2-28・街道沿いの村
アルフォンス・ルーンの旅は、その後暫くは特段に変わった事もなく続いた。囚人用の馬車は、金色の鎧騎士たちに囲まれ、粛々と王都へ続く街道を進んでいく。
ルーン公領を通る間、たいてい住民たちは通りに出て、一行を見守った。今のところ罪が確定した訳ではないので、領主の馬車に対し、表だって罵倒の声をあげる者は殆どいない。だが、これまで、良い御領主と讃えていた筈の領民たちの中から、声援や励ましの声などがかかる事もまた、殆どなかった。彼らの多くは、ただ失望の眼差しで一行を見ていた。慈悲深い殿様だと思っていたのに、やっぱり貴族なんか何を考えているかわかったものじゃない……。そんな空気が、時折目張りの隙間から外を覗いてみるアルフォンスにも伝わってきて、苦々しい気持ちにさせられた。
一度だけ、ある村沿いの街道を通っていた時、一人の女が行列の前に飛び出してきた。
「悪魔! ニーナを返せ!」
喚きながら先頭の騎馬の前に立ちはだかった女を、夫らしい初老の男が慌てて引き戻そうとする。
「あの娘は気立てのいい娘で、嫁入りを楽しみに待っていたのに! まだ17だったのに!」
殺された娘の母親らしい。アルフォンスは馬車の中でその言葉を聞き、思わずその娘とユーリンダを重ねて胸が痛んだ。
「殺すならあたしを殺せばよかったのに! ルーン公! 絶対に許さないから! 早くルルアの裁きが下るといい!」
「どかぬか、女!」
行く手を阻まれた騎士が怒鳴りつけた。
「国王陛下直属の金獅子騎士団の行く手を阻むとは何事だ。どかぬと踏み倒すぞ!」
その言葉に、思わずアルフォンスは腰を浮かし、無駄と知っていながらも外から厳重に施錠された扉に手をかけた。無論、扉はびくともしない。かれの民が危険に晒されているというのに、かれは無力だった。
「やめてくれ、その女性を助けてやってくれ!」
アルフォンスは叫んだ。それしか出来なかった。だが、馬の足踏みや群衆のざわめきにかき消され、その声は遠くまでは届かない。ただ、少なくとも馬車の間近にいた一人は、その声を聞き分けた。ウルミスはすぐに馬を進めて先頭の騎士に近づいた。
「やめろ、エド。無抵抗の女を脅すなど、恥ずべきことと思わぬか」
それから女に向かって、
「あなたは被害者の母親か。しかし、ルーン公の犯行であるかどうか、まだ何も明らかにはなっていない。こんなところで危ない真似をするよりも、家で娘さんを弔いなさい」
と諭した。だが、女は頑固に首を横に振った。
「大神官様が確かと仰るなら、ルーン公がやったに決まってる!」
「大神官様は証拠品の鑑定をなさっただけで、罪を裁くのは国王陛下だ」
「国王なんか関係ない! ルーン公でないなら、誰があたしのニーナを殺したんだ?! ニーナを返せ!」
エドと呼ばれた若い騎士は女の言葉に怒気を膨らませた。
「貴様、陛下を愚弄するのか!」
剣を抜きかけた騎士をウルミスは素早く制し、女の夫に、
「もういいからさっさと連れて帰れ!」
と促した。女の夫は慌てて一礼し、周りの村人も手伝って、錯乱状態の女は人波の向こうへ連れて行かれた。
「団長閣下! 陛下への暴言、捨て置いて良いのですか?!」
エドは納得いかない風だ。
「哀れな狂い女だ。捨て置け」
ウルミスはそう言うしかなかった。若く、忠誠心に溢れる騎士にとって女の言動が許せないのは理解できる。かつて若かった頃の彼もそうだったから。しかし今は、女の心も、そしてアルフォンスの叫びも、ただ重く辛いだけ。吐息をついて、行列は再び歩を進め出した。
その夜、夕餉の後、宿でアルフォンスはウルミスに言った。
「頼みがある。一度だけでいいから、民の前で話をさせてくれないか?」
しかしウルミスは予想していたこの申し出に、目を逸らした。
「駄目だ。悪いが、聞き入れる事はできない」
こうまであっさりと断られるとは思っていなかったアルフォンスは、気落ちした貌になる。
「何故だ? 幾重にも人に囲まれて、わたしが逃げ出すなど出来ようもあるまい?」
「……そういう事ではない」
ウルミスは溜息をついた。
「きみの気持ちはよく解るし、出来ればその望みを叶えたい。しかし駄目だ。一つには、罪人の演説など、前例もない事。だがこれは、わたしが何とか取り計らえる範囲ではある。だがもう一つ、それはかなりきみ自身の身に危険が及ぶということだ」
「危険など構わない。わたしの話を、わたしの民に聞いて欲しいんだ! 彼らは、噂話を耳にするばかりで何が正しいか知る術もない。わたしの話を聞いて、彼ら自身に判断して欲しいんだ!」
だが、やはりウルミスは頷かなかった。
「三つ目の理由は……言いにくいが、たとえ危険を冒してそれをやったとしても、恐らくきみの言葉は民衆に届かないだろう、という事だ」
「どうしてだ? やってみないとわからない!」
「やってみないとわからない……それは、確かにそうだ。だが、やってみないとわからない事の為に、きみの命を危険に晒し、金獅子騎士団がきみを無事に王都へ送り届ける、という任務を全うできなかった、という結末に至らせる危険は犯せないんだ」
「……そうか、そうだな。わたしを無事に送り届けるのがきみの任務だ。……無理を言ってすまなかった」
確かに自分はウルミスの好意に甘えすぎていたようだ……ウルミスの言葉にアルフォンスの頭は少し冷える。もっと罪人らしく扱われても文句を言える立場でもないのに、ウルミスはあれこれと気を遣い、少しでもアルフォンスが不自由を感じないように、また、騎士たちの冷たい視線を受けないようにと配慮してくれている。今日だって、あの女性が騎士にひどい目に遭わされないよう素早く動いたのは、自分の叫びを彼だけが耳にしたからだ。勿論、ウルミスの気質上、それがなくとも同じようにしてはいただろうが。
「部下たちとの関係をぎくしゃくさせてまで、わたしを庇ってくれているというのに、これ以上、きみの立場に傷がつくかも知れないような事を頼むなんて、わたしは愚かだった。済まない」
素直に謝罪するアルフォンスに、ウルミスは何故か苛立ったように激しく首を振った。
「違うんだ、アルフォンス! わたしの為に言っているんじゃない。きみがこれ以上傷を負うのを見ていられないからだ!」
「……どういう意味だ?」
「きみは理想家すぎる。誠を尽くして話せば相手は理解すると信じている」
「そんな、子ども扱いしないでくれ。誰にでも、言えば話が通じると考える程若くもない。一応、宮廷に身を置いてこれまで過ごしてきたのだからな。それは、宰相殿ほど駆け引きの手腕に長けているとは到底言えないが」
アルフォンスは苦笑したが、ウルミスは渋面のままだ。
「相手、というのは個人ではない。民衆だ。きみは、今まで人望があり、配下に慕われ、良き領主と讃えられてきた。きみの人格やきみがしてきた事を考えれば、当然の事だ。だが、その為に、きみはあまり学ぶ機会がなかったんだ。民衆とは、弱く愚かなものであるという事を」
「民衆が弱く愚かであるとは思わない。日々の暮らしに追われる庶民といえど、時には結集して立ち上がる事も出来るし、自分で考え、判断して生きている筈だ」
「ところがそうじゃない場合もある。きみの民は、治安のよい地方に暮らし、護られ、のどかに生きてきた。そうした民は、自分で考える事をしない。今の暮らしが守れればそれでいいと思い、庇護してくれる強者に寄る。今までは、それがきみだった。でも今までの安定が崩されようとしている事を、きみの民は感じ、恐れている。そんな時に民は何を思うか? きみを信じ、従うと思うか? そうじゃない……かれらは、あっさりと恩を忘れる事ができる。それは、かれらのせいでもきみのせいでもない。ずっと昔から、そうした慣習のもとで、かれらも我々も生きてきたからだ。かれらを直接統括しているのは、村長や役人や小貴族。そういう、直に関わりのある存在の言葉には、或いは少しは耳を貸すだろう。しかし、アルフォンス・ルーン公爵……その名は、かれらにとって単なるひとつの記号でしかない。雲の上の存在、かれらの生活を護る象徴を表す記号。アルフォンス・ルーンが本当はどういう人物で、本当に罪を犯したのか、などかれらには本当のところ、どうでもいいんだ。ただ、かれらは、きみが失脚したら誰が自分たちの生活を護ってくれるのか、それだけが気がかりなんだ」
「そんな事はない。それは確かにそういう面はあるだろうが、それでも、真実がどこにあるのか、それを本当に知りたい者も多い筈だし、そういう者は話を聞く耳を、頭を持っている」
「わたしはそういう個人ではなく、民衆、の話をしているんだ。民衆の中にも勿論、ちゃんとした頭を持った者もいるだろう。でも、民衆、になってしまったら駄目だ。民衆とは愚かなものなのだ。誠実さを示す為に民衆の前で話をするなど無駄だ。王家への翻意を促し、自分を助けた者には褒美をやろう、と演説する方がまだ意味があるかも知れない。だが無論、そんな事をきみがする筈もないし、出来る筈もない。こう言っては悪いが、今の無力なきみが何を訴えようと、好奇と悪意に晒されるだけで何一つ理解される事などない」
「民衆そのものに理解されなくてもいい。その中のたったひとりでも、わたしの言葉を信じてくれたら、と……」
ウルミスは、騎士団長として様々な経験をしている。アルフォンスよりも、民の裏側を知る機会も多く、その分嫌なものもたくさん見てきただろう。しかし、アルフォンスは民衆がそこまで愚かだとは思わない。或いは、意地かも知れない。ウルミスの言い分を全て認めるなら、これまでかれが領主として民の為に尽くしてきた一切が、大した意味もないものだったのかと思えてきてしまう。民に話をしたいという願いは諦めたが、ウルミスには解ってもらいたい。自分の民は、そこまで愚かではない筈だと。
だが。
言葉を継ごうとした時、アルフォンスは不意に身体を貫かれるような激痛に襲われた。
「……ッ!!」
「アルフォンス?!」
急激に蒼ざめ、身体を折って椅子から崩れ落ちるアルフォンスを、ウルミスは驚愕し、慌てて支える。アルフォンスはそのまま倒れ込み、激しく痙攣した。
――――毒を盛られた。
ウルミスの怒鳴る声を間遠く感じながら、アルフォンスの意識は体中を激しく呵む苦痛と共に闇へ呑まれていった。