幼年篇・19・兄と弟
それから、ダルシオンは、細かに調査をした結果、アトラウスは間違いなくカルシスとシルヴィアの子であると皆に告げ、ようやく、遺体を清めて寝台に移すことを許可し、帰って行った。
カルシスは礼も言わず、血走った目でダルシオンを睨み続けており、アルフォンスが代わって大神官に労をねぎらい、礼を言って送り出した。互いに思うところがあったにせよ、二人はもう余計な事は何も言わなかった。
オルガにアトラウスの様子を見させたが、寝台で眠っているようだという事なので、目は離さず、暫くそっとしておくようにとアルフォンスは指示した。
「カルシス……」
カルシスは、侍女たちがシルヴィアの部屋を掃除し、遺体を清めて血まみれの衣服を取り替え、寝台に安置する様を、戸口に立ち、黙って眺めていた。カレリンダはシルヴィアの枕元で、静かに祈りを捧げている。アルフォンスは弟に何と声をかけるべきか迷った。無論、カルシスに対する怒りは大きい。ここに来るまでの間、もしシルヴィアの身に異変があれば、絶対に弟を許さない、と思っていた。だが、彼を責めてもシルヴィアが戻る訳でもない。かつて、カルシスとシルヴィアは愛情で結ばれていた。それが破綻したのは、すべて誤解からなのだ。カルシスの愚かさと頑なさがなければ解けていた誤解であったとしても。呆然として抜け殻のように立ち尽くしている弟を見て、罵る気は薄れていった。それが、アルフォンスの優しさであり弱さである。
「……シルヴィアさまの書き置きがございました」
侍女頭が書状の束をカルシスへ差し出した。
「……なんて書いてあるんだ?」
掠れた声でそう応じただけで、カルシスは受け取ろうとしない。アルフォンスが代わりにそれを受け取った。
「……おまえに、アトラウスに、そしてわたしにだ」
ダルシオンに宛てたものは、既に彼が持ち帰っていた。
「おれに、どんな恨み言を?」
「読んでいいのか?」
「ああ、読んでくれ」
そこでアルフォンスはカルシスの腕を引いて別室へ移り、使用人のいない所で、カルシスへの遺言を読んで聞かせた。カルシスはされるがままになって椅子にかけ、短い遺言を聞き、ようやくそれを自分の手で受け取って読んで、そして初めて涙を見せた。
「ほんとうにあいつはおれを想っていたのか。ほんとうに……最初から最後まで、あいつは、シルヴィアは、おれを裏切っていなかったのか。なんでおれは、あいつのことを少しも信じてやらなかったんだろう。おれは怖かったんだ。もしも信じて、それがまた裏切りだったらと、それが怖くて、あいつらを痛めつけて自分を慰めていたんだ……」
呟くようにカルシスは独りごちた。
「あいつらはおれのものだと……痛めつけてここに置いていれば、いつまでもおれのものだと……そんな真似をしなくても、あいつらは最初からずっと、おれの妻とがきだったのに……」
「……」
その悔恨の言葉を聞いても、やはりアルフォンスは、心からかれを思いやったり、許したりする事は出来ない。あのシルヴィアの凄惨な最期を見たばかりでは。優しくて善良なところが何よりの取り柄だと思っていた彼女があんなに強い心を持っていたなんて、自分は何と人を見る目がなかったのか。だが、そのシルヴィアが最後に自分に託した願いは、アトラウスのこと、そして、兄弟仲良く、ということ。その願いを叶えてやる責任が、自分にはある、とアルフォンスは思った。
「カルシス、もう、いい」
アルフォンスは重い口を開いた。
「反省は必要だが、過ぎたことは還らない。おまえが今一番すべき事は、アトラウスに詫びて、傷つきすぎた心を癒やしてやることじゃないのか。なんといってもおまえはあの子の父親で、おまえがあの子を立派に嫡子として育てる事が、シルヴィアの一番の望みなんだ」
「おれは……おれはあいつに合わせる顔がない。どのみち、あいつはおれを許さないだろう」
そうかも知れない、とアルフォンスも思う。シルヴィアの死の直接の原因は結局、アトラウスでもなくアルフォンスでもなく、カルシスなのだから。しかし、根気強くアルフォンスは続けた。
「カルシス、彼女は自分の死がアトラウスを傷つけないよう、あの子へこんな書き置きまで残しているんだ。あと何年か、アトラウスが自分の死を知らずに済むよう……知っても、自分のせいだと思わないよう。なのに、可哀想にアトラウスは最悪な形で彼女の死を知ってしまった。あんなに幼いのに、こんな辛い目に遭って、あの子をどうやって立ち直らせられるのか、正直わたしにもどうすればいいのかわからない。でも、どうにかして、あの子を外へ出して、ちゃんと育てるようにするんだ。いくらでも助力する。しかし最終的には、父親のおまえが対処すべきことだ」
「兄さん……」
カルシスは涙声で縋るように言う。
「おれはどうしたらいいかわからないよ。おしえてくれよ、兄さん。あんたはなんでもできる筈だ」
「……」
不仲だった弟が、生まれて初めて自分に頼ってきている。勝手すぎる、しかしアルフォンスはただ、弟の頼みに上手く応えられない自分がもどかしい。いくら優れた人間といえど、あれ程に傷ついた幼い心を癒やす術など、そう簡単に見出せる訳もない。
「わたしだって何でも出来る訳じゃない。だが、カレリンダならもう少し何か出来るかも知れない。こういう事は、女性の方が向いているだろう」
ただそう言うのが精一杯だった。
「だれでもいい、なんでもいいから、おれを助けてくれ……」
頭を抱えてカルシスは唸った。