐに気づいた。夫が連行されてから、ぐっすり眠れた夜はない。一晩に何度も、悪夢に呵まれては浅い眠りから覚める。
「……どうしたの」
カレリンダの即座の返答に、なだれ込むようにエリザは室に入る。だが、次にまずカレリンダに何を言うか、エリザは考えていなかった。
「……オリアン様がお呼びです」
取りあえずそれだけ、彼女は言った。
「こんな時間に、いったい何事です?」
「それは……」
自分の口からはとても言えない。こんなに公妃様は憔悴していらっしゃるのに、更にこれ以上打ちのめすような事を、どうして言えるだろう? こんなに優しく美しい方、アルマヴィラ中から愛された聖炎の神子が、どうしてこんなに苦しめられなければならないのだろう? エリザもウォルダースと同様、公爵夫妻への忠誠心に一片の揺らぎもない。
「とにかく、お急ぎ下さい。どうか、身支度を。あの男、あまり待たせては、本当にここへ押し入って来かねませんわ」
「いったい、どういうことなの? まだ殿は王都に着いておいでではない筈。どうしていきなり金獅子騎士団の対応が変わるのですか?!」
「それは……わたくしごときには解りません」
エリザは、小さな声で嘘をついた。カレリンダは溜息をつく。これ以上侍女を問い詰めても可哀想なだけだと悟ったからだ。
「わかりました。すぐに着替えるから、手伝って頂戴」
僅かな時間できちんと身なりを整えたカレリンダは、オリアンの待つ部屋へ入った。
「このような時間に、いったい何事ですの?」
オリアンには、カレリンダに対し何の気遣いもない。
「道中に事件があり、ルーン公は危篤状態にあられるとの事です」
目の前が、真っ白になる。この男はいったい何を言っているの? 私のアルフが、どうした、って言ったの……?
よろめいたカレリンダを、エリザが後ろから支えた。
「お気を、しっかりお持ち下さいまし」
そう言いながら、エリザは泣いている。
「三日前の日付です。我が団長閣下がお気遣い下さりお知らせ下さったのです」
まるで良い知らせが寄越されでもしたかのようにオリアンは言う。
「猛毒が食事に混入されたとの事です。三日前ですから、お気の毒ですが、或いは今頃は……」
「あの人は生きています!」
きつい目で、カレリンダは言い返した。侍女の涙と騎士の悪意が、彼女の正気を支えた。あまりに色々な事がありすぎて、夫の変調を感じ取れていなかった事が悔やまれたが、確かに言われてみれば、遠くにあるアルフォンスの生気が、常ならもっと力強いものである筈なのに、ごく微かにしか伝わってこない。でも、どんなに微かでも、かれはまだ、生きている!
涙ぐみながらも、カレリンダはオリアンを睨みながら言った。
「一刻も早く知らせを、とこのような時間に労をとらせました。ありがとう。わたくしは室に戻って夫の無事をルルアに祈ります」
だが、オリアンの返答は、カレリンダの予想しないものだった。
「いいえ、それは出来ませぬ」
「なんですって?」
ざわり、とカレリンダは総毛立つ。これ以上、更に悪い事が起きる……その予感が彼女を捉えた。
オリアンは、ゆっくりと言い聞かせるように告げた。
「団長閣下の慈悲深いお計らいです。このような事件が起こった以上、カレリンダ公妃とユーリンダ公女が居を共になさっていれば、お二人ともに同時に害が及ぶ危険がある。だから、公妃には、大神殿の方へ移って頂くように、と」
「なんですって?! わたくしと娘を引き離そうと言うのですか!」
今度こそ、カレリンダは悲鳴に近い声をあげた。
「そうです。今すぐに。身の廻りのものは後から侍女に届けさせます。もう馬車を引いてありますから、お急ぎ頂きたい」
「そんな……そんな事を、ウルミス卿が命じる筈がありません。信じられません。とても従えませんわ」
「確かに書状でそう命じられているのです。ルーン公のご家族の警護と監視については、団長閣下は陛下から一任されているのです。従わねば、それこそ反逆のしるし。そう見なされてもよろしいのですか?」
「そんな……ではせめて、娘と話をする時間を下さい!」
ユーリンダは、初めての反抗以来、自室に閉じこもってカレリンダと顔を合わせようとしなかった。あれ以来、同じ屋根の下にいながら会ってもいないのだ。伝えなければいけない事が、山のようにあるというのに!
「駄目です。速やかにご移動下さい。公女には明日わたしから説明します」
「あなたが、アルフが危篤でわたくしはいなくなった、とあの娘に伝えるのですか! そんな、あの娘には耐えられません! どうか、どうか少しの慈悲を下さい。あの娘に会わせて下さい!」
「従わねば、反逆のしるし、と既に申し上げましたぞ?」
「反逆などではありません! どうして母親が娘と話してはいけないのですか!」
物狂おしげに訴えるカレリンダに、オリアンは少しの動揺も見せなかった。
「これ以上抵抗なさると、力ずくという事になりますが、よろしいですか?」
オリアンの顔は、能面のように冷たい。カレリンダは泣き崩れた。その腕を、オリアンは掴もうとする。これ以上の問答は時間の無駄と思ったのだ。
だが、その手を、思わぬ力でカレリンダは振り払った。
「……無礼な。わたくしに触れるでない!」
不意に、カレリンダの様子が変わった。思わずオリアンは一歩下がる。
「聖炎の神子たるわたくしにここまで屈辱を与えたこと、決して許されると思うな」
黄金色の煌めきが、カレリンダの身体を包んだように見えた。
「決して、ルルアのお許しのもとに平穏な死を迎えられると思うな。そなたの言動はすべて、ルルアの愛し子であるわたくしを通じて、ルルアに筒抜けであるぞ!」
「な……何を! わたしを脅すつもりか! やはり大逆人の妻は反逆者か!」
そう言いながらも、オリアンは背に冷や汗が流れるのを止める事はできない。思わず、半ば無意識に剣に手をかけていた。それを見たウォルダースは、二人の間に飛び込んだ。
「公妃さま! カレリンダさま! お気を、お気を確かに!」
ウォルダースの叫びに、カレリンダの目の異様な光は消えていく。これ以上今の状態を保つ事は彼女の体力が許さなかったので、ぎりぎりのタイミングとも言えた。
「……わたくし? いったい今なにを……」
「公妃様。今はお耐え下さい。ルルアは必ずや、何が真か国王陛下にお示し下さいましょう。そうすれば、オリアン様も如何に非礼を働いたか、お悟りになるでしょう。ユーリンダ様の事は、わたくしの命ある限り、お守りするとお誓いします。ですから……」
「もういい! 茶番はもうたくさんだ!」
カレリンダがただのか弱い女性に戻ったとみて、オリアンは苛々して叫んだ。
ユーリンダは眠っていたが、さすがにあまりの表の騒がしさに目を覚ました。眠い目をこすりながら、次の間にいる侍女に声をかける。
「なに? 何かあったの?」
ユーリンダの部屋に付いていた侍女は、ユーリンダより早く仮眠から覚めていたけれど、事情は把握していない。
「さあ……騎士さまたちが何かされているようですけど……」
「ちょっと、様子を見てきてくれない?」
そんな事を言っていると、扉が開いてエリザが飛び込んできた。
「ユーリンダ様! 早く、早く、公妃様が連れて行かれてしまいます!」
寝起きでもあり、ユーリンダはただぽかんとして侍女頭の顔を見つめた。
「お母さまが……なに?」
「金獅子騎士たちが、大神殿にお身柄を移すと、強引に。せめて、一目でも、お会いに……!」
その言葉に、ユーリンダは素早く起き上がった。
「どうして? どうしてなの!」
「それは、後ほどに。とにかく、急がなくては、もう行かれてしまいます!」
ユーリンダは夜着のまま裸足で廊下へ飛び出した。母との確執は今は忘れた。いま会わなくては、もう二度と母と会えないかも知れない、そんな恐怖が胸の奥から突き上げてきたのだ。
「お母さま!!」
階段を駆け下りながらユーリンダは叫んだ。だが、玄関ホールに母の姿はなかった。人の気配もない。外は騒がしい。
ユーリンダは薄い夜着のまま、外への大扉を開けた。少し離れた馬車寄せから、一台の馬車が金獅子騎士に左右に護られながら発とうとしているところだった。
「お母さま、お母さまーーッ!!」
裸足のまま。柔らかな足の裏に小石が刺さるのも感じないまま。夢中でユーリンダは走った。
馬車の中、カレリンダは愛娘の声が聞こえたような気がして、後ろの窓を見た。カレリンダは目を瞠った。大人しい娘が、憎々しげに「お母さまなんか嫌い!」と言った娘が、裸足のままで必死に馬車を追ってくる。
「止めて! 馬車を止めて! お願いだから!」
カレリンダは叫んだ。だが、騎士たちは皆、その叫びを無視した。馬車は速度を速め、やがて娘の姿は闇の中に小さく消えていった。