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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第二部・陰謀篇
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幼年篇・11・母子の別れ

 その時、幼い笑い声が聞こえ、ユーリンダとファルシス、アトラウスが楽しそうに駆け込んできた。

「お母さま?!」

 シルヴィアが泣いているのは心配だが、しかし母に会えたのは嬉しい、そんな面持ちでアトラウスは駆け寄った。

「ああ、アトラ……」

 シルヴィアは、我が子をしっかりと抱きしめた。

「そんなに楽しかったのね、お外は。今まで出してあげられなくてごめんなさい」

「! ううん、いいんだよ、そんなの! お母さまに会えたのが、今日の一番のいい事だよ!」

「いいえ……いいえ、おまえはもっと、外に出なければいけないわ。伯父さまについていきなさい。お泊まりしてらっしゃい」

「お泊まり?」

 アトラウスは首を傾げた。

「だってもう、そろそろお部屋に帰らなくちゃ……」

 不安げに、頬を腫らして不機嫌そうな父を見やる。今日は初めての楽しい事があって、おまけに母に会う事もできた。こんなにいい事があったのだから、その代償に、またあの部屋で父にぶたれるだろう。父は、『罪の子』である自分が楽しそうにしていると怒り、罰を与えなければいけない、と言う。だが、それも仕方のない事だ、とアトラウスは思っている。

「もう、あのお部屋には帰らなくていいの。あなたはしばらく、伯父さまのお館で暮らすのよ」

「えっ……でも、お母さまは?」

 驚く我が子を、シルヴィアはきつくきつく抱き締めた。

「い……痛いよ、お母さま」

 まさかまた首を絞められるのだろうか? こんな、皆が見ているところでそんな事をしたら、母はどうされてしまうだろう? 自分の身より、アトラウスにはその方が心配だった。

「ごめんなさい、アトラ」

 勿論、今のシルヴィアはしっかりと己を保っている。最愛の我が子との別れについ力が入りすぎただけだ。ゆっくりと腕をゆるめ、両手でアトラウスの頬を優しく撫でた。

「これからは、ルーン家の公子として、誇りを持って生きるのよ。あなたはひとりじゃない。素晴らしい伯父さまや伯母さまもいらっしゃるし、素敵ないとこたちもいる。ファルシスと一緒に色んなことを学ばせて頂くのよ」

「でも、お母さまは? ぼく、お母さまと一緒がいいよ!」

「……大丈夫よ、お母さまも後から行くわ。そして、ずっとずっと、おまえのことを見守っていますからね」

「本当、お母さま!」

 アトラウスは歓喜の声をあげた。こんな嬉しそうな顔は初めて見る……だが、溢れ出る涙でその顔がぼやけてゆく。もっとしっかりと息子の顔を目に焼き付けておこうと、シルヴィアは涙を拭った。


「シルヴィア! 黙って聞いてりゃ、随分いい加減な約束をしやがるじゃないか。誰がそんな事を許すと言った?」

「お願いです、カルシスさま。どうか、どうかわたくしのお願いをお聞き下さいませ。今夜一夜でも構いませんから、アトラウスをアルフォンスさまのもとへ行かせて下さい。明日の朝が明けて……それでもまだ、わたくしの言葉が信じられなかったら、後はどのようになさってもいいですわ。わたくしもアトラウスも逃げも隠れもしません」

「おまえはここに残るんだな」

「ええ、あなた」

 カルシスは疑わしげに妻の顔を見ていたが、結局は吐き捨てるように、まあいいだろう、と言った。

「兄さん、あんたの館の奴らには、こいつの名は言うな。それが条件だ」

「……まあ、今日のところはそれでもいいだろう。しかしシルヴィア、貴女は本当に今日ここに残るのか。いったい何を考えている?」

 不安そうにアルフォンスはシルヴィアを見る。この優しく従順なひとが、これ程勧めても一緒に来る事に首を縦に振らないのは、どういう理由なのか? まさか、本当に過ちによる子で、自らの命でその罪を償うつもりででもいるのでは……?

「まさか、おかしな事を考えてはいないだろうね? わたしは、何がどうあろうと、あなたを擁護する。それが、元婚約者に対するルーン公爵の当然の責任だ。こんな目に遭わされた貴女には、今後は何も心配せずに、息子と暮らす権利がある。カルシスと離縁するなら、親子で暮らせる住みよい館を手配しよう。そしてアトラウスには、ファルシスと同等の教育を受けさせよう。わたしは、ルーン公の名にかけて、貴女たちの平穏な暮らしを護ると誓う」

 この申し出に、ほんの少し、シルヴィアの心は動かされたようだった。仄かに頬に赤みがさし……だが、結局、彼女は再び蒼ざめて首を横に振った。

「本当にご親切なお心遣いに感謝致します。でも……それはできません。離縁するつもりもございません。わたくしはカルシスさまの妻で、アトラウスはれっきとしたカルシス・ルーンの子。世間にそれを認めさせなくては、表に出ても、あの子は一生後ろ指をさされるでしょう。だからまず、カルシスさまに、それを認めて頂くつもりです」

「だが、五年かけて話しても聞き入れなかったものを、どうやって認めさせる?」

「大丈夫です、アルフォンスさま、ご心配なさらないで」

 シルヴィアは弱々しいながらも微笑さえ浮かべ、かつて恋していたひとの顔を見上げた。もしこのひとと結婚していたら……という悔やみは、もうない。自分の生の意味は、アトラウスを、カルシスの子を産む事だったのだ、と確信できたからだ。


 本人が行かないと言い張るのだから、まさか人の妻を無理矢理連れ去る訳にもいかない。アルフォンスは、絶対に暴力を振るわぬよう、きつく弟に言い渡し、不安を残しながらも子供たちと馬車に向かった。初めてのことに、子供たちはすっかり舞い上がり、嬉しそうに声高に何か喋ったり歌ったりしている。

「……アトラ!」

 馬車の上り口に足をかけた息子の名を、絞り出すようにシルヴィアは呼んだ。アトラウスはにこにこして振り向いた。

「お母さまも早く来てね! ね、明日、きっと来てね!」

「……きっと、きっとね、アトラ」

 泣くまい、とシルヴィアは唇を噛んだ。そして、心の中でずっと、約束を守れないお母さまを許して……と呟き続けていた。

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