2-21・ユーリンダとローゼッタ
午後になって、ユーリンダのもとへ来客があった。ローゼッタである。金獅子騎士は、母子の逃亡に万一にも手助けするような可能性のある人物の面会を許していなかったが、貴族の令嬢でユーリンダの親友と名乗ったこの女性は、危険性はないと判断して館へ入る事を許可した。
「まあ、ローゼッタ! 貴女が来て下さるなんて……」
「お気の毒に、随分やつれましたのね、ユーリンダさま」
ローゼッタは便宜上、親友と名乗ったが、ふたりは特に親しい間柄ではない。
そもそも、ユーリンダは、親友と呼べる程の女友達を持っていなかった。おっとりして、誰の事も悪く思わない性格だが、自分から進んで誰かに近づいて心を開く積極性がない。勿論、領主家の姫君であるから、彼女に近づき取り巻く小貴族の令嬢たちは多い。だが、ユーリンダは誰にでも愛想良く微笑んで過ごすばかりで、娘たちの好きなゴシップにもあまり興味を示さず、自分で話題を提供する機転も少ないので、単なる茶飲み友達はいても、今のような非常時に、彼女の身を心から案じて駆けつけてくれるような親友は作り辛かったのだ。
そんなユーリンダを、ローゼッタは陰ながら気にかけていた。恋人のようであり弟のようであるファルシスの、大切な妹。彼女自身にとっても、妹のように思えた。しかし、奔放で恋多き女として知られる彼女と、世間知らずでうぶなユーリンダはあまりにかけ離れていて、社交の場で顔を合わせても、ろくに声をかける機会もなかった。
ユーリンダの方は、ローゼッタを兄のかつての恋人と認識してはいたが、別れたという後も親しげな二人の関係を、まったく理解できずにいた。
「ファルシスさまもローゼッタどのも、おとなでいらっしゃるから」
などと、茶飲み友達は噂の端にあげては、羨望と冷やかしを交えて話していたが、その意味がユーリンダにはわからない。恋をしてやがて離れ、また別の恋をする……そんな繰り返しが「おとな」であるなら、自分は一生おとなにはなれない。アトラウス以外の男性に恋するなどあり得ないし、もしもアトラウスとの恋が終わるような事があれば、それはもう一生かれと逢わない事を意味するし、自分は尼僧になるか、さもなければ死んでしまうかも知れない、と思っていた。
多くの恋の噂を持つ兄のその方面の気持ちについて、理解ができない事を、ユーリンダは寂しく思っていた。幼い頃は、何もかもを分かち合った双子であったのに、ある時期から、兄は半身である彼女にも見せてくれない心の一部を持つようになってしまった。あれは、いったいいくつの時だったかしら? 何があったのか、もう長い間思い起こす事もなかった。一緒にいれば、今もいつも、優しく朗らかな兄だった。でも、どうしてひとりの人を長く愛さないのか、今の恋人は本当に愛しているひとなのか、と聞く事はなぜか出来なかった。柔らかな拒絶……それもたぶん、妹への思いやりなのだろうと、解ってはいたけれど。
ローゼッタは、彼女の知らない兄を知っている。ずっと、聞いてみたかった。だが同時に、自覚はしていないけれど嫉妬の感情もある。聞きたいけれど聞くのが怖くて、妬ましくて、あえてこれまでローゼッタに近づく事をしなかったのだった。
「ローゼッタ。あの……ありがとう、来て下さって」
とりあえずそう言ったものの、ユーリンダはまだこの訪問の意図を測りかねていた。ファルシスに会いに来たなら解るが、彼はこの館にはいない。それとも、彼がここにいると思って来たのだろうか? そんな事を考えていると、ローゼッタの方から言った。
「ユーリンダさま。わたくし、昨日ファルシスを訪ねましたの」
二人きりで話すのは、これが初めての機会である。領主家の姫君に敬語を使いながらも、兄を呼び捨てにしている事に違和感を覚え、思わずそれが顔に出てしまった。
「ああ……わたくしとファルシスの事はご存知ですわね? 若君に対して公の場ではこんな口はきけませんけど、でもわたくしは、ファルシスの事を弟のように大事に思っていますのよ。そして、ユーリンダさまの事も、失礼かも知れませんが、妹のように思っています」
ローゼッタの言葉を、ユーリンダは素直に受け止めた。
「まあ、では私のこともどうぞ、ユーリンダ、とお呼びになって。私、ずっと貴女とお話してみたいと思っていたの」
「あら、では、そうさせて頂きますわ、ユーリンダ。わたくし、遠慮は苦手な性分ですの」
ローゼッタは笑いながら言った。そのおおらかさに触れて、ファルシスとの事を尋ねていいものかとユーリンダは思案し始めたが、それを察してローゼッタは軽く牽制する。
「残念ながら今は、世間話をしている時間はありません。用件を申しますわ」
「ええ」
幾分慌ててユーリンダは応えた。確かに、そんな場合ではない。ローゼッタは辺りを窺ったが、姫君と令嬢の嘆きあいを探る金獅子は、今の段階ではいないようだった。
「まず、第一の用件。わたくし、連絡役になりますわ。ファルシスのところにも、アトラウスさまのところにも、わたくしは伺えますの。金獅子の前では、いまアルマヴィラを支える新しい実力者のアトラウスさまに媚びている女を演じていますが、そんな気持ちはない事はどうかお解り下さいませね」
「新しい実力者?」
聞き慣れない言葉に、思わず問い返す。
「そうですわ。お父君はご不在でファルシスも軟禁の身で、カルシス卿も不在。いま、アルマヴィラで最大の力を持つルーン家の筆頭は、アトラウスさまですのよ」
「アトラが……」
考えてもみなかった事だが、言われてみればそうなのだとユーリンダは納得した。
「でも、大丈夫なのかしら。アトラは今まで、あまり表に立ってなかったわ。嫌な事を言う人もいるし……アトラは、影の存在でいるのが楽だと言っていたわ。無理をしてないかしら?」
「ユーリンダ……」
この率直な憂いに、ローゼッタは一瞬返答に詰まった。アトラウスは、ローゼッタの見る限り、ユーリンダが思うような世慣れない青年ではない。むしろこの危機にあって、本人の意思には関わりなく、水を得た魚のように政治的な能力を発揮している。苦しい立場にいるのは自分の方なのに、ごく自然に許婚の身を案ずるユーリンダを、ローゼッタはいとおしく感じた。
「可愛い方ね。大丈夫、アトラウスさまは皆の信頼を集めつつあるわ」
「ほ、ほんとうに?」
「もちろんよ。そして何よりもあなたの身を案じておられる。だから、そんな心配はなさらないで。それより、ご自分の事を考えて。万が一の場合、アトラウスさまは絶対にあなたの事を守って下さる。だから、気持ちを強く持って……」
「万が一?」
ユーリンダの顔が曇る。
「あなたも、お父様が罪を犯したと思ってらっしゃるの、ローゼッタ?」
「まあ、そんな事ありません! お父君の事は、本当に昔から尊敬していますし、今も少しもそれは変わりません。お父君と叔父君を少しでも知っている者は、誰でもそう思っていますとも」
ローゼッタは語気を強めた。ユーリンダを安心させる為であって、本当は、誰でもがそう思っているという自信はなかった。だが、ユーリンダはそれを聞いて微笑んだ。
「だったら、万が一、なんて事はないわ。ルルアが誤った導きをなさる筈がないもの。お父様は必ず無罪になるわ」
「そう……ですわね」
ローゼッタは、そう応えるしかなかった。神がすべての者をその人にとって正しく導くのであれば、不遇のうちに世を去る者などひとりもいない筈だ。だが、善行を積んでも理不尽な運命のもとに命を散らす者は珍しくもない。無実の罪を着せられ刑死する者がいるとすれば、それもまたルルアの導きなのだ。だが、それでも大きな視点で見れば、ルルアはこの人の世の平安を護って下さっているのだ……そんな風にローゼッタは思っていた。自分の都合のよいように神を解釈することなど、出来ない。
しかし、ユーリンダはそんな世の中の現実すら知らず、ルルアはすべての人を救う存在、という聖典の言葉をそのまま信じている。
「みんな、ひどいわ。でもいずれみんなにも何が正しいかわかる筈。……今日、侍女が三人も暇乞いをしてきたのよ。金獅子騎士が、いまは誰も館を離れてはならない、と言って却下したけれども。ただでさえ、一番頼りになる侍女がいなくて心細いのに」
ユーリンダの言葉で、ローゼッタはもうひとつの用件を思い出す。
「そうでしたわ、貴女の侍女のリディア。彼女と親しい侍女と、帰りに少しお話してみたいんですけど」
ユーリンダは驚いた。
「どうしてローゼッタがリディアをご存知なの?」
「ファルシスから色々話を聞く事があって……彼女の失踪について、何かわかる事があったら、と思って」
「失踪?!」
ユーリンダは顔色を変えた。ローゼッタはしまった、という表情になる。ユーリンダはリディアの失踪を知らなかったのだ。
「も、申し訳ありませんわ、驚かせて。てっきりご存知とばかり……」
「知らないわ! どうして、どういう事なの? ファルから聞いたの? どうしてファルはそんな事を知ってるの?」
ファルシスの想いを勝手に話してしまう訳にもいかず、ローゼッタは困惑した。だがその時、執事が扉を叩き、ティラール・バロックの来訪を告げた。
「わたくし、失礼しますわ。また明日にでも伺いますから」
渡りに船とばかりにそそくさとローゼッタは立ち上がる。
「待って……」
追いすがるユーリンダから逃れるように、ローゼッタは執事の脇をすり抜け、室を後にした。