2-22・ローゼッタとティラール
廊下で、ローゼッタはティラールと鉢合わせた。
「これは、レディ・ローゼッタ。ご機嫌麗しいかな」
女好きで社交家のティラールは、既にアルマヴィラの主だった貴族の令嬢を見知っている。ユーリンダへの執心とは関わりなく、ティラールにとっては、美しい娘を心にとめるのはごく自然な事なのだ。年上とはいえ、ローゼッタは美しく華やかで、アルマヴィラの社交界では目立つ存在である。夜会で何度も親しく会話を交わしていた。
「御機嫌よう、ティラールさま」
貴婦人の礼をしたものの、ローゼッタの瞳には、これまでになかった敵意がある。アルフォンス一家の窮状にバロック家が関与していることは解りきっている。それなのに、よくも涼しい顔でユーリンダのもとへ通えるものだ……そう思うと、怒りで胸がいっぱいになる。
その思いを感じたかどうか面にはまったく出さず、ティラールはいつもの笑顔で言った。
「貴女のような方が傍にいらしたら、ユーリンダ姫もさぞやお心強いことでしょう。わたしからも、御礼申し上げます」
あまりに図々しいと思える言い草に、ローゼッタはつい、かっとなった。
「ティラールさまから御礼など言われる筋合いはございませんわ。許婚のアトラウスさまから言われるならまだしも」
「おや、お怒りですか? わたしはただ、姫の崇拝者として、レディのお見舞いが有難いと思っただけですよ。アトラウス卿と比べられても困ります」
「まあ。本当にまだユーリンダさまを想われているなら、わたくしなどに礼を仰る前に、なされる事があるんじゃありませんの? 宰相閣下のご子息なのですから」
この言葉には、さすがのティラールも少々気分を害した様子を見せた。
「わたしはしがない末っ子で、何の力もありません。だが、姫を励ます以上の働きはする所存ですよ」
「励ます以上の働き、とはどういった事ですの?」
「父へ、ルーン公への助力を頼む文を送りました。まあ、あの父がわたしなどの頼みをすんなり聞くとはあまり期待できませんが。しかし、もし姫がアトラウス卿との婚約を破棄してわたしの妻となって下さるなら、姫の御身は救われる筈」
「……」
この男は、本当にばかなのか、それとも、ばかのふりをした狡猾な敵なのか、とローゼッタは思案した。ルーン公への助力を頼むなど、もし本当であれば、それはただバロック公を怒らす結果しか生まないだろう。アトラウスから、バロック公がカルシスを後押ししている事はほぼ間違いないという推測を聞いている。ティラールとユーリンダの婚姻も、こんな状況となっては、バロック公が許す筈もない。バロック公はルーン公と違い、計算高い政治家だ。ルーン公が罪ありとされれば、大事な手駒のひとつである息子と大罪人の娘の結婚など、何の得もない。
しかし、たとえばかでも、本当にユーリンダの味方になるつもりであるなら、彼には利用価値がある。何といっても宰相の息子という肩書きは大きな力を持つ。万が一の際、ユーリンダを逃がす時に力になるだろう。敵である可能性を頭に置いて、こちらの手の内を見せずに利用する……そんな方策を、ローゼッタは練り始めた。
「解りましたわ。ティラールさまは、本当にユーリンダさまを想っておいでですのね」
ティラールの顔がぱっと明るくなる。
「解って頂けましたか、レディ。レディは聡明なお方だ。ユーリンダ姫に初めて会ったあの日から、わたしはただ姫の虜。わたしの身がどうなろうと、命ある限りわたしは姫に尽くす所存です。どうかその事を、レディからも、姫にお伝え頂きたい」
「お言葉はしっかり伝えますわ。きっとユーリンダさまもお喜びになりましょう。ティラールさま、わたくし、ユーリンダさまとの橋渡しの為に、お館に伺ってもよろしいでしょうか?」
ティラールは、ここから程近い来賓館にずっと滞在している。
「勿論、レディ、美しい令嬢の訪問はいつでもこのティラールは歓迎します」
真摯な眼でそう言われても、ローゼッタは辟易するばかりであったが、それは面には出さず、礼を言い、訪問を約して別れた。
それから、侍女頭を呼んで、リディアと近い侍女に会って話をしたが、手がかりらしきものは得られなかった。
やや疲れを感じてローゼッタは家路についた。ドース家の領地と本館は遠いが、このアルマヴィラ都の別邸は馬車で程近くにある。父や兄は領地にいる方が長いが、ローゼッタは必要な時以外は本館に帰らず、アルマヴィラ都に居ついて別邸の主のようになっていた。しかし、いまのこの危急の際、父も兄もアルマヴィラ都に詰めている。
「ローゼッタ! どこをうろついていたんだ?」
玄関ホールに入るなり、頭上から兄の声がした。二階から兄のターランドが足早に下りてきた。
「まあ、ご挨拶ですわね、兄様。ドース家の為に駆けずり回っていますのに」
「何がドース家の為だ。おとなしくしていろと言ったろう」
「ルーン家の方々に怪しまれず近づける立場ですのに、おとなしくなどしていられません」
「お前の振るまいが、万一我が家を危うくしたら、いったいどうするつもりなのだ」
兄はローゼッタと違い慎重な性格である。これまでアルフォンスを敬愛していたが、もしアルフォンスが失脚するなら、次の領主につくのが当たり前と思っている。愛妻と、三人の子供がいる。保身を第一に考えるのは、ローゼッタとは真逆だが、それも仕方のない事、と彼女は理解している。
「わたくしがもしも危うい事になったら、どうぞお捨て置き下さい。女ひとりのした事としらを切れば良いだけですわ。わたくし自身はどうなっても構いません。でも、もしルーン公が無罪になれば、その時はきっと、ドース家に運が来ますわ」
実現の可能性の低い餌をちらつかせたが、兄の表情は変わらない。
ローゼッタは、周囲の小貴族、特にその息子たちに、既に色々と根回しをしている。短い期間、恋人であった者も何人かいる。嫌な別れ方をしていないので、皆、彼女の話を聞いてくれる。彼らも、そして父も、アルフォンスに恩義を感じていて、王家に反旗を掲げる事はなくとも、陰ながらその一家を逃すことには概ね同意してくれている。なのに、このドース家の跡取りである兄だけは、頑なに王家の裁定に従おうと主張している。
「とにかく、余計な事はするな。女は家に引っ込んでいれば良いのだ」
「わたくしは、ユーリンダさまをお慰めに行っていただけです」
「無用だ。ファルシスさまにもユーリンダさまにもこれ以上近づくな」
「聞けません。父上にも禁じられていませんわ」
ターランドは舌打ちした。
「父上も愚かな。アルフォンスさまに肩入れして何になる。もう終わったのだ」
「何を仰るの。まだ裁きはこれから……」
兄は眼をぎらつかせてローゼッタを見据えた。
「もう終わっているのだ。流れを変える事はできない。我らのような小貴族は、ただその流れを受け入れる事しかできないのだ」
「……兄様?」
「とにかく、女の浅知恵で動くんじゃない。いいか、ドース家を危機に陥れるような真似をすれば、お前を斬り捨てるからな」
そう言うと、兄は背を向けた。
(どうしたの……兄様)
ローゼッタの知る兄は、小心ではあっても、冷酷ではなかった筈だ。兄の変貌に戸惑いつつも、その指示を聞くつもりは、彼女にはなかった。