2-10・王妃リーリア
「国王陛下のお渡りでございます」
侍女の告げた言葉に、王妃の柳眉は逆立った。
「不例ゆえ、お控え下さるよう、伝えた筈じゃ!」
王妃リーリアは、初めての妊娠による悪阻に苦しんでいた。
食べ物の匂いを嗅ぐだけで嘔吐し、果汁を口にするのがやっと。それゆえに、王妃宮に勤める者すべてが、口臭を放たぬよう、果実以外のものを口にする事を禁じられていた。
国王の口からは、オリーブ油の匂いがした。悪阻中の王妃は、その匂いを疎んじていた。
「何ゆえ、ちゃんと陛下にお伝えせぬのじゃ。まったく、無能な者ばかり!」
八つ当たり気味に王妃は嘆いた。
だが、実際に国王エルディスが室に入ると、リーリアは柔らかな笑みを浮かべて迎え入れた。
「陛下、お疲れでございましょう。何か飲み物を用意させましょうか」
エルディスは頭を振った。
「よい。早うそなたと休みたい」
これを聞いて、一瞬、リーリアの面に苛立ちがよぎった。豪奢なソファに座り込んで、疲労をあらわに頭を抱え込んでいる国王は気づかない。
「陛下……陛下の御子は、生まれ出でれば親思いの素晴らしい御子に育ちましょうが、今は、母親を苦しめてばかりですのよ」
この言葉にようやく、国王は、何よりも寵愛している大切な王妃の不例を思い出した。
「そ……そうか、そうであったな。腹の御子が、そなたをな。身体の調子はどうなのか?何か、要るものはないか?」
「祖父が色々と届けてくれますので、間に合っておりますわ。それにわたくし、今は果汁しか口に入れられませんの」
幾分素っ気なくリーリアは応えた。エルディスは疲れも悩みも忘れ、愛妃の機嫌を窺うようにおどおどと彼女の肩を撫でた。
「そ、そうか、随分難儀なことだな。確かに、痩せて顔色も悪いようだ。男にはようわからぬが、充分に身体を労わるのだぞ。何か食べられそうなものがあれば、何でも用意させるから言ってくれ」
「食べ物のことなど、今は考えたくもありませんわ。それより、わたくし、身体が熱くて、侍女に扇がせていないと眠ることが出来ませんの。ゆえに、ここでは、陛下がゆっくりと御休みになれないかと案じて、そのように伝えさせたのですが……」
暗に同衾を拒む言葉だったが、その意味に気づいた様子もなく、国王は首を振った。
「さぞや辛かろうに、余の睡眠を案じてくれるとは、さすがそなただな。扇がせるのは構わぬ。そなたの寝台で休みたい。も、もちろん、そなたが暑くないよう、少し離れておるからな。触れたりはせぬから、よいか?」
そう言われては、否とも言えず、お心遣い嬉しく思います、と答えるしかなかった。
嫁いだ時、無論リーリアは男を知らなかったが、国王を篭絡すべく、様々な閨の手ほどきをうけていた。
彼女に諸々を伝授したのは、祖父アロールの手がつき、ひそかに子をなしている侍女長。
政治や学問ばかりに関心を向けていた若い王が、自分の虜になってゆく様は、なかなかに愉快なものだった。
夫に対し、愛情もあるが、それ以上に、大胆にも、気に入りの操り人形にしたい、という気持ちが強い。
だが妊娠が判って以来、なぜか、夫に触れられることが、いやでならない。
『孕むとそのようになる女性は多うございますから、おかしなことではございません。なれど、姫様は王妃陛下。いつもいつも夫君を寄せ付けぬ、という訳には参りませぬよ』
輿入れの時、リーリアに付いてきて、そのまま王妃宮の奥事情を取り仕切っている侍女長のエラは言っていた。
勿論、国王の心が王妃から離れぬよう、アロールに含みを持たされ、才気芳しいが我侭でもある若い王妃の行動を監視する役目を担っている。
怖いもの知らずのリーリアも、祖父に直結しているこの中年女の言葉は、そうそう無視する事はできなかった。
「では、休みましょうか。イーラ! 扇を持っておいで。朝まで手を抜かずに扇ぐのよ」
王妃は次の間に控えている侍女に言った。だが、エルディスは妃をとどめた。
「待ってくれ……まだそなたと話をしたい。アルフォンスの事だ」
「またそのお話ですの!」
思わずリーリアはそう言ってしまった。
このところ、国王の頭の中は、ルーン公背反の件でいっぱいの様である。それが、リーリアの気に入らない。彼の初めての御子を宿している自分にこそ、もっともっと、関心を持つべきである。
だがさすがにリーリアは、その感情をあからさまにするほど愚かな女ではなかった。
「お気の毒な陛下。あれほど信頼されていたルーン公の大逆は、どれほどご心痛か、このリーリアは、よくわかっていますわ。今頃は、ルーン公は身柄を拘束され、こちらへ向かっています。どのような弁明をするかは分りませぬが、カルシス卿の告発には、真偽を疑う余地はありませんもの。七公裁判で速やかに罪状が確定すれば、公とその家族は死罪。王家への忠義篤いカルシス卿を新たなルーン公とし、それでお終いですわ。もうそんなに、お悩みにならないで下さいまし」
「死罪……か……」
国王は呟いた。兄とも友とも慕っていたアルフォンスを、自ら裁く、という現実に、エルディスは怯えていた。
アルフォンスに、自分と釣り合う年齢の娘がいると聞き、その姫を妃に、と望んだ事もあったのだ。彼の娘なら、さぞかし美貌であろう、という風評に惑わされたのではなく、アルフォンスと義理の親子になれたらどんなによいか、という思いがあったからである。
「田舎育ちの不調法者の娘で、とても殿下のお傍に参らせるような者ではありません」
と、断られてしまったが。
純粋かつ単純なユーリンダが、権謀渦巻く宮廷にあって、うまく立ち回れる筈もない事は、父親のアルフォンスが、誰よりも知っていた事だったのである。
「陛下?」
リーリアは、エルディスの伏せた面をいきなり覗き込んだ。
僅かな間だが、リーリアに言えない事を思っていたエルディスは、国王の威厳もまるきり示せずにびくりと肩を震わせた。
ここに居て彼の子を身籠っているのが、アルフォンスの娘であったなら、こんな事は起こらなかったのだろうか、と考えていたのである。
「どうなさいましたの? お顔が赤い……」
大きな綺羅らかなその緑色の瞳に見つめられると、エルディスは平穏を保つことが出来なくなる。
「リーリア……休もう」
孔雀の羽を散らした豪奢な扇を手にした侍女の戸惑いも気に留めず、国王は、憂い顔の王妃の手を引き、寝台へと導いた。