2-12・愚者の欲望
同刻。
同じアルマヴィラ都内のある邸宅の一室、座して書物を開いているのは、リディアの元を訪れた黒衣の男である。
表紙が擦り切れかけている、何の装飾も施されていないその革張りの本は、ある宗教の聖典であり、ヴェルサリアでは禁じられた、ルルア大神への呪詛が綴られている。
どんどん、と、せわしなく室の扉が叩かれた。
「入るがよい」
男が応じると、扉が開き、入ってきたのは、のっぺりした顔の小柄な中年男だった。
「遂にやったな!」
中年男は嬉しそうに息を弾ませて言った。
「ああ、見たかった! あの取り澄ましたアルフォンスの奴めが、罪人護送の馬車に押し込められるさまを!」
「……つまらぬ」
黒衣の男は呟き、聖典をそっと閉じた。
「隠者殿、そう仰るな」
中年男は気分を害する風でもない。アルフォンスの苦境という喜びの前には、小さな事など何も気にかからないようである。
「ノイリオン卿、わざわざそんな事を言う為に来られたのか。貴公にも獅子の目がついているのではないのか」
「女に会いにいくと言ってある。実際、他の室に女を置いてある。何も心配はいらぬ。俺は大逆人を告発した側なのだ。監視はかたちばかりのもの」
ノイリオン・ヴィーンは、やや得意げにそう答えた。
40歳にして独身の、ヴィーン家の当主、ノイリオン・ヴィーン。金や宝石で女を置く事は容易いが、彼が長年欲してきた女性は、ただひとりだった。
「アルフォンスの奴めが処刑されたら、すぐにカレリンダは俺のものになるんだろうな? それを、改めて確かめに来たのだ」
隠者と呼ばれた男は、微かに苦笑した。
「事が成った暁には、カレリンダ妃はノイリオン卿に与えられる事に決まっている。今更確かめられなくとも、大丈夫だ。ユーリンダ姫のほうなら、他に欲する輩もおるかも知れぬが」
「俺が愛しているのは、昔から、カレリンダだ。ユーリンダは、欲する奴に譲ろう。カレリンダはまだ子が産める齢。ユーリンダがいなくとも、次期聖炎の神子は、俺が産ませてやる」
ここ何年も、ユーリンダに求婚していたことなどなかったかのように、ノイリオンは高らかに宣言した。
カレリンダに子を産ませる……己が言った言葉に、ノイリオンは興奮した。
「ああ、待ちきれぬ。早く、この手に……」
隠者は、黒いフードの下で冷ややかな表情をつくった。
「産ませる、と言っても、カレリンダ妃は、最早子を成せぬ身体と聞いているが。ルーン公とこの上なく睦まじいのに、双子のあと、出産していない事をみれば、たしかな事であろう」
「そんなこと、何が確かなものか」
ノイリオンはむっとした顔になる。ルーン公と睦まじい、という言葉が気に入らなかったのだ。
「睦まじいなどと、表面だけのことかも知れぬ。長く子がないのは、アルフォンスの方に子種が尽きているのかも知れぬではないか。アルフォンスに出来なかったものを、俺が再び赤子を産ませてやれば、カレリンダも奴のことなど忘れて、俺を愛するようになるだろう」
「……」
すべて己の都合の良いように組み立てた仮定の話だが、ノイリオンは本気でそう思っているらしい。
愛情と平和に満ちた生活を引き裂き、夫と子供を奪った男に無理やり子を産まされて、どうしてその男を愛することになるだろうか。愛情などとは無縁の隠者にも、それくらいのひとの心は判るのだが、そんな単純なことを、欲に囚われたノイリオンは気づかぬようだ。
(まあ良い)
心中、隠者は呟いた。
(愚か者が何を信じようと、最早ことは加速をつけて流れ出している。聖炎の神子は、いずれ始末せねばならぬものであるし、子を成そうが成すまいが、ときが来れば、まとめて葬ってしまえば良いだけのこと)
「……男女の仲のことなど、私には解らぬが、とにかく妃は卿のものになるのだから、思うようにされるがよかろう」
囁くような声で隠者は言った。ノイリオンは、嬉しそうに、頭髪のやや薄くなった頭を縦に振った。