幼年篇・13・シルヴィアの覚悟
『カルシスさま。カルシスさまの妻となり、アトラウスを生む為、わたくしはこの世に生を受けたのだと思います。カルシスさまと二人で過ごした時間は、本当に幸せでした。どうあってもわたくしを信じて下さらないこと、お恨みしたことも確かにございました。それでも、あなたを今も愛している、と申したこともまた、偽りではございません。どうか、このシルヴィアを少しでも哀れと思われたなら、代わりにこれからはアトラウスを息子として愛し、立派な公子に育ててやって下さいませ。アトラウスには、真実は伏せ、ただわたくしは遠いところに療養に行ったことにし、あの子がもっと成長してから、わたくしは病死したとお知らせ下さい。あなたさまは本当は優しいおかた。どうか、よい後妻を娶られて幸せにお暮らし下さいませ』
本当の心を探れば、カルシスを今も愛しているのか、自分自身にもよくわからない。本当は優しい心を持っているひと……と信じている、信じたい。自分にとって唯一の男性で息子の父親。不貞を疑って豹変するまでは真に愛していた。でも、この五年の様々の暴言、暴力は、彼女の前向きな気力を奪い尽くしてしまった。今は、愛の残渣に縋っているだけかも知れない。でも、夫を愛している、と信じて死ぬ方が、そうでないよりずっと良い。だから、自分にそう言い聞かせた。
『愛するアトラへ。お母さまはこれから、遠い土地へ旅立たなくてはなりません。お母さまは病気で、そのせいであなたにもつらい思いをさせてしまいました。遠い暖かな土地でお母さまは病気を治して、きっと帰ってきます。約束を守れなくてごめんなさいね。ずっとあなたを愛しています』
それからシルヴィアは、少しずつ成長する我が子の姿を想像しながら、未来の我が子に向かって何通か手紙をしたためた。母が生きているのに文も寄越さないなど、訝り悲しむだろうと思ったからだ。
『愛するアトラ。大きくなったのでしょうね。勉学や鍛錬に励んでいることでしょう。会える日が楽しみです……』
『愛するアトラ。もうお母さまよりも背が伸びた事でしょうね。お母さまはまだ具合があまりよくなくて帰れそうにありません。でも、いつもあなたの事を思っています……』
そんな文を数通したためて束ね、半年置きくらいに、今届いたとして渡してもらいたい、と添え書きをしておいた。
『アルフォンスさま。お優しい貴男さまは、わたくしのこの人生の結末にきっと心を痛め、そして何の咎もないのにご自分をお責めになることでしょう。そんな貴男さまの姿を想像すると辛うございます。でもいまわたくしは、本当に穏やかで満たされた心持ちでいるのです。どうぞわたくしを哀れまず、カルシスさまと兄弟仲良くなさって下さいませ。貴男さまの許婚でいた少女時代、カルシスさまの妻となってからの暮らし、わたくしはいつもたくさんの幸福に包まれていました。そして、一番の幸福を与えてくれたのが、我が子アトラウスでございます。どうかアルフォンスさま、シルヴィアの最期のお願いをお聞き下さいませ。アトラウスに情けをおかけ下さいませ。ルーン公爵の甥として世間に認められるよう取り計らって下さると信じております。夫と共に、アトラウスにしかるべき教育を施し、また、御子様たちときょうだいのように仲良くさせてやって下さいませ』
カレリンダと末永く睦まじく……その言葉を添えようか迷ったが、やめておいた。それは、この文に必要なほどに心からの気持ちではない、と思ったからだ。
『ダルシオンさま。禁じられた魔道を行うこと、どうかお許し下さい。けれど、ダルシオンさまの書のおかげで、アトラウスは幸福になれると信じております。師として、本当に尊敬しておりましたし、感謝しております。わたくしの無実はわたくしが一番存じておりますが、この魔道の結果が如何なるものであるか、どうか夫によくお話下さいますようお願い致します。不祥の弟子の最期の願いを、どうぞお聞き届け下さいませ』
これだけの文を書き終わると、もうシルヴィアは疲れ果て、殆ど体力が残されていなかった。窓の外は白みかけている。シルヴィアはゆっくりと文机の引き出しから小箱を取り出す。柔らかなびろうどの布の中から現れたのは、銀製の小刀だった。魔道を行う触媒として用いるもので、彼女の長年の愛用の品である。これもダルシオンから貰ったものだが、その時には、これをこんな風に使う日が来るとは、夢にも思わなかった。
シルヴィアは、自分の無実を伝える文章を書いた紙を部屋の中央の床に置き、その傍に件の魔道書を、今から行う魔道の頁を広げて添えた。
(アトラ……さようなら)
最後の力を振り絞るように、シルヴィアは呪を唱え始める。淡い光が彼女の痩せた身体を包んでゆく。呪を唱え終わった彼女は、右手に持った小刀をひといきに自分の胸に突き立てた。
「ああ……ううっ……」
力が弱い為、小刀は最初の一刺しでは心の臓を僅かに傷つけたのみだった。この呪には、術者の大量の心臓の血が不可欠なのに……ひといきに死にきれぬ苦悶に身をよじりながらも耐え抜き、シルヴィアは更に渾身の力を込めて小刀を更に深く突き入れてゆく。ようやく銀の切っ先が彼女の心臓を切り裂いた。大量の血液が飛び散り、置いた紙片に降りかかった。と、なんでもない白い紙が、まばゆいばかりの黄金色の光を放ちだす。
「……」
もう殆ど意識のない筈の彼女の唇に、微かな笑みが浮かんだ、ようであった。
紙片の傍に伏してこときれた彼女の貌は、最愛の息子の明るい未来を確信した満足感に包まれていた。