2-6・黒衣の男
小さく響く足音に、リディアは浅い眠りから引き戻された。
狭い高窓から、淡い光が射し込んでいる。朝になったらしい。
足音は、ひとりのものではない。
リディアは、自らを激励し、訪問者が覗く前に、扉の格子から外を窺った。
ひとりは、あの牢番のような男だった。もうひとりは、どうやら昨日の訪問者とは違う人間のようだ。
ようだ、と曖昧な印象なのは、その人物が、すっぽりと黒いフードを被り、目の下まで黒布で顔を覆い、黒いマントに身を包んでいるからだ。顔は見えないが、体格は昨日の男より小柄だった。
その者は、扉の前に立ち、険しい顔で立っているリディアを、品定めするような目で見つめた。
「なかなか気が勝っているような娘だな。これなら、試練にも耐え得るだろう」
牢番の男に向かって、というより、独り言のように、黒衣の男は呟いた。
「試練……? 試練ってなに?」
もしかしてそれは、おぞましい呪術の為に心臓を抉られる事だろうか? 男の言葉の持つ不吉な響きに、リディアは内心怯えたが、なるべく面には出さないように努めた。
だが、彼女の心を読んだかのように、男は低く笑った。
「命が惜しいのか? 安心せよ、おまえを殺しはせぬ」
「……じゃあ、試練って、なに?」
なるべく多くの情報を、この男から引き出そうと思ったリディアは、重ねて質問した。黙っているよりはいいだろう。
「いまは言えぬ。おまえを無闇に怯えさせるのは本意ではないからな」
言葉とは裏腹に、男はリディアの恐怖を煽る事を愉しんでいるようだった。
リディアにもそれが判ったので、男を悦ばせぬよう、今は、恐ろしい想像はしないよう努めた。
「おまえのその気丈さがあれば、試練に耐えられる。耐えた暁には、何でも手に入るぞ」
「何でも……?」
「そうだ、美しいドレスも宝石も、望むがままだ。命を落とさず持ちこたえれば、姫君のような生活が待っている。普通に侍女として仕えていれば、一生手に入る術もないものだ。嬉しく思え」
「私はそんなものは欲しくないわ! 取るに足りない侍女の身で、そんな身の丈に合わない望みを抱いた事なんかない。それよりも、私を放して。私は、ユーリンダ様のところへ帰らなくては!」
「忠誠心、か? 違うだろう? 本当に帰りたいのは、公女ではなく公子のもとではないのか? それこそまさしく、分不相応な恋慕ではないのか」
「なっ……!!」
リディアは絶句した。何年間もひた隠しにし続け、同僚の誰ひとりにも気付かれる事のなかった胸の内を、なぜこの男は安々と言い当てるのか。
でも、違う、と思った。ファルシスに逢いたい、その声を一言でもいいから聴きたい、という鋭い願いは常に心にあって、それが叶わぬ事で内側から彼女を傷つけ、血を流させてはいたけれど、いまユーリンダの元へ帰り、護らなくてはならない、護りたい、という思いもまた確かにここに存在しているのだ。
「私が帰る場所は、ユーリンダ様の傍。姫様が私を必要としなくなる時まで、私は姫様をお護りし続ける。それ以外には何もない……一介の侍女が、何かを想ったとしても、それが何かに影響を及ぼす事などない。私の心のなかは完全に私だけのもの。おまえなどにとやかく言われる筋合いはないわ」
リディアは男を睨み付け、能う限り平静な口調を保ちながら言った。男は甲高い声で笑った。
「なかなかにしっかりした声で鳴くじゃないか。それでこそ、我が神への供物に相応しい」
「我が神……?」
「愚かにして哀れなる娘よ。我が神の与え給う試練に耐え得た時、おまえは最早いまのおまえではない。おまえだけのものであるおまえの心の中も、今のものとは全く異なったものとなっているだろう。その時にまた、話をしてみたいものだ」
そう言うと、男は踵を返した。
「待って! どういう意味…?!」
だが、男はもう、リディアへの興味をなくしたように、振り向こうとはしなかった。
牢番の男に、彼女が体力を失わないようにしっかり食物を与えるように、と指示をし、そのまま、廊下を歩み去って行った。