2-8・挑発
ローゼッタの纏った香水の匂いがほのかに残るほどの頃、次の面会人がファルシスの室を訪れた。
「アトラウス・ルーン様がおみえです」
ファルシスの機嫌を伺うかのように、やや小さめの声で見習い騎士は告げた。
ファルシスとアトラウス。
ルーン公爵の、嫡男と、甥にして愛娘の許婚。
幼馴染であり従兄弟同士のふたりは、これまで仲違いしたこともなく、二人の道は、常に同じ方角に続いているようだった。
華やかで社交家の次期領主と、穏やかで実直な従兄。
間もなく義理のきょうだいとなり、アトラウスは、義兄となる従弟の片腕となり、ルーン家の繁栄は益々のものとなるであろう……つい最近まで、誰もがそう信じて疑わなかった間柄のふたりである。
だがいま、ふたりの道は、大きく逸れようとしているかとみえた。
アトラウスの父親カルシスが兄公爵を裏切り、そのために、アルフォンス・ルーンとその家族の命運は、いまや風前の灯火といっても過言ではない。
アトラウスは、父親の計画にどれほど関与していたのか?
そのことが、自分の、母の、そして妹の運命を大きく変えるのだと、ファルシスは痛いほどに感じていた。
アトラウスが味方であってくれたら……と、願いつつも、聡明なかれが、愚鈍な父親のこの、身の程にそぐわない大陰謀に、まったく気づかないなど、あり得ないのではないか、という疑いが、ファルシスの身のうちにはくすぶっていた。
胃の奥底が焼けるような思いで、ファルシスは従兄を待った。
こんなに早く彼がやって来る事も、予想外だった。
昨日は彼が謹慎の身で、今日は自分が幽閉の身である。
運命の皮肉にファルシスは唇を歪めた。
「こんにちは、ファル。たいへんなことになったね」
そんな風に、アトラウスは挨拶した。
いつもの柔和な笑みを浮かべ、まるで「昨日の雷雨で大木が折れたね」とでも話すような口調である。
「ああ……そうだね」
ファルシスは、自分も笑顔で返そうかと思ったが、やめておいた。
余裕のなさを見せたくはないが、彼ほどに自然に笑う自信がない。
「顔色が悪いね。大丈夫かい?」
「ああ、寝不足なだけさ」
軽く肩をすくめると、ファルシスは少し落ち着きを取り戻した。
どこかで話を窺っているであろう金獅子騎士団は気になるが、白々しい会話を続けるような時間はないのだ。
「用件はなんだい?」
アトラウスは頷いた。
「ユーリンダに会ってきたよ。母君にも」
「……二人はどうしていた?」
「元気がなかったよ」
当然のことをアトラウスは言った。ファルシスは平静を装いつつも、鼓動が早まるのを自覚せずにはいられなかった。アトラウスは明らかに、彼を苛立たせ、挑発しようとしているようだ。
「だろうな。それから?」
「それから? そうだね、僕が、絶対にきみたちを守る、と言ったら、泣いて喜んでいたよ」
アトラウスは笑みを浮かべたままである。しかし、いつからか、その笑みからは、見慣れた温かさが消えていた。
「可愛いね……ユーリンダ……いついかなる時も、僕を信じて、ついてくる……まるで従順な犬みたいだ。知っていたかい? 僕は、犬が好きなんだ……」
「アトラ……何が言いたい?」
「どうしたんだい、怖い顔をして?」
「守る、という言葉は、本気なのか?」
ぷっとアトラウスは噴きだした。
「本気か、だって? ファル……きみらしくもない、愚鈍な質問だ」
「どういう意味だ」
いまやファルシスは、険しい顔つきで訪問者を見据えていた。家族同然に理解していると思っていた相手が、まるで見知らぬもののように遠い。
「本気、という言葉に、何の意味がある? 本気を出せば、伯父上を救える? 本気を出せば、金獅子騎士団を王都に追い返せる? 違うだろう……言葉も誓いも、何の効力もない。必要なのは、力だ。そして、僕には、何の力もない。そうだろう? ブラック・ルーン……一族の出来損ない、それがこの僕だ。ルーン家存亡の危機にも、指をくわえて見ているしかないのさ」
「アトラ……本気なのか? 本気でそんな風に……」
「ほらまた出た、本気。僕の本気がそんなに気になるのかい? ああそうだ、愛しのユーリンダは、本気で守るよ。僕の子供が将来ルーン公爵となる為には、濃い血が必要だ。そのへんの貴族の娘では、黒髪の子供が生まれてしまう可能性が大きいからね。それから、きみの母上は、ノイリオン殿が、本気で守ると思うよ。なんと言っても、20年もかけた横恋慕が、ようやく想いを遂げられる訳だからね」
「な……なんだって?」
「きみは誰が守るだろう? 本気で守るよ、義兄さん……そうでも言えば、きみも泣いて喜ぶかい?」
次の間に控えていた見習い騎士は、部屋の中から突然聞こえた大きな物音に、仰天して駆けつけた。
彼と殆ど時を違わずに、どこからともなく金獅子騎士が二人、部屋の入り口に姿を現した。
「やめたまえ!」
怒号と共に、ファルシスは後ろから羽交い絞めにされた。
もう一人の騎士が、アトラウスを助け起こした。
「怪我はないですか?」
アトラウスは頷き、唇の端に滲んだ血を袖で拭った。
ファルシスが彼を殴り倒し、更に馬乗りになり、襟首をつかんでいるところに、人々が入ってきたのである。響いた音はアトラウスがぶつかった小テーブルが、ひっくり返った時のものだった。
ファルシスは騎士の手を振り払った。
「ファルシス卿……貴殿は謹慎し、王都からの沙汰を待つ身ですぞ。面会人を殴り倒すとは、いったい何事ですかな?」
問うたのは、彼を羽交い絞めにした騎士で、この宿舎を囲み、ファルシスを見張る一隊の責任者で、ロギンズという男だった。
「なんでもありません。ただの、きょうだい喧嘩みたいなものですよ」
応えたのはアトラウスだった。ファルシスは暫く目を伏せていたが、
「お騒がせして申し訳ない。つい、神経が高ぶってしまって」
と詫びた。
「きょうだい喧嘩! ルーン家では、きょうだい喧嘩がおおはやりなのですな」
揶揄したのは、もう一人の、ウルブという騎士だった。だがロギンズは、こうした軽口を好まず、きつい視線を送った為、ウルブは面白くなさそうに口をつぐんだ。
「済まなかったよ、ファル。きみの気持ちを、もっと思いやって話すべきだった」
いつもの柔らかな口調でアトラウスは言った。
「いいから、今日はもう帰ってくれ」
そっぽを向き、かろうじてファルシスはそう返した。
「また来る。今度はもっと、良い話をもってこられるといいんだが」
そう言って、アトラウスは騎士たちに挨拶して退室した。
疲れた様子で椅子に座り込んだファルシスを、騎士たちは少しの間、窺うように見ていたが、やがて出て行った。
ファルシスは、指が痺れるほどに拳を握り締め、机にのせたその拳に頭をつけた。
拳のなかには、一切れの紙片が収められていた。