1-4・若君と侍女
その夜。
帰省の支度をしていたリディアは、エプロンのポケットに入れていた筈のものがない事に気づいた。
許婚からの手紙。今回の、神殿への参詣についての連絡だった。
必要な事のみを羅列した素っ気ないもの。
リディアと婚約者は、熱烈な恋愛関係にあると信じてやまないユーリンダあたりが見たら、言葉を失うような代物だ。
しかし、身の回りの世話をし、子供を産む後妻となるなら誰でもよいと考えている、初老の許嫁が書いた文と思えば、特に驚くにあたらない内容と言えた。
ともかく、手紙がないと、身支度や色々な面で支障が出る。
リディアは己の行動を思い返し、夕刻にダイニングルームの片づけを手伝った際に落とした、という可能性が強い事に思い至った。
侍女頭に断った上で、静かにダイニングルームの扉を開けて入り、かがんで掃除をした場所に灯火を向けた。
……なかった。
困ったなと溜息をつきながら身を起こした時、驚きの余り飛び上がりそうになった。
「これを探しているの?」
暗がりの中で、突然声がしたからだ。かろうじて悲鳴を飲み込んだ。
「……若様」
星明かりの下のテラスから、ゆっくりとファルシス公子が入ってきた。右手に、リディアの捜し物を掲げている。
「は、はい。申し訳ありません。ありがとうございます」
まだ心臓を激しく打ちながらも、深々と礼をし、手紙を受け取ろうとした。
だが、ファルシスは手紙を持った手を、すっと引いた。
「大事な物?」
「? は、はい。」
「ふん……こんな冷たい手紙を寄越す許婚が大事なのか」
その言葉に、リディアの頬が僅かに紅潮する。
一介の使用人に過ぎないリディアには、落とした手紙を公子に読まれたからと言って、声を大にして抗議する権利はない。
だが、私的な手紙を読まれた上、そんな突き放した物言いをされて、嬉しい筈もなかった。
何か言いたかったが、適切な言葉が思いつかず、ファルシスの目を見ずにただ、
「はい……」
と呟いた。
「結婚が嬉しい?」
「……はい」
「許婚は優しい?」
「……はい」
「そうか。よかったね」
ファルシスは緩慢な動作で手紙をリディアの手に押しつけた。
公子の手は温かかった。
「若様」
思わず何も考えずに口走り、慌てて次の言葉を探した。
「ありがとうございます」
ファルシスの右手とリディアの右手は、許婚の手紙を挟み、指先が触れ合った。
……この温もり。
リディアはふと、想いが胸に込み上げた。
この温もりを指先にしまっておけば、嫁ぎ先でいかなる辛い事があっても耐えられる。
手紙を落としてよかった。こんな温もりを得られた。リディアは幸福な気持ちだった。
身分の上下も僅かに意識するのみ、子犬のようにじゃれていた時代から、リディアはファルシスを慕っていた。
生涯、想うのはファルシスただ一人。
幼い頃から、なぜかそう判っていたのだ。
長じるにつれて本心を仮面で隠し、如才なく穏やかに他人と接し、高貴な姫君と華やかな浮き名も流す公子に、何も言える筈もなかったけれど。
触れ合った掌を、ファルシスはぎゅっと握った。
「若様?」
ファルシスはいきなりリディアを抱き寄せた。触れ合った掌が熱くなった。
「リディア。嫁入りなんか、するなよ」
くぐもった声でファルシスは言った。黄金色の髪がふわりと揺れ、抱き寄せられたリディアの頬にかかった。
「傍にいて欲しい……。本心で口をきかなくなってから、何年にもなるけど、ぼくはずっと、お前を見ていた。何の飾りもない頃から知っている、お前の優しさや曇りのないところに、ぼくはずっと救われていた……」
「ファルさま……?」
幼い頃の呼び名を口にし、驚きながらもリディアはそっと左手をファルシスの背に回した。これくらい……これくらいなら、許されるか、と思いながら。
信じられないくらいの幸福だった。今すぐ、死にたいくらい。
両の瞳から涙が溢れた。
「ファルさま……」
きつく抱かれ、初めての口吻を交わした。
永遠に思える一瞬の後、リディアは自分から身を離した。
「リディア?」
「若様。リディアは幸せな気持ちで嫁げます。若様もどうか、素敵な姫君を娶られて下さいませね」
微笑んで、そう言えた。
嘘ではなかった。
「でも、リディア、お前は許嫁の事を好きな訳じゃ……」
「リディアはもう、一生分の幸せを得ています。これより後は、若様の幸せがリディアの幸せでございます」
そう言うと、身を翻し、扉へ向かった。一歩踏み出す毎に、涙が一粒ずつ、こぼれ落ちたけれど。
それでも、リディアは、かつて味わった事のない幸福感を覚えていたのだった。