幼年篇・6・外へ
もしもルーン公の力でここから出られれば、母はもうあんなに苦しまないかも知れない。その考えは、幼くして既に、自分の為の何かを期待することを諦めていたアトラウスに、僅かな光明をもたらした。2歳までは、館の一室で母と暮らしていた。その頃の記憶は既におぼろになっていたけれど、ただ幸福に満ちた日々だったという印象だけが残っていた。室から出る事も叶わず、世間一般の幼児とはかけ離れた暮らしであったが、後から思えば、ただただ母が傍にいて世話をしてくれるだけで嬉しく、引き離されてからは暫く、起きている間中泣いていたものだ。
父は、自分を罪の子だと言った。母は、決して罪の子ではなく、この子は確かにカルシスさまの子なのだと言った。『罪の子』という言葉の真の意味を、無論幼いアトラウスには理解できる筈もなかったが、色々な言葉をつなげ合せて、母が何か間違った事をしたせいで、父の血をひいていない黒髪の子供が生まれてしまった、と父が思い込んでいる事は感じていた。でも、母があんなに、アトラウスは自分とカルシスさまの子供なのだ、と言うからには、母が正しくて父が勘違いしているのに決まっている。もしも……もしも、このいとこたちが言うように、アルフォンスさまが父の誤解を解いてくれるなら、父と母は仲直りをして、みんなで一緒に暮らせるかも知れない。そうしたら、何より母は喜ぶだろう。
「お父様さえ解って下されば、いつも一緒にいられるのに……こんな暮らしでなく、自由に何でもできるのに」
何度も何度もお母さまはそう言っていた。
もし、この企てが失敗したとしても、また鞭で打たれて連れ戻されるだけだ。それなら、今と同じことだ。でも、もしもうまくいけば、何もかもがよくなるかも知れない。
「ねえ、勇気を出して、アトラウス?」
可愛らしい従妹は真摯なひとみでかれを見つめた。それから、急に思いついて、自分の首からペンダントを外してアトラウスの首にかけた。それは細い黄金の鎖、そして黄金の薄板に刻まれた、ルーン家の紋章。アトラウスは指でつまんで、まるで初めて見るもののように不思議そうにそれを眺めた。
「あなたはまちがいなく、私たちのいとこだわ。ルーン家のアトラウス」
幼子の高い声が、アトラウスには神聖な声に思えた。ルーン家のアトラウス。そんな風に呼ばれたのは初めてだった。
「きみは……」
アトラウスは、微笑んでいるユーリンダの手をとった。
「本で見た、ルルアの御使いみたいだ。紺色のドレスを着て、黄金色の、光の輪に包まれている」
「御使いルリーシアね。ルルアの五人目の娘だわ。ヴィーンの始祖エルマの本当の姿だと言われてる」
家庭教師から習った言葉をそのまま口にしたユーリンダに、アトラウスは真面目に頷いた。
「ぼくを助けてくれるんだね」
「そうよ。お父さまが助けてくれるわ」
「ううん、きみがここにきてくれたから……」
「おい、ぼくもいるんだぞ」
横からファルシスが口を挟んだ。
「そうだね。きみは、御使いフリーシアみたいだ」
「フリーシアは女だろ!」
むくれたファルシスに、アトラウスとユーリンダは顔を見合わせて笑った。ユーリンダは声を立てて、アトラウスは静かに微笑んで。
「行こう、お父さまたちのところへ」
「うん」
アトラウスは、差し出されたファルシスの手をとった。
必ずしもうまくいくとは思えなかったが、初めて会ったいとこたちの好意がただただ嬉しく、もしまたここに連れ戻されて同じ日々を送るようになるとしても、ふたりとの出会いは大事な大事な宝物になるだろう、と思った。
アトラウスが両側からいとこに手を引かれて階段をあがってくるのに、本館から用を済ませて戻ってきた世話係のオルガは出くわした。オルガは、ひっと声をあげた。
二十三歳のオルガは、アトラウスの境遇に深く同情していたし、いくら罪の子でも本人には何の咎もないのだから、こんな仕打ちをせずに、どこかに養子にでも出してしまえばいいのに、とばかり思っていた。奥方の常軌を逸した接し方にも気づいており、何とかならないものかと案じてもいた。
しかし、結局は自分の身が一番大事だった。地下の部屋からアトラウスが、よりによってルーン公の幼い子息たちに連れ出されてきたのを見て、彼女は、怒りっぽいカルシスにどんな叱責を受けるか、ただ恐怖を感じた。
「な、なりませんよ、アトラウスさま! お外に出てはいけません! お父さまがお怒りになりますよ!」
甲高い叫びにアトラウスは一瞬怯んだが、両側からぎゅっと手を握られて勇気を取り戻した。
「大丈夫だよ、オルガ。心配してくれてありがとう。ユーリンダとファルシスがついていてくれるから、きっとお父さまもわかって下さる」
「そんな……そんなことは。ああ、アトラウスさま、お待ち下さい!」
オルガは泣きながら追いすがったが、流石に主君の子を力ずくで止める事は出来なかった。
陽光の中へ、アトラウスは踏み出した。直に日の光を浴びるのは何年ぶりのことであるか。自身にもわからなかった。
新しい生活への、祝福の光。そのようにアトラウスは感じた。ルルアの御使いが、傍にいるのだから。