表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第二部・陰謀篇
75/129

幼年篇22・光

 翌朝まで泥のような眠りに落ちていたカレリンダは、目覚めるとすぐに身支度を調え、昨日のことを夫に詫びた。

「申し訳ありませんでした、あなた……子どもたちの前であんなことを口走るなんて、わたくし、どうなっていたのでしょう……? 多分、シルヴィアに自分を重ねて、一層子どもたちが如何に大切かを感じていたところに、ルルアの否定……つまりはわたくしの存在意義の否定をされた気がして、神経がおかしくなってしまったんでしょうね。本当に情けないわ。こんなに自分が未熟だったなんて。あんなに幼くて傷ついた子供の言葉にかっとなるなんて」

「解ってくれればいいんだよ、カリィ」

 ほっとしてアルフォンスは穏やかに言った。

「母性の暴走というのは、わたしにも理解できるとは言えないが、それだけきみが子どもたちを愛しているという事なんだろう。その愛情を、あの可哀想な甥にも少し分けてくれるとわたしは嬉しい。わたしにとって、たった一人の血の繋がった甥っ子だ。シルヴィアに対しては、ただ罪悪感でいっぱいなんだ。あの子がシルヴィアの望み通りに幸せに成長してくれれば、わたしの罪悪感も少しは拭われる」

「勿論、わたくしだって……あなたのせいではありませんわ。わたくしがシルヴィアからあなたを奪ったのですから。シルヴィアがルルアのもとで安らかに過ごせるよう、アトラウスが立ち直って正しいルルアの子になるよう、尽力しますわ」

「じゃあ、今日は子どもたちとアトラウスを会わせてもいいね?」

「……ええ」

 カレリンダは、まだ少し無理をしているような微笑を浮かべて頷いた。

「わたくしは、残りますわ。また変なことを口走ってしまってはいけないし……子どもたちの事は、あなたにお任せします」

 任されても、絶対うまくいくという自信もないのだがな、と、アルフォンスは心中自嘲的に思ったが、大丈夫だよ、と表面上余裕を見せて妻を安心させるよう努めた。


 こうして、アルフォンスは再びふたごを連れて弟の館へ出向いた。

「伯爵さまは、誰にも会いたくないと仰せで、部屋に閉じこもっておいでです」

 アルフォンスは執事の言葉に呆れて思わず、

「じゃあいったい誰が葬儀を取り仕切るんだ?」

 と叫んだ。

「葬儀は明日ですから、それまでには出てくる、と仰せでした。それまでの手配は全部わたくしめがやるようにと……」

 執事も随分やつれた様子だ。この、ロータスという執事は、物静かで謙虚なシルヴィアが伯爵妃として嫁いで以来、誰にも言えぬ淡い想いをシルヴィアに寄せていた。誰一人……無論シルヴィアも気づくこともなく……。あるじの暴走を止める事もかなわず、シルヴィアにあのような最期を遂げさせてしまった事で、この男は自分を責め続けていた。何もかも知っていたのに、あるじに忠実である事が自分の責務と考えてきた。だが、こんな事になるなら、アルフォンスなりダルシオンなりに、独断で助力を請えばよかった……そんな後悔に呵まれていたのである。しかし、この慌ただしい中で、そんな彼の心中に気づく者もなく、あれはどうするのか、これはどこに置くのか、という侍女たちへの対応に追われていた。

 勿論、アルフォンスもシルヴィアへの追悼とアトラウスの今後の事で頭がいっぱいで、執事の葛藤などに気が回る訳もない。

「アトラウスは? 何か食べたか?」

「いいえ、何も……白湯は少し口にされたようですが、食事は拒否されています」

 では、五歳の子供が、昨日から今日まで、何も食べていない訳だ。

「今からうちの子どもたちと話をさせる」

「はい……どうか、若君をお救い下さいませ」

 ロータスは目を赤くしながら言った。


「アトラウス!」

 ふたごは、相変わらず布団に潜っているアトラウスに近づいた。アルフォンスは室の外で様子を窺っている。

「……」

 アトラウスは返事をしない。

「ね、お外へ行こうよ。ここでじっとしてたら、叔母さまがかなしむよ?」

 ファルシスが父に習った通りに言った。

「……きみに、何がわかるんだい」

 アトラウスは、怒りと悲しみにくぐもった声で布団の下から応えた。

「お母さまはいなくなった。だからもう、ぼくのことでかなしいと思うこともないんだ」

「叔母さまはルルアの国からアトラウスを見ていらっしゃるのよ? アトラウスが元気にならないとかなしまれるわ」

 ユーリンダは、なんとかこのきれいな黒い目のいとこが昨日のように明るく笑って欲しい、と願いながら言った。

 幼いふたごには、ひとの死、というものが真に理解できている訳ではない。悲惨なシルヴィアの死に様を見た訳でもない。でも、もしもお母さまが自分たちを置いてもう二度と会えない所へ行ってしまったらどんなに悲しいか、それは想像できた。

「ルルアの国ってどこにあるの? そんなに言うなら、ぼくをそこへ連れて行ってよ!」

「生きている人は、ルルアの国には行けないのよ」

「そんなら、誰もルルアの国を見たことがないんじゃないか! どうしてそんな場所があるってわかるの?!」

「聖典に書いてあるじゃないか」

「聖典なんてただの本じゃないか!」

 聖典は何よりも大切なものと教えられてきたふたごは、いとこの言葉に驚いた。

「そんなこと言っちゃだめだよ、アトラウス! 聖典はルルアが人間につたえられたとても大切なものだよ!」

「ルルアなんか嫌いだ! いくらぼくが『罪の子』だからって、お母さまをあんなふうにしてしまうなんて!」

「ルルアの悪口を言ったら、死んだときにルルアの国に行けなくなるんだぞ! そしたら、もうお母さまに会えないぞ!」

「ルルアの国なんかない! お母さまにはもう会えない!」

「アトラウスのわからずや!」

「きみなんかにぼくのきもちがわかるもんか! きみには優しいお父さまとお母さまがいるんだからな! もうぼくにかまわないでよ!」

 布団から起き上がったアトラウスとファルシスは睨み合っている。

 ユーリンダは胸が痛くなってぽろぽろと泣いた。アトラウスはそんなユーリンダに見向きもしない。昨日はあんなに優しく笑ってくれたのに。ルルアの国がないなんて、どうしてそんな悲しいことを言うのだろう?

「アトラウス……ルルアの国は、あるわ」

 そう言って、そっと従兄の手をとった。最初は反射的にその手を振り払おうとしたが、年下の愛らしい従妹のあまりに悲しそうな表情に、思わずアトラウスの手は止まった。

(ユーリンダ……あなたの力を、少し貸してちょうだいね)

 声なき声が、幼いユーリンダの耳を掠めた。触れ合った小さな手と手の間に、初めはごく弱い、だが、徐々に強くなってくる光が生まれた。黄金色の光……まだ次期聖炎の神子としての手ほどきなど受けていないユーリンダが、初めて灯したルルアの光だった。それは、ユーリンダだけの力で生まれたものではなかった。

「叔母さま?」

 殆ど無意識にユーリンダは呟いた。アトラウスははっと身を固くした。黄金色を持たないアトラウスは、生まれつきの魔力も持たない。でも、感じることは出来た。いま、ここに、お母さまがいる!

『アトラ……悲しませてごめんなさい。約束を守れなくてごめんなさい』

 ユーリンダは言った。だが、それはユーリンダ自身の声でも言葉でもなかった。

「お母さま?! お母さまなの?!」

 アトラウスは叫んだ。

『アトラ……わたくしの愛するアトラ……』

 それは、間違いようもなくシルヴィアの声だった。魔力に恵まれたシルヴィアの霊魂は、ルルアの許しを得て、束の間戻ってきた……扉の覗き窓から様子をみていたアルフォンスはそうと悟って息を呑んだ。

「ユーリィ……どうしたの?」

 ファルシスは怯えた顔で妹を揺すったが、憑依はまだ解けなかった。

『アトラ……わたくしは、ルルアの国からいつまでもあなたを見守っています。だから、ルルアの国がない、なんて恐ろしいことを言ってはなりません。ルルアの国は穏やかで光に満ちた世界なの……ほら』

 アトラウスの目前の黄金色の光が更に強まり、そしてアトラウスは見た。光溢れる美しい神の国を。

「お……かあさま」

 アトラウスは感動に打たれて息もつけぬ様子で、細い腕を伸ばした。だが、その手は虚しく見えている光景を突き抜けた。

「お母さま! ぼくも行く! ぼくもそこへ連れて行って!」

『だめよ、アトラ。あなたはまだ小さい。大きくなって、色々なことをして、学んで、おとなになるのよ。生きることの素晴らしさを知って。あなたの人生はいまから始まるのよ。光輝く人生が……。お母さまは、いつまでも、あなたを見守っています……』

 段々と、ユーリンダの口を借りたシルヴィアの声はか細くなってゆく。そうと察したアトラウスは、必死で母親に縋ろうと、思わずユーリンダの身体を抱き締めていた。

「行かないで! お母さま、置いて行かないで!」

『今度こそ……さいご……さようなら、わたくしのアトラ……』

 黄金色の光は徐々に弱まり、そして消えた。

「おかあさまーッ!!」

 アトラウスは泣き叫んだ。

「……どうしたの、アトラウス?」

 硬直していたユーリンダの身体がふっと元に戻る。夢から醒めたばかりのようなぼんやりした目で、ユーリンダは自分を抱き締めている従兄を見た。

「きれいだったね……」

ユーリンダもまた、アトラウスと同じものを見ていたのだ。

「泣いてるの? どうして泣いてるの、アトラウス……?」

「お母さまが、ぼくをまた置いて行ったから……」

「叔母さまは、いつもあそこからアトラウスを見守っていてくれるのよ。ねえ、だからアトラウス、わたしたちといっしょにお外へ行きましょう? きれいなお花が、おひさまの光が、そしてルルアの愛が、アトラウスを元気にしてくれる。叔母さまは、元気なアトラウスが見たいのよ」

 普段よりややおとなびた口調。まだ、シルヴィアの想いの残渣が残っているのかも知れない。

「きみは、あたたかいね、ユーリンダ」

 泣きじゃくりながらアトラウスは言った。

「ぼく、お母さま以外に、こんなあたたかさは知らなかった。ねえ、ぼくがお外に出ていつか元気になれたら、お母さまは喜んでくれる? いつかぼくがおじいさんになって死んでルルアの国に行ったら、お母さまは笑って抱き締めてくれるかな?」

「もちろんよ、アトラウス! さあ、行きましょう!」

 ユーリンダに手を引かれるままに、アトラウスは寝台から下りた。年下のように素直に、彼はユーリンダについていく。ファルシスは不思議そうな顔で二人を見て、あとに続いた。あの光景は二人にしか見えなかったし、ユーリンダの変化の理由もさっぱり解らなかったからだ。

 アルフォンスは扉のところで子どもたちが歩いていくのを見送った。アトラウスが外へ出る気になったのは良かったが、死者に憑依された愛娘は大丈夫だろうか……そんな複雑な思いがよぎったが、魔道に長けていないかれには何とも判断し難い。子どもたちの邪魔をしないように、そっと後を追った。


 外の陽射しは明るかった。アトラウスは眩しそうに目を細めた。

「光がいっぱいだね……」

 彼は呟いた。




『きみは、あたたかいね、ユーリンダ』

 子どもの頃のアトラウスのあの言葉を、17歳になったいまも、ユーリンダははっきりと覚えていた。いま、微睡む彼女の夢のなかで、幼いアトラウスは光に満ちた庭園へ駆け出してゆくところだった。その背中を追って、彼女も一緒に駆け出した。ずっとずっと、この背中に自分はついてゆくのだ、と確信しながら。



「……雨が降り出したようだ。そろそろ、帰った方がいい」

 燭台の灯りをともしながら、アトラウスは言った。窓のない薄暗い小部屋に、ぽうと小さな火がついて、その光は、粗末な寝台に力尽きたように横たわる女の白い裸体を、僅かながらに照らし出す。壁の上の換気口から、激しい雨が地面を打つ音が微かに伝わってくる。

「……」

 ローゼッタは口もきけぬ態で、汗ばんだ黒髪を身体に絡ませながら乱れたシーツの間にいたが、その声でようやく、よろよろと身体を起こした。

「少し刺激が過ぎたかい? 経験豊富との噂だったが、意外に知らないんだね」

「あなたが……あなたがおかしいのよ。あんな……あんなこと……」

 言葉も切れ切れに、ようやくローゼッタは言い返した。床に落ちた衣服を拾いながら、アトラウスは小さく笑う。

「そう? でも、随分満たされたようじゃないか。声が表の騎士たちにまで聞こえやしないかとはらはらさせられたよ」

 ローゼッタの頬が紅潮し、思わずアトラウスに向かって手を上げたが、難なく彼はその腕を掴み、

「早く身支度しなさい。そんなに乱れた髪では、何があったか誰にでも判ってしまう」

 と素っ気なく言った。

「ひどいひとね……少しくらいは、優しい言葉を言ってくれたっていいのに」

「もう、充分に優しくしたつもりだが」

 アトラウスは情事のあととはとても思えぬ程に冷静な口ぶりだ。

「言って欲しいのか? 愛しているよ、可愛いローゼッタ、と?」

「嘘の言葉なんかいらないわ! あなたは……あなたは、熱くて、そして、氷のように冷たい……」

 恨み言は、徐々に啜り泣きに変わってゆく。

(どうして、こんな男を愛してしまったんだろう……)

「仕方がない。ぼくの愛は、生涯ずっと、ただひとりのもの……」

「わかっているわよ!」

 ユーリンダを妬む気持ちと、彼女の知らないアトラウスの影の面を知り、彼女には想像もできないであろう快楽をアトラウスと共にしたことによる歪んだ優越感が、ローゼッタの中でぐちゃぐちゃにかき混ざる。

 光の射さない部屋。

 雨は、降り続けている。

ようやく幼年篇の終わりです。書き始めた時はせいぜい5章くらいで終わる予定でしたが、思いの外長くなってしまいました。でも、書いてみたら、本編に必要な事ばかりでした。

またドロドロな現代に戻ってきました。よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ