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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第二部・陰謀篇
53/129

2-27・翻弄

「アトラウスさま、これをご覧になって」

 ローゼッタの黒い瞳は一仕事をやり遂げた誇らしさに輝いており、薔薇色の頬と唇がその光を際だたせ、なかなかに美しかった。懐から取り出したのは、無論ザハドの部屋からとってきた書状である。書状を出そうと自らの白い手を差し入れたローゼッタの豊かな胸元を、興味のなさそうな目でちらりと見てから、アトラウスは書状を受け取った。

「悪い知らせですわ。でも、あちらの考えが判った事は……」

「ローゼッタ嬢。この書状をどうやって手に入れたのですか?」

 ローゼッタは、ティラールの館でやってのけた冒険と、耳にした会話、ティラールとのやりとりも、包み隠さず話した。勿論、この奥まった部屋から人は遠ざけてある。前の一件により、金獅子も二人に近づく事は遠慮している様子である。

 ふう、とアトラウスは溜息をついた。

「困った方だ……そんな危ない事を。あの従者に見つかっていたら、どうなったと思うのです? あれは、危険な男ですよ」

「見つからなかったんだから、それで良いじゃないですの」

「良くなどありません。それに、そんな事をしてまで折角手に入れて下さったのですが……」

 アトラウスは申し訳なさげに目を伏せた。

「この書状は偽物です」

「えっ?」

「このバロック公の刻印は、本物と違う。ぼくは父の書斎で何度も見た事があるから判る」

「そ、そんな……」

 ローゼッタは戸惑う。

「だいたい、こんな大事な書状を、鍵のかからない引き出しにしまう程、あの男は迂闊ではない。これは恐らく、貴女に対する罠でしょう」

「罠、ですって」

「ええ、貴女に、そしてぼくに対する」

「でも、どうして? 何の為に?」

「それははっきりとは判らないが、ぼくらが慌てて二人を逃がす方策を立てるのを待っているのかも知れない。ティラールの作戦も勿論罠。ファルとユーリィに助力しようとする者をまとめて葬る算段かも知れません」

「そんな事が……」

「王命に背いてユーリンダの身柄をどこかへ移そうとしたとなれば、ぼくを廃嫡する充分な理由になる。そういう狙いかも知れない」

「……」

「勿論、たとえ廃嫡されようとも、彼女の身を守る誓いに変わりはないが、奴らの思惑通りにはなりたくない。事は慎重に運ばないといけませんよ」

 ローゼッタは泣きたくなった。あんなに頑張ったのに、ただバロック側の掌の上で踊っていただけなんて。彼女の表情が暗くなったのに気づいたアトラウスは、声を和らげた。

「でも、本当に貴女の勇気と真心には感謝します。ユーリンダの侍女の件は、まったく予想していなかった事だし、これも何かの罠だとしても、彼らが関わっている事を知れたのは立派な成果ですよ」

「そうでしょうか……」

 項垂れているローゼッタに、アトラウスは静かに近づいた。

「貴女には、何か御礼をしなければいけない」

 ローゼッタは驚いて顔をあげた。

「とんでもありませんわ。わたくしがやりたくてやった事。心から、ルーン家の皆様のお力になりたくてしたのです。御礼なんていりません」

「いや、もしも伯父が無事に帰ったら、ドース家の忠心はぼくからきっと強くお伝えしましょう」

「……え、ええ」

 ローゼッタはただそうとしか答えられなかった。

(わたくしはいま、何を期待していたのだろう……)

 アトラウスの言葉は、ごく当たり前の事だ。

「それとも」

 アトラウスは何でもないような調子で言葉を継いだ。

「何か他の御礼の方がいいでしょうか?」

「他の御礼?」

 おうむ返しにローゼッタは問い返す。

「そうですね……たとえば、こんなことだ。貴女の唇はもう味わったし、とても美味だった。今度は、貴女の他のところを味わいたい……という言葉は?」

 ローゼッタはかっと赤くなり、そして唇をかんでアトラウスを見上げた。座っている彼女の上に身をかがめて、ゆっくりとアトラウスは近づいてくる。

「あれは、芝居だった筈ですわ」

「では、どうしてそんなに息を荒くしているんですか?」

 そう言って、アトラウスはかみしめたローゼッタの歯を舌で押し開き、柔らかな舌を軽く吸った。

「ああ、やめて、やめて下さい」

 ローゼッタは真っ赤になってアトラウスの手を振りほどいた。

「今度は金獅子はいませんわ。何の為にこんなことをなさるの。あなたがそんな不実な方とは思いもしませんでした」

「貴女を愛してしまったから……」

「……!」

 その台詞に、ローゼッタは喜びと失望を同時に覚えた。彼女が惹かれかけていたのは、許嫁をひたむきに愛する一途な男だ。穏やかで常に理性的な男だ。それが、許嫁の身が危ないというのに、こんなに簡単に他の女に手を出すような、つまらない男だったなんて。でも、それでも、どこかで抑えきれない幸福を感じてもいた。しかし、次の瞬間、その幸福を男は奪い去った。

「などと、言うとでも思いましたか?」

「……えっ?」

 ころころと表情を変えるローゼッタを前に、アトラウスは終始無表情だった。

「ぼくの心は常にユーリンダだけのもの。他の女性の入る隙間はありません」

「で、ではなぜ。わたくしをからかったんですのね! こんなに努力しましたのに、こんな、こんな侮辱を受けるなんて!」

 悔し涙があふれ出した。

「からかった訳ではない。本気ですよ」

「どういう事ですの! わたくしを売女と思ってらっしゃるの。そうなのね。多少噂されているからって、わたくし、愛してもいない方に身をまかせたりしませんわ。気晴らしの相手なら、街でお探し下さいな。それだって、ユーリンダさまには酷い裏切りでしょうけれども……」

「貴女が誰にでも身をまかせる女だなんて思っていませんよ。そんな女に利用価値はない」

「利用価値ですって?」

「ぼくは誠実な男だから、ありのままに気持ちを話すとしよう。つまりぼくは、ユーリンダの為に、ありとあらゆるものを利用したい。その中に、貴女も入っているのです」

「言われなくても、わたくしは何でもすると言っているでしょう!」

「では、ぼくに抱かれなさい」

 灯火の陰になり、アトラウスの表情はよくみえない。ただ、その顔色はいつもより幾分蒼ざめているようにも思えた。

「ぼくは不幸な生い立ちでね、そうそう簡単に人を信じる事ができないんですよ。でも、ぼくを愛して、ぼくに抱かれた女なら、きっと命をかけてぼくに尽くしてくれるだろう、と思えるのです。解りましたか?」

「……ユーリンダさまの為に?」

「そう」

「わたくしを愛してはいないのに?」

「そう」

「忠実な道具にする為に、わたくしを抱くと仰るのね?」

「そう。……どうしますか? 勿論、ぼくは貴女に快楽を与えてあげられる。多分、経験豊富な貴女も味わった事のないようなものをね。それから、どうしてもお望みなら、愛している振りをしてあげてもいい。むろん、ユーリンダのいないところだけでだけれど」

「こんなこと、ユーリンダさまへの裏切りだとは思わないの。彼女はあんなに純粋にあなたのことを……」

「彼女への思いという至上のものの前には、こんなことはどうでもいい事だ。但し、彼女を救う役には立つ。彼女は永遠の聖女なのだから、こんなことに心を煩わせる事はない。何も知らないのだから」

「わたくしが、言うかも知れないわ」

「貴女は言わない」

「わたくし、ユーリンダさまを憎んで、裏切るかも知れないわ」

 ローゼッタは泣いていた。こんなにこんなに苦しい気持ちは初めてだった。

「貴女は裏切らない。貴女はそういう女だから。それを解っているから、この取引を持ちかけた……貴女は、ぼくとユーリンダとファルシスの為に、そのいのちを投げ出しても尽くそうとするだろう」

「ひどい……なんてひどいひとなの……」

「でも、ぼくを愛しているだろう?」

 違う、と叫びたかった。憎い、と罵りたかった。でも、できなかった。かれの、いうとおりだったから。

 こんな愛し方があるなんて、知らなかった。愛とは、心地よいものだと思っていたし、ファルシスにもそう教えた。なのに、今はただ、苦しい。それでも、それでもいいから、かれのものになりたい、と望んでいる自分自身が、ローゼッタにはもはや狂気のひとのように思えた。

「もしそうでないというなら」

 アトラウスは冷たい声で囁いた。

「もう二度と言うことはない。もう来なくていい。領地に帰って、どこかの男と暮らしなさい」

「待って……」

 子供のように泣きじゃくりながら、ローゼッタはアトラウスの裾を掴んだ。もう引き返せない、と感じながら。

「言う通りにする。なんでもするから……帰れなんて言わないで……」

 初めて、アトラウスは表情を和らげた。

「そう……可愛いひとだ」

「ひどいひと……」

 アトラウスは、ローゼッタの豊かなみずみずしい躰を、軽々と抱き上げた。優男だと思っていたのに、こんなに力があったのかとローゼッタはぼんやり驚いた。

「正直に言うけど」

「……まだ、なにかあるの」

「愛してはいないけど、貴女に興味はある、ローゼッタ。ぼくは滅多に他人に興味をもつことはない」

 その言葉は、ローゼッタの女としての最後の矜持を打ち砕いた。

(もう……抗うことはできない……)

 安い媚薬のように悪く酔わせるその言葉に縋りつく女を、アトラウスは仮眠室へと運んで行った。

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