幼年篇・16・最愛の母との再会
「おかあ……さま?」
アトラウスには、目の前の光景の意味がすぐには解らない。赤いものは、血? お母さまは怪我をしてるのだろうか。
「お母さま……だいじょうぶ?」
震えながらアトラウスはシルヴィアに近づいた。シルヴィアはまったく動かない。ほどけた黄金色の髪が伏した細い身体を覆うように広がり、こびりついた血液は黒く固く変色してきている。横を向いて床に倒れたその貌を、アトラウスは怖々近づいて覗き込んだ。
シルヴィアの瞳は半開きのまま、黄金色は光を失いどんよりと曇っている。その唇は微かな笑みを浮かべているように見えなくもないが、表情は強張り、不気味とも思える冷たさを湛えている。何よりも大切な母親の見たこともない姿に怯えるばかりで、五歳のアトラウスの心は彼女の死を受け入れる事が出来なかった。
「おかあさま……ね、おきて? ぼく、帰ってきたよ。とっても、たのしかったんだ……」
涙声で語りかけ、アトラウスはシルヴィアを揺り起こそうとした。
その時、突然、室内に男の声が響いた。
「触れるな!」
びくりとしてアトラウスは後ずさった。今までまったく気がつかなかったのだが、寝台の向こうに男が立っていた。
法衣を纏った背の高い男。黄金色の髪と瞳。だが、その瞳は、父とも伯父とも違う鋭さと険しさを浮かべている。
「だ……だれ?」
大人であれば誰でも、その容姿と服装から、男の身分がすぐに判ることだが、世間知らずな幼子には判らない。
「わたしはルルア大神官ダルシオン・ヴィーン。そなたが……アトラウスか?」
冷たい視線が品定めをするように、怯えきったアトラウスを捉えている。
「は……はい……」
小さな声でアトラウスは答えた。大神官がとても偉い人である事くらいは知っている。そして、とても強い魔力を持つ人だという事も。勇気を振り絞って、アトラウスは縋るように尋ねた。
「あの……お母さまはどうしたんですか? お母さまをたすけてください!」
ダルシオンは首を横に振った。
「シルヴィアは死んだのだ。死んだ者を蘇らせることは、出来ぬ」
「……」
それは、救いを求めた幼子に対して、あまりに惨い応え……。どんなに幼かろうと、真実から逃れる事はならぬ、とはダルシオンの考えであったが、そこには何の情けもない。彼は更に追い打ちをかけるように告げた。
「そなたの母は、そなたを今の境遇から救い出す為に自害したのだ。おかげでようやく、おまえの父はおまえを我が子と認めた。母の愛に感謝するがいい」
ひくり、とアトラウスは息を吸い込もうとした。だが、うまく空気が飲み込めない。アトラウスは、呼吸の仕方を忘れてしまった。
おかあさま……しんでしまった? あとから来るって、やくそくしたのに?
おかあさま……もういない? もう来ない? もう抱っこしてくれない?
ここに寝ているのはだれなの? おかあさまじゃないの? おかあさまみたいだけれどおかあさまじゃない。おばけみたいにかたくて冷たくて、怖い。
じがい、ってなに? おかあさまは、じぶんでじぶんを、ころしたの?
こんなにこんなに血がいっぱいでて……どんなに痛かったの、おかあさま?
そして、おかあさまがそんなことをしたのは、ぼくの、せい……?