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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第二部・陰謀篇
52/129

2-26・ティラールの思惑

「レディ・ローゼッタ。お待たせして申し訳ありません」

 澄んだ緑色の瞳に誠実な光を浮かべてティラールはローゼッタの手に軽くくちづけた。茶色のなめし革のマントを従者に預け、最新のデザインの青いびろうどのチュニックを纏った彼は、相変わらずなかなかの男ぶりだった。

「い、いいえ、無理を言って待たせてもらったのですわ。どうぞ従者の方をお叱りにならないで下さいませ」

 そう言いながらも、ローゼッタの頭は、今得た情報を整理することでいっぱいだった。

 とにかく、はっきりしたのは、やはりティラール・バロックは、愚かな恋の虜の振りをした強かな間者だという事だ。バロック公の命を受けて送り込まれ、邪な目的でユーリンダに近づいたのだ。

しかしまさか、ユーリンダの侍女を誘拐したのが彼の手先だとは。ファルシスの想い人と知っての事だろうか? それとも単にルーン家の情報を引き出す為に? ザハドは、彼女が女性的な辱めを受ける事を気にかけていた。ただの情報を得る為の道具であるなら、そんな心配をする筈はない。だが、このティラールの気に入りの女、という言葉も鵜呑みには出来ない。ティラールは洗練された貴婦人好みで有名だし、ファルシスから聞いた話では、侍女は美しくはあるが格別に人目を惹き付ける容姿ではなく、控えめな娘という事だ。ティラールが危険を冒しても拉致する程に惚れ込むとはとても思えない。それに、もしもそういう目的で攫ったのであれば、とっくにそれを果たしている筈であろう。やはり、ファルシスを脅迫する為の道具だろうか? しかし、今更そんな必要があるだろうか?

(訳がわからないわ……早くアトラウスさまにこの事をお伝えして、意味を考えてもらおう)

「レディ? どうなさいました? あまりにお待たせして、御不興でしょうか?」

 心ここにあらずなローゼッタを、心配そうにティラールが覗き込む。

「美しいご婦人のお貌を曇らせてしまうのは、大変に心苦しい事です」

「いえ、申し訳ありません、何でもありませんわ。ちょっと考え事をしていたのです。ファルシスさまやユーリンダさまが心配で……」

「それは無論、わたしも大変胸を痛めております。実は今は、ユーリンダ姫への差し入れの品を調達に行っていたのですが。ファルシス卿にもいずれ見舞いに伺わねばなりませんな」

(まあ、いけしゃあしゃあと言うものだわ)

 ローゼッタは、微笑を浮かべて頷きながらも、敵意をもってティラールを見返した。ティラールの方は、ローゼッタがやや警戒しているとは感じるものの、絶対的な敵意を持たれているとまでは思っていない。

「先に申し上げた通り、万が一の際は、姫をわたしの妻にして……名目上でも何でもよろしいから、それで保護致そうと思っております。しかし、もしどうしても父がそれを許さないのであれば、そして姫の御身に危険が及ぶようであれば、わたしは姫を連れて逃げるつもりです」

「まあ、お父君のお怒りをかってでもですか」

「勿論です。姫のお役に立たないのであれば、バロックの名など、喜んで投げ捨てましょう」

「まあ……そこまで、ユーリンダさまのことを」

 ティラールの瞳はただ強い決意のみを湛えていて、ローゼッタは、先程の冒険をしていなければこれで完全にこの男を信用していただろう、と思った。

「もしもその際には、わたくしもお手伝いさせて下さいませ」

「お願いできますか」

 ティラールは嬉しそうにローゼッタを見た。

「勿論、その為にこちらに伺ったのですから」

「もしその時は、レディには暫く姫の身代わりを務めて頂いて、囮になってもらいたい。勿論、わたしが無理矢理脅して荷担させた事としてレディにお咎めが及ばぬよう、必ず後から申し入れを致しますから」

 ローゼッタはちょっと考えて、

「わたくしに出来る事なら何だって致しますわ。わたくしの身など、大した価値もないものですもの。……ただ、そんな大役がわたくしに務まるかしら? わたくし、ユーリンダさまとはまだお近づきになって間がないものですから……わたくしより、ユーリンダさまをよく知る腹心の侍女などの方がよいのではないでしょうか?」

 ローゼッタは、うまく鎌をかけたと思ったが、ティラールは残念そうに首を振った。

「侍女など、信用できません。いざとなれば、命惜しさに逃げ出すか、買収されて何もかも喋ってしまうかも知れません。やはり無理なお願いですね……お忘れ下さい」

 ティラールはローゼッタが尻込みしたと思ったようだった。ローゼッタは慌てて、

「いいえ、仰る通りですわね。わたくしにティラールさまがそれほどに信を置いて下さるのでしたら、わたくし、出来る限りの事をやりますわ」

「どうかご無理なさらぬよう」

「大丈夫、わたくし、度胸はありますのよ」

「それはそうだ」

 ティラールはくすりと笑って、

「こんな折に、姫を励ましたり、わたしを訪ねたりなさる女性は、貴女だけのようだから」

「そうですわ。お任せになって。きっと、お逃がしするにあたって、手柄をたてますわ。……ああ、でも勿論、そんな事にならなければ一番良いのですけれど」

「そうだ。あのルーン公が、あの優れたお方が、愚かしく厭わしい罪に手を染めるなど、わたしにはとても思えない。国王陛下が良き裁定をなさって、公が無事にお帰りになれば、こんな話は一切なかった事になる」

「それはでも、ティラールさまにとっては、ユーリンダさまを手にお入れになる機会を奪ってしまう事になりますわね」

「何を仰る」

 ローゼッタが驚くほど、ティラールは怒りを露わにした。

「姫のご友人とも思えぬお言葉。どうぞ訂正なさい。わたしは確かに姫を妻にと願ってやまないが、姫が望まぬ事はすべてわたしの望まぬ事。わたしは涙に暮れた姫をみるくらいなら、アトラウス卿と幸福に暮らす姫を柱の陰からみる方がずっとましなのだ」

 形の上では否定しても、本心が窺えるかも知れないと思って言ったことだったが、ローゼッタの思惑は見事に外れた。どう見ても、ティラールは偽りを語っているようではない。愚か者どころか完璧な演技だとローゼッタは身を固くし、

「申し訳ございません。ティラールさまの余りに純粋なお気持ちに打たれて、つい、迂闊な事を申してしまいました。もちろん、本心ではございません。わたくしもルーン公殿下を大変に敬愛しておりますし、無実を確信しておりますわ。でも、それとは関わりなく、こんなに真摯にティラールさまに想って頂けるユーリンダさまが少し羨ましくなって、下らぬ事を言ってしまったのです。どうかお許し下さいませ」

 ティラールはその言葉を聞くと頷き、

「ルーン公の疑いが晴れ、そして姫がアトラウス卿よりもわたしをお認め下さって、天下の祝福の下、姫と夫婦になる事がわたしの一番の望みなのです。どうかお解り下さい」

と半ば自分に言い聞かせるように言った。

 束の間、ローゼッタはそんな未来を想像してみた。ユーリンダがティラールと結ばれて……そうしたらアトラウスは? 恋心とはうつろうもの、もしも幼い頃から固く結ばれていたふたりの気持ちが離れてしまって、そんなことになったなら? そうしたら、アトラウスは、あの不思議な瞳は、どんな女性をみつめるのだろうか……。

(ばかね、そんな未来が来る訳ないわ。この男はバロック公の手先なのだし、あんなに一途なアトラウスさまとユーリンダさまが離れる筈もない。ルーン公殿下が無事にお帰りになって、そしてアトラウスさまとユーリンダさまの盛大な結婚式が行われる。それが最高の未来、それを祈っているのよ)

 そうなったら、ティラールもすごすごと国へ帰るしかないだろう。柱の陰からふたりの晴れ姿を眺めるティラールを想像したら、ローゼッタの張りつめた気持ちも僅かにほぐれた。


 再訪を約してローゼッタは館を後にした。向かう先は、アトラウスのいる本営である。

ローゼッタの馬車が遠ざかってゆくのを、二階の自室の窓からザハドは眺めていた。

 それから、机の三番目の引き出しを開けて書状の束を出し、中を確認してから鍵付きの引き出しに入れ直した。

 椅子の上に投げ出していた外套をしまう為にクロゼットを開けると、ほんの微かに香水の匂いが鼻腔をついた。ザハドの口元を、冷たい微笑が通り抜けた。

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