幼年篇・9・シルヴィアの出産
心配してこちらから使いを出しても、使いの者はカルシスに会う事すら出来なかった。アルフォンスはすぐにカルシスの館へ向かった。出産は吉凶隣り合わせ……シルヴィアの身に何か起きたに違いない。
「どなた様も通すなとご主人様に命を受けております」
門番は鬱蒼な顔つきで言った。
「わたしはルーン公、この館の主人の兄なのだぞ」
勿論門番とて弁えている筈だが、急ぐ気持ちを抑えられないアルフォンスは常になく苛立ちを隠さない。ルーン公の怒気に、門番は一層陰りを帯びた表情になる。
「はあ、それでも……誰か中に入れたりしたら殺すと言われておりますんで……わたくしめもまだ死にとうございませんので……どうかお引き取り願えませんでしょうか?」
「……」
初老の門番の哀願に、アルフォンスは馬上でぎゅっと眉根を寄せた。
「中はどうなっているのだ? 伯爵妃はどうした? なぜ誰も入れないのか、そなた訳を知っていよう?」
「いいえ……いいえ……わたくしめはなにも存じません」
門番は怯えた貌で首を振るばかり。アルフォンスは嘆息して門越しに館の方を見やった。明るく晴れた日であるのに、なぜかそこには暗雲が立ち込めているように感じられた。
がさり、と音がして少し離れた茂みが揺れた。庭園の垣根を割って出てきたのはカルシスだった。
「カルシス!」
驚きながらアルフォンスは馬から下りる。弟の両手は掻き傷だらけで血が滲んでいた。
「どうした、その手は?」
「……」
どす黒い顔色で俯きがちにカルシスは立っていた。その息は昼前であるのに酒臭い。黄金色の目は、ただ絶望と恨みと拒絶を浮かべていた。彼はシルヴィアが丹精込めて育てた薔薇を怒りにまかせて素手で薙ぎ払っていたところだったのだ。
「シルヴィアはどうした? 子供は……だめだったのか? 教えてくれ、カルシス!」
「あんたに関係ない。帰ってくれ」
呟くようにカルシスは言葉を吐き出した。
「関係なくはない、わたしにとって義妹だ。弟のおまえと同じように彼女の身を案じている」
ハッ、とカルシスは顔を歪めて笑い、唾を吐き捨てた。
「偽善者ぶりもそこまで来るとお笑いだぜ。おれの事など、邪魔者としか思ってない癖に」
「そんな事はない、特に最近のおまえは……」
「ああもうどうでもいいから帰ってくれ。昔の女がそんなに気になるのかよ?」
「だからそういう気持ちではなく……カレリンダも大層案じている。シルヴィアの具合はそんなに悪いのか? まさか……」
彼女はもう、いないのでは……母子共々、助からなかった、それくらいしか、弟の荒れようの理由を思いつかない。
「奴は死んではいない」
面倒くさそうにカルシスは答えた。うるさい兄を追い払う口実を考える為、酒に酔った頭を振った。
「死んではいないが、具合は悪いね。難産で出血がひどかったのさ。当分、床から離れられないし、誰にも会えない」
「そうなのか、可哀想に……それで、子供も……だめだったのか?」
「ああ、だめさ。生きて生まれはしたが、あれはだめだ。まともに育つ筈がない。見るにたえない姿だ」
「……!」
アルフォンスは弟の言葉に顔を歪めて門の鉄柱を握りしめた。あまりの悲劇……カルシスはあんなに我が子の誕生を待ち望んでいたのに、ルルアはなんと無慈悲な……。
妻を愛おしんでいたカルシスの言葉を疑う事はなかった。待ち望んだ愛妻の出産の結末がそんな風であれば、誰にも会いたくない気持ちは解る。だが、妻の具合が悪いのに、朝から酒に酔っているのは如何なものか。
「シルヴィアに付いてあげていなくていいのか」
「……おれに出来ることは何もない。奴は泣いて部屋に籠もっている。とにかく、もう構わないでくれ。ちゃんと医師もつけているから、これ以上悪い事はないから忘れてくれ」
早く兄を追い払いたくて、カルシスは早口に言った。
「何かわたしに出来ることがあれば、何なりと言ってくれ。国一番の医師を探して呼んでもいい」
「いらん、いらん! 奴もそんな事は望まない。ちゃんとした医師をつけてあるし、繊細な問題だから、他の人間を関わらせたくないんだ。わかるだろ?」
「そうか……だが、何か必要があれば、何でも言ってくれ。とにかく、シルヴィアをよく労って……回復すれば、また次に健やかな子を授かるだろうから、彼女さえ無事なら、そう気を落とすな」
「は、もうそれは望めないね」
「何? 医師がそう言ったのか?」
「ああ、いや……それは俺の考えだ。そうだな、そういう事もあるかも知れん。医師はそんな事は言ってないし、それから、大神官にも相談してみようと思う。だから心配しないでくれ。シルヴィアは死にはしない」
「……そうか、わかった」
遂にアルフォンスは弟に言いくるめられてしまった。この時は、この後五年もシルヴィアに会えないとは思いもしなかったのだ。夫婦仲は良いのだし、どうやら重い疾患を持って生まれたらしい子供は可哀想だが、夫妻はまだ若いのだから、また次には健康な嗣子が授かるだろうと思った。
……そうして、しばしば弟の館を訪ねては同じようなやりとりを繰り返し、気づけば五年が経っていたのだった。いま、五年ぶりに、アルフォンスとシルヴィアは相対していた。