幼年篇・1・訪問
母親との口論の後、自室へ駆け戻ったユーリンダは寝台に伏して泣き、まだ夕方だというのに、寝不足も手伝っていつしか眠り込んでいた。
いま彼女に訪れているのは、幸福な夢だった。なんの翳りもない。黄金の陽の光を一身に受け、ただ周囲の愛情だけを感じながら過ごしていた日々。それも特に際立って無邪気で明るかった、幼い日々。
彼女は、父と兄とともに、叔父の館を訪ねていた。そう、まだ兄も彼女も四歳だった。お揃いの白いレースのついた上品な絹のブラウスを着せられたふたりは、紺のびろうどのスカートとズボンの違いがなければ他人には区別がつかないくらい似ていた。会ったことのないいとこと遊べるかも知れないと言われ、うきうきしていた。うっすらと白い雲の浮かぶ青空を眺め、兄とふざけ合いながら、馬車に揺られて着いた。
「それでは、やはり彼女には会えないのかね。それから、アトラウスにも」
今よりずっと若い父の声。
「会わせられないと言っただろう。誰にも会わせてはいかんと医師から言われているんだ。何回来ても無駄だ」
苛立ったような叔父の声。幼いユーリンダは、叔父がなぜ機嫌が悪いのかわからなくて、不思議そうに叔父の顔を見上げた。
叔父のカルシス。ルーン一族のしるし、黄金の髪と瞳を持った、父アルフォンスとよく似た人物。父よりやや背が低く、目は父と違い一重で、唇はやや厚ぼったく、頬は父よりも丸みを帯びていたが、全体として、一目で兄弟と判るくらい、二人の容姿は似ている。顔の造作だけをとれば、アルフォンスが美男子といわれるなら、弟にもその権利があってよいようだった。だが、カルシスには、何かが欠けていた。アルフォンスに出会った人が皆まず一番に感じる、気品と知性。神は不公平にも、兄のほうにしかそれを与えなかったのだ。或いは、それは後天的な努力によって得ることも出来たのかも知れなかったが、それを得ようとする意志も、カルシスは持たなかった。ただただ、なぜいつも兄の方にばかり人が集まり、賞賛するのか、妬み嫉みに満ちた目でじっとりと見つめ、兄が嫡子であり自分が次男に生まれたせいとだけ思いつめ、自らの普段の振る舞いを顧みたり反省したりする事は一切せずに、兄を羨み憎みながら生きてきた。
アルフォンスの方は、この出来の悪い弟を、それでも兄として愛情を持って接し、何か持っている筈であるよい性質を引き出してやろうと常に気にかけていた。カレリンダとの恋愛により、心苦しく思いながら一族の決めた婚約者と別れた後、彼女を弟に託したのも、彼女と弟、ともに彼にとって大切な存在であったからだ。彼女、ルーン一族の娘、おとなしく善良なシルヴィアも、もとはアルフォンスに恋していた乙女であるが、その恋が破れたあと、よく似た弟に嫁ぐ事に頬を染めて了承した。世間知らずの少女は、うわべだけよく似た笑顔が中身も伴うものと思い込んでしまったのだ。
結婚生活は、暫くは順調だった。狭量なカルシスが、何を言っても従順で優しい妻に対して徐々に心を開いていった。それとともに心栄えもよくなり、これならば色々と弟に任せても大丈夫だし、彼女も幸福になって良かったと、アルフォンスは随分喜んだものだった。
だが、彼女の出産を機に、すべてが変わってしまった。カルシスは以前よりずっと怒りっぽく陰鬱な性格になった。ひどく虚弱で知能も低い子供が生まれ、シルヴィアも大量の出血をして起き上がれない身体になってしまったという事だった。アルフォンス夫妻は心配でいてもたってもいられず、あちこちから名医を呼び寄せたり、ひとめ母子に会わせて欲しいと願ったりしたが、カルシスは一切受け入れようとはしなかった。愛妻の身体を心配する様子もなく、深酒をし、町で乱闘騒ぎを起こす事もしばしばだった。
こうして何もできないまま五年が過ぎたある日、アルフォンス夫妻はふと、四つの可愛いさかりの我が子たちは、五つになっている筈の甥の遊び相手になれるのではないかと考え、カルシスの館に連れて行った、という訳である。
「いくら身体が弱いとは言っても、部屋に閉じこもったままではよくないだろう。アトラウスを子供たちと仲良くさせてやってはどうかね。言葉が喋れなくても、楽しいと感じる事はできるだろう?」
「お節介はやめてくれ。シルヴィアもアトラウスも、どうにもならん。静かに部屋にいるのが一番いいんだ。あんたの子供たちが、あんたに似て素晴らしい出来栄えなのはわかってるよ、兄さん。俺のがきはどうにもならないんだ。どうかこれ以上、俺を惨めな気分にさせるのはやめてくれ」
「しかし、少なくともシルヴィアはまだ若いのだし、もう少し回復する手だてがあるのではないかね。色んな医師の意見を聞いた方がいい。アトラウスも、色々刺激を与えた方が……」
「玩具はたくさん与えているし、不自由はさせていない。あんな惨めながきを人前に出せと、どうしてそんな非情なことが言えるのか? さすが徳の高い公爵さまの仰る事は違うね」
「そういうつもりでは……」
父と叔父の口論は、今までにも見聞きした事はあったが、幼い子どもにはただいたたまれないだけだった。ユーリンダは泣きべそをかきながら兄の袖を引いた。ファルシスは妹の頭を撫でながら言った。
「父さま、ぼくたち、あそこのお庭で遊んできてもいいですか?」
庭園を指差して言うと、アルフォンスは頷き、カルシスは不機嫌そうに、花を傷つけるな、と言った。ファルシスは、勿論気をつけます、と答えて、妹の手を引いて大人たちから離れた。