2-23・母と娘
「お母様、お母様!」
ユーリンダは母親の私室を訪れていた。
ティラールの訪問は、父親に文を送った報告と、昨日と同様の励ましが目的であったので、時間的には長くなかった。リディアの事が気になって、彼にも助力を願おうか、とも考えたが、さすがに宰相の息子に自分の侍女を捜して欲しいと頼むのは図々しいし、この都の客人である彼には調べようもない事だろう、と思って、それは思いとどまっていた。
「どうしたのですか、ユーリンダ」
カレリンダは自ら扉を開き、娘を中へ入れた。文机の上に、書きかけの書状がのっている。
「ごめんなさい。お邪魔をしてしまった?」
「いいえ、お祖母さまへの文を書いていただけです。そんなに慌ててどうしたの?」
お祖母さま、とは、カレリンダの母で前聖炎の神子であったウィランダ・ヴィーンのことである。ウィランダは夫に先立たれ、いまは、領内の宗教都市オイランで隠遁生活を送っている。オイランは、見習い巫女や神官と、年老いて神殿の勤めから退いた巫女、神官が暮らす街。そこで、ウィランダはルルアへ祈りを捧げながら静かに時を送っていた。カレリンダは年に二、三度母親を訪ねていたが、ユーリンダはもう三年くらい祖母に会っていなかった。いつも柔和な笑みで迎えてくれる祖母が、ユーリンダは大好きだ。アトラウスと二人でラーランドのヴィーン家の長老への挨拶を済ませた後、次に祖母のもとへ訪れる予定だった。それを楽しみに過ごしていた頃が、何だかとても昔のことに思えた。
だが今は、とにかく母に言いたい事があった。
「リディアが……リディアが失踪したのですって。どうしたのでしょう? お母様、わたし、心配で」
「リディアが?」
カレリンダは驚いたようだった。
「それはいったい、誰から聞いたの?」
「ローゼッタよ。私を励ましに来てくれたの」
「ローゼッタ?」
カレリンダは僅かに眉をひそめた。表立って疎んじることはないが、カレリンダにとってローゼッタは、噂を聞く限り、息子を籠絡して遊びを教えた女である。好ましく思える筈はなかった。自身は堅かったアルフォンスが、妻を娶るまでは好きにさせておいてもよいと鷹揚に構えていたので、口を出した事はなかったが、内心では、浮き名を流す息子に苛立ちを覚えてもいた。
「あなた、ローゼッタと親しかったの?」
「いいえ。でも、ファルの事を弟のように思っていて、私の事も妹のように思える、と言ってくれたわ」
「……」
カレリンダは、治まらない頭痛で僅かの間にすっかり癖になってしまった、右手をこめかみに当てる仕草をした。単純で、その分影響も受けやすいこの娘が、ローゼッタのような「ふしだらな」人間と親しくなるのは、母親としてなるべく避けさせたい状態だ。が、今の状況では、味方になってくれる希少な人物を選り好みなどしてはいられない。ローゼッタが本気で味方になってくれるのかどうかは、彼女のうわべしか知らない自分には判断のつけようがないが、ファルシスが信用しているのなら、とりあえず歓迎すべきなのだろう。
「それで、リディアが失踪した、という話はどういう事なの?」
「詳しくはわからないの。ローゼッタは急いで帰ってしまって……明日また来ると言ってはいたけど」
「ローゼッタはいったい誰からそんな事を聞いたんでしょう?」
「それは勿論、ファルに聞いたのだと思うわ」
「そう……」
カレリンダは暫し考え込んだ。リディアが館を出たのは、確か攫われた娘たちの亡骸が見つかったのと同じ頃だった筈だ。失踪がいつからかは分からないが、少なくとも、殺された娘たちの中にリディアがいたという話は聞いていない。殺害が明るみになった後に彼女がいなくなったのであるなら、事件の被害者にはなっていないだろう。カルシスは王都へ向かっていたのだし、協力者がまだこの地方にいるとしても、ユーリンダの侍女をわざわざ連れ去る利はない筈だ。
「もし本当なら、リディアは自分の意志でどこかに隠れているのではないかしら?」
「どうして?」
一番考えやすい理由は、ユーリンダの傍仕えという危険な立場に戻りたくなくて、というものだ。だが、リディアがそんな性格でない事くらい、長年彼女をみているカレリンダにはよく判っている。
それ以外に考えられるのは、もっと個人的な理由だろう。結婚を控えて実家に戻ったリディア。花婿と年齢は離れているが、彼女にとっては良縁だった筈だ。彼女自身も喜んでいたと聞いている。だったら……。
「まさか……」
ふとカレリンダは思い当たった。あの事を知ってしまった? それで身を引いて? いや、しかし、失踪までする事はない筈だ……。
「どうしたの、お母様。何かご存じなの?」
「いいえ、何でもない。わたくしにも解らないわ……」
「お母様! 隠さないでちゃんと教えて頂戴!」
「隠すなんて。本当にわたくしは……」
ユーリンダは母親の手をとって決意を込めた瞳で顔を見上げた。
「お父様もお母様も、私に何にも話して下さらない。私を子供扱いして。ファルにだって、何かを秘密にしていて、それで怒らせたのでしょう?」
「ファルに?」
カレリンダはびっくりして娘を見返した。
「何の事なの? ファルがあなたに何か言ったの?」
「お父様やお母様は、ルーン家の為なら誰かを不幸にしても構わないんだ、って言ってたわ。ルーン家の世継ぎとしての自分だけが必要なんだ、とも。でも、そんな事はないわよね?」
「勿論ですとも……!」
息子からそんな風に思われていたと知って、カレリンダは胸の奥を突き刺されるような痛みをおぼえた。
「ルーン家を護ることは、何よりも大切なことではあるけれど、そのためにあなたやファルや他の誰かを不幸にしてもいいなんて、思っていません。時には、皆が望むようにはできない事もあるでしょう。でも、皆が幸福でいられるよう……最上と思える手だてを、お父様もわたくしも、いつも考えてきました。そう、あなたの結婚の事だって、ルーン家のことだけを考えれば、ティラールどのを迎えてバロック家と縁戚の絆を強めていた方がよかったに決まっているのよ。でも、あなたの意思を尊重して、お父様はあなたとアトラの婚約をお許しになった」
「でも、叔父様が罪を犯したのなら、結婚は許さない、と言ったじゃない」
「いくらあなたの気持ちがあっても、みすみす不幸になると判っている縁組を許す親はいません。あなたもいつか判る筈」
「アトラと結婚して不幸になんかなる訳ないわ」
「あなたは若くて世間知らずで、何も解っていない。罪人の息子として貴族の位を剥奪されるような者の妻になれば、今とはかけ離れた暮らしになって、あなたにそれが耐えられる訳がないでしょう。第一、あなたは聖炎の神子の後継者。世間が許す筈もありません。……でも、どちらにしても、今はそんな事を議論しても仕方がないわ。あなたの行く末は、お父様の裁判の結果ですべて決まるのだから」
その言葉にユーリンダは自分の置かれた状況を思い出し、泣きそうになった。そうだ、最早両親の意思に関わらず、アトラと結ばれないかも知れない……。
「アトラと結婚できなかったら、私、死ぬわ!」
「ユーリンダ!」
娘の言葉に、カレリンダはかっとなり、自分を抑えられなかった。ユーリンダの頬が激しく鳴った。
「いい加減にしなさい! お父様もわたくしも、どれだけ、あなたの事を、考えて、大事に、そして……」
カレリンダの貌が真っ赤に染まり、堰を切って溢れた激情が身体を激しく震わせた。今ほど、愛娘の愚かさが許せないと思った事はなかった。今の窮状はだれのせいなのか、おまえの我が儘のせいなのだ、と娘を罵りたくなった。半分は八つ当たりだが、心のどこかにそんな思いがあった、という事だ。それでも、こんな事態になって、自分はどうなってもいいからどうにかしてユーリンダだけは助けたい、そればかりを考え続けているのに、その命を簡単に投げ出すような言葉は、絶対に許せなかった。娘を罵る事は寸前で思い止まったが、涙が溢れ、言葉がでてこない。
ユーリンダは暫し呆然として母親を見つめていた。こんなに取り乱した母の姿を見たのは生まれて初めてだった。いつも冷静沈着で、穏やかで優美な母……自慢の母。その母が、まるで普通の人のように、喚いて泣いている。普段のユーリンダであれば、無論、母の身を心配し、母を安心させるような言葉をかけて慰め、傍についていただろう。
だが、いまのユーリンダは、アトラとの結婚が不幸と決めつけられた事への反発、アトラと引き離される恐怖心、そればかりにとらわれていた。聖炎の神子の後継者だから許されない? それではやはり、兄の言った事は本当だったのだ。両親は、聖炎の神子の後継者としての自分が必要なだけなのだ。ユーリンダの愚かしい若さは、そんな風にしか物事を捉えられなかった。従順で心優しいばかりの娘が、生まれて初めて、そして最後の、母親への反抗をした。痛む頬を抑え、ユーリンダは母親を睨みつけた。
「私はお母様の言いなりにはならない! お母様なんか嫌い!」
「ユーリンダ!!」
カレリンダは驚いて娘の袖を掴もうとしたが、ユーリンダはその手を振り払った。今の母は、今まで尊敬して愛してきた母親じゃない。初めて芽生えた親に対する大きな負の感情に、ユーリンダは殆ど恍惚状態にすらあった。およそ貴婦人らしからぬ大きな足音を立ててユーリンダは部屋を出て行った。
カレリンダは床に伏して泣き崩れていた。その泣き声が背中に追い縋るように微かに聞こえたが、ユーリンダは振り向かなかった。控えの間の侍女は目をそらして俯いている。
この出来事は、ユーリンダを生涯苦しめることとなった。