2-24・欺き
「アトラウスさま、わたくし、ティラール卿のお館に伺えることになったんですのよ」
ほう、という顔でアトラウスはローゼッタを見返した。警護隊の本営の一室。何の飾りもなく、粗末な木のテーブルと椅子が置かれているだけだ。ローゼッタは椅子に座り、アトラウスはテーブルに腰を預けて忙しく資料に目を通していた。
「いったいどこでティラール卿に会ったんですか?」
「ユーリンダさまを励ましに伺った折にです。ティラール卿はユーリンダさまの為に、バロック公へルーン公殿下への助力を願ったそうですの。どう思われます?」
アトラウスは軽く首を左右に振った。
「信用しろという方が無理な話だ。あの男は、最初から今の事態を引き起こすきっかけを作る為に送り込まれてきたんだ。他に何を言ってましたか?」
「ユーリンダさまが自分の妻になれば、救われる筈だと……」
やや躊躇いがちにローゼッタは言ったが、アトラウスの表情は揺るがなかった。
「出来る筈がない。もし本当にそれでユーリンダが今のままの生活を送れるのなら、ぼくは喜んで身をひくが、バロック公がそんな事を許す筈がない」
「わたくしもそう思います。ですが、もしティラール卿が本心でそう思っているのなら、利用価値があるのでは?」
「そうだな……仮につまらない罠だとしても、騙されて付き合ってやっている振りをして損はない。口の軽い男だから、奴らの思惑を掴む手がかりになるかも知れない。ローゼッタ嬢、あの男に近づいて情報を得る事に、協力して下さいますか? 或いは、危険があるかも知れないが……」
アトラウスは書類を置いて姿勢を正し、ローゼッタの目を見た。理知的な漆黒の瞳を、情熱的な大きな黒い瞳はしっかりと受け止めた。深い、深い、闇色の瞳は、僅かな黄金の光を纏っているようにローゼッタには思えた。
「勿論、わたくしがお役に立てる事なら、何でもやりますわ。危険? むしろやりがいがあって嬉しいくらい……」
その時、室の外に足音がした。はっとしたローゼッタを、アトラウスは素早く抱き締め、驚く間もなく唇を重ねた。
(あ……)
柔らかい感触と伝わる熱に、ほんの瞬時のこと、ローゼッタは陶然と酔い痴れた。そんな場合ではないのに、そんな気持ちもないのに、男慣れしているのに……。
ばたんと扉が開かれた。
「む、こ、これは失礼」
慌てて目を反らし、身を引いたのは、黄金騎士の一人だった。
「いや、構いませんよ」
ぼうっとしているローゼッタを優しく離し、アトラウスは悠然と笑った。
「じゃあローゼッタ、いま言ったことを忘れないでおくれよ。明日も差し入れを期待しているからね」
「え、ええ……」
赤くなった顔を伏せ、黄金騎士に一礼してローゼッタは出て行った。
「アトラウス卿も隅に置けませんな。許嫁がおありの身で……それにあの方は、ファルシス卿の恋人だとか……」
からかうように黄金騎士は言ったが、探るような響きが含まれているのをアトラウスは聞き逃さなかった。
「ユーリンダとの婚約は、終わったも同然ですよ。それにファルシス……年下の従弟にいつも上に立たれて、いつか見返したい気があったのかな? ファルシスの為に動いていた彼女を自分に惹き寄せたのは良い気分ですよ」
唇の端でアトラウスは冷たく笑ってみせた。
「まったく、ばかな女だ」
本営の外へ出て、明るい陽射しに目を細めながら、ローゼッタは軽く溜息をついた。勿論、さっきのは芝居だと判っている。ファルシスとアトラウス、ふたりを天秤にかける愚かな尻軽女の振りをして、連絡役を務める、と言い出したのは自分なのだから。
だが、真面目一辺倒の男だと思っていたアトラウスが、あんなにキスが上手いなんて思いもしなかったことだ。
(駄目駄目、いまはそんな事に気を奪われている場合じゃないわ)
そう思えば思うほど、穏やかで不思議なひとみが頭から離れなくなってしまう。
(まったく、わたくしったら、本当にばかな女ね。アトラウスさまはユーリンダさまのものよ)
自分に言い聞かせて、うん、と自分で頷き、ローゼッタは元気な足取りで馬車寄せに向かって歩いて行った。