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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第一部・揺籃篇
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1-3・姫君と侍女

 その翌日の昼下がり。

 ユーリンダ公女の私室からは、初冬の訪れに相応しからぬ、華やかな娘たちの笑い声が、幾度となくこぼれていた。

 腰まで届く豊かな黄金の髪を緩やかに絹のリボンで束ね、華美ではないが惜しみなくレースを使ったゆったりとした薄桃色のドレスを纏った17歳の姫の、その煌く黄金の瞳には、人生のうちで最も輝かしい季節を迎えた乙女だけに許される、無邪気で傲慢な歓びが満たされていた。

「ねえリディア、このブローチはどうかしらね?あの青いサテンのドレスに合うと思う?」

「そうですねえ……あれもよくお似合いではありますけど、やっぱり青より、あの、先週ステイラから届いた白はいかがでしょう?」

「うーん、でも、なんだかあれは少し太って見えないかしら? 腰のあのリボンがちょっと太すぎる気がするし……」

 女主人のその返答に、侍女は声をたてて笑った。

「まあ、姫さま! 姫さまが太ってるですって?! そんな事をいったい誰が思うでしょう? まともに目が見えていれば誰だって、姫さまみたいな華奢なかたが他にいる訳ないとしか思いませんよ」

「そうかしら……でも、アトラは痩せた女性が好きだって、前にファルが言ってたもの……。少しでも、細く見えるほうが……」

「姫さまがこれ以上細くなったら、女性というより白樺の樹みたいに見えてしまいますよ。そんな事で最近、あまり召しあがらないんですか? いくらお輿入れ前とはいえ、お父様に知れたらこってり叱られますよ」

 つけつけと侍女は言った。ユーリンダは小さく肩をおとして溜息をついた。

「そうね、リディア……その通りかもしれないわね……」

 その細い指の間に、銀の台座に美しいサファイアの埋め込まれた大きなブローチを無造作に弄びながら、ユーリンダはやや落ちつかなげにリディアの視線を避けて、ソファの上に広げられた数着のドレスに目をおとした。


 今、二人は、翌々週にユーリンダが、領内の都市ラーランドに住まう母方の一族、ヴィーン家の長老を訪問する為の衣装を選んでいるところだった。

 この訪問は、いよいよ4ヶ月後の吉日に、正式に彼女の婚礼が定まった事を報告、招待する為のものであり、新郎となるアトラウスも同行する予定になっていた。勿論二人きりで行く訳ではないのだが、両親や兄と離れて遠出をするのは彼女にとって殆ど初めてである事、そして、愛するひとと二人で何かをする初めての機会である事が、彼女の心をひどく浮き立たせていた。

 リディアにしてみれば、幼い頃から知り尽くした従兄妹同士の婚姻であるのだし、今更着飾ったところで大した違いはないのではないかという気もするのだが、恋に溺れている幸せな乙女にそんな思いが通じる訳もない。午前中からずっと、真剣な目つきであれやこれやと気に入りのドレスやアクセサリーを次々と引っ張り出してくるユーリンダにひそかに微苦笑しつつも、リディア自身も、次第に我がことのように昂揚した気分になってくるから不思議なものである。


 しかし、ふと気づくと、ユーリンダは少し意気消沈した様子を見せ、黙りこんでしまっている。痩せ過ぎだと言わんばかりの自分の言葉が彼女を傷つけてしまったのかと、リディアはいささか慌てた。

「姫さま? どうなさいました?」

「リディア……あのね……」

 ユーリンダは視線をおとしたまま、やっと聞こえるくらいの小さな声を出す。

「あの……こんなこと言っていいのかしら? あの……ね……」

「なんでしょう?」

 ユーリンダの滑らかな頬が、微かに赤く、震えている。あまり見たことのない彼女の様子に、リディアも戸惑いながらそっと側に寄った。

「どうなさったんですか、ユーリンダさま?」

「あのね……ああ、こんなはしたないことを言って、呆れないで頂戴ね。こんなこと聞けるのはあなただけなんだから。ね、いつもこんなこと考えてる訳じゃないのよ?」

「?」

「リディア、あなた、その、くちづけって、したことある?」

「……は?」

 暫しのいたたまれない沈黙が訪れた。

「いや! もう、リディアのばか!」

 呆れたように見返したリディアの視線に耐えきれず、自分から言い出しておきながら、ユーリンダは真っ赤になって侍女の肩を何度も叩く。興奮のために、その黄金の瞳からは涙までつたっている。その様子を見て初めてリディアは我に返り、我慢できなくなって弾けたように笑い出した。

「姫さまったら! 何を言い出されるかと思ったら……」

「いや! いや! もう、今のはなしよ! 忘れて頂戴!」

「姫さまも、そんなこと考えるんですねえ……」

「いやーっ!!」

「いったいどうしてまた急にそんなことを?」

「だって……この間あなた達の休憩室の前を通ったら、リリーが大きな声で話してたわ。そのう、今時、愛し合うふたりは手を握ったり、だ……抱きしめたり、そういう……ふうにするのが当たり前なんですって? 私は、そういうことはみんな、結婚してからなのだと思っていたんだけど……アトラが、二人で庭園を歩いていてもそんな風にしないのは、もしかして、私に女性としての魅力が足りないからじゃないかと……なんだか心配になって……」

 観念したように、ユーリンダは俯いたままで声を押し出すように言った。

 今時も何もないんじゃないかと、リディアはまた吹き出しそうになったが、至極真剣な姫君の様子に、なんとか笑いを収め、どう答えたものか思案を巡らせた。

「まあ、姫さま、それは、高貴な方々は、私どもと同じような訳にはいかないでしょう」

「そうなの?」

「そうですよ。アトラウスさまはきっと、姫さまがあまりに純粋でいらっしゃるから、遠慮なさっているんでしょう。立派な貴公子はそんな軽々しいことはなさらないんですよ、きっと。……まあ、例外なかたもおられるようですけど」

 例外、とは誰のことを指すのか、二人にとっては言わずもがななのである。

 ユーリンダの兄ファルシスは、数多の年頃の良家の子女にもてはやされる身、そして、女性からその気を匂わせれば、必ずしも紳士として終始振る舞う訳ではない、というのが、彼に対していつも囁かれる評判である。

 但し、相手は、遊び慣れ、洗練された女性ばかりで、未だ真剣な交際というものはないようで、彼に傷つけられたり恨んだりしている女性の話は、聞かれない。

「そうかしら?」

 少しほっとしたようにユーリンダは顔を上げた。

「そうですよ。姫さまみたいな美しいかたが魅力がないなんて、そんなばかなことでお悩みになるなんて、誰も思いつきませんよ。ああ、私が痩せすぎの話をしたからですよね。今よりもっとお痩せになったら、の話です。もう少し何でも召し上がらないと、お身体を壊してしまうのでは、と心配していたものだから、余計なことを申し上げてしまいました。申し訳ありません」

「そんな、そんなことはいいのよ。ただ、リディアに聞けば、何が普通なのか判るかと思って……」

「でも、私もそんな経験はないですよ、残念ながら」

「……ほんと?」

 ユーリンダはおずおずとリディアの顔を覗き込む。リディアは苦笑しながら言う。

「年中姫さまのお側にいるのに、僅かな間にそんなことができるほど私は器用じゃないんです。それに、今では許婚もいる身ですし」

「あら、だって彼とは……?」

 尋ねかけて、ユーリンダはこれ以上突っ込んで聞くのははしたないかと思い、口をつぐんだ。

リディアは、何も言えなかった。

 婚約者とは、親に一度引き合わされたのみ、の間柄である。年齢もかけ離れたこの婚約に、ユーリンダの思うような甘い雰囲気が存在する筈もなかった。

 だが、それを言えば、彼女の夢を壊す事になってしまう。

 この姫君の純粋さを、ひたすら愛しているリディアである。それを少しでも傷つけるような事は、絶対出来なかった。

「まあ姫さま、私どもにはこれからいくらも時間がありますし、姫さまとアトラウス様だってそうじゃないですか。これから、結婚されて、甘い新婚の時期を過ごされるんですよ。そして、可愛いお子様がたくさん、お生まれになる事でしょう。その時が楽しみです」

 そんな風にリディアは言った。

 そうね、と公女は答え、侍女の言う未来に想像を巡らし、心を浮き立たせた。自然に笑みがこぼれてくる。

 そしてまた、二人の会話は、ドレス選びへと戻っていった。


 翌日の朝、実家から手紙が届き、リディアは、ユーリンダ公女に10日間の休暇を願い出た。

 再来月に控えたささやかな挙式の前に、この地方の風習として、婚約した二人が、生まれた街の地方の神殿に詣でる必要がある。これは、婚儀と同等の意味を持つ。その為の帰省が必要だったのだ。


 暖かい昼の日差しに包まれた白亜のテラスで、公女は僅かに瞳を翳らせた。

「まあリディア、10日もいないなんて寂しいわ」

「申し訳ありません、姫さま」

「ううん、いいんだけど……。お嫁入りの後は、今までみたいに一緒にいられないのだから、慣れないといけないわね。でも、ラーランドへ発つ前には、戻ってきて頂戴ね」

 ユーリンダはやや曇った笑顔を侍女に向けた。

 リディアは、結婚後も、月に数日、色々な手伝いの為という事で傍仕えを続ける事にはなっていたが、田舎の金貸しの後妻となる彼女にとっては必要な事ではなく、ユーリンダの柔らかな懇願によるものだった。

 幼い頃から常に共にあったリディアは、今後も当然変わらず傍にいるものと思っていたユーリンダは、この結婚話に、一抹の寂しさを覚えない訳ではなかった。

 しかし、芯から善良で夢見がちな性質を持つ公女は、だからといって全く悪くとらえる事はなく、心から侍女の縁談を祝福し、その幸せを願ってもいた。


「そうだわ、リディア。ソルト殿に会うなら、私のあの銀水晶のネックレスをつけていったらどうかしら。とても似合うと思うもの。ソルト殿もきっと喜ぶわ」

 ソルトとは、リディアの許嫁である。

「え……あの、姫様の16のお誕生日にご両親から贈られたネックレスですか? そんな、とてもお借りできません!」

 リディアは仰天して断った。

 この地方では、女性の16の誕生日は、婚姻可能な大人として認められる、特別な祝いがあり、銀水晶の装飾品は、娘の末永い幸福を願って両親から贈られる、意味の深いものなのである。

「いいのよ。あの銀水晶は、私の髪より、あなたの黒髪に映えるんだし。あなたは、私の姉妹同然ですもの。お父様やお母様も、別にお怒りにならないと思うわ」

「そんな……」

 リディアは躊躇した。

 公女のこうした性格は熟知していた筈だが、もともと、婚約者に会うのに飾り立てて行きたい気持ちなど欠片もない彼女にとっては、ただ困惑するばかりの申し出だった。

 しかし、ユーリンダは、リディアの婚約者に対する気持ちは、自分が自分の婚約者に抱く気持ちと等価であると信じてやまない。

 寝所に入っていくと、自ら宝石箱の中から、大切なネックレスを取りだし、侍女の手に握らせた。

「挙式の時も身につけてほしいけど、ずっと持っているのも気になるのだったら、一旦返してくれてもいいから、とにかくつけてちょうだいね」

 そこまで言われると断りきれず、困惑しつつもリディアは、公女の気持ちをありがたく頂く事にした。他所の公爵家の姫君方には、考えられない事だろう、と心中思いながら。

 この公女の、あどけなさ、真白さを、リディアは愛していた。

 公女の気持ちを傷つける事など、彼女には、考えられなかったのだ。

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