表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第一部・揺籃篇
20/129

1-17・許婚たち

 カーテンの隙間から、月明かりが寝所に忍び込む。

 アトラウスは、まだ眠るつもりはなかったが、ランプは点けず、薄く淡い月明かりの下で、壁の肖像画を見つめていた。

 父親と継母に気を遣い、普段は隠していた肖像画。

 だが、いま、父親はどこに居るのか知れず、継母は、この騒ぎで、娘と共に実家に戻っていた。

 誰にも憚る事なく、アトラウスは肖像画を壁に飾った……自害した生母の肖像画を。

「母上……」

 アトラウスは、絵を傷つけぬように気をつけながら、そっと指で母親の頬を撫でた。

「あと少しです……」

 父親はいったい今、どこにいるのだろう。何の便りもない。

 だが、やがて結末が来る。闇から光の中に出でても尚、探し求めたものが、もうすぐ得られる筈。

 アトラウスは戦慄した。


 控えめに、扉が叩かれた。

「若様。起きておいでですか」

 押し殺したような執事の声に、思いを遮られ、アトラウスは苛立った。

「起きている。何か?」

「ユーリンダ様がお見えです」

 余りにも意外な言葉に、一瞬返答に詰まった。

 もう館の者は寝静まっている時刻、あの、ひとりではフォークも用意できないような姫君が、この深夜に、いったいどうやって来たのだろう。まさか、父公爵が許可して取り計らった訳でもあるまいに。

 怪訝な気持ちを抱いたまま、彼女の待つ客間へ向かった。


「アトラ……私、来たわ。会いたかったの。叔父上のこと、信じているわ」

 顔を見るなり、許婚はそんな風に言った。

「ユーリィ……会えて嬉しいよ。だけど、どうやって来たの? 父君のお計らい?」

「まさか、そんな訳はないわ。私、窓から抜け出したのよ。それから……ファルが助けてくれたの」

 成る程、とアトラウスは思った。窓から一人で抜け出したとは驚きだが、ファルシスが手助けしたと聞けば納得がいく。

「ファルはどこに?」

「別室で待ってるわ」

 そう言って、ユーリンダは一歩、許婚に歩み寄った。

 窓から射す清廉な月明かりが、整った細面を照らし出す。やつれてはいたが、白く浮かび上がったユーリンダの顔、愛しいひとにやっと逢えた歓びに輝く黄金色のひとみは、息を呑む程に美しかった。

「アトラ……もし……もしも……」

 ユーリンダは、懸命にことばを探した。

 今度いつ訪れるかわからない逢瀬、普段のように奥ゆかしく振る舞っている場合ではない。限られた時間に、言うべき事を言っておかなければならない。

「もし……お父様が、結婚を許してくれなくなったら……私を、どこかへ連れて行ってくれる? 二人でどこかへ行って、一緒に……」

 顔を赤らめながら、精一杯の勇気を振り絞って、ユーリンダは言った。きっとアトラは頷いてくれると信じながら。

 だが、アトラウスの表情は翳っていた。

「……」

「アトラ?」

 返答が遅いので、ユーリンダの貌に不安が浮かぶ。アトラウスは面を伏せた。

「ユーリィ……それはできないよ」

「! アトラ! そんな……どうして? アトラは、結婚できなくなっても、いいの…?!」

 ユーリンダのひとみが、信じられない、と語るように大きく見開かれた。

 衝撃に思わず、涙がぽろぽろと零れた。アトラウスは悲しそうに吐息をついて、愛おしげにその涙を指で拭う。

「そんな事は……きみを不幸にしてしまう。何不自由なく暮らしてきたきみに、逃亡の生活なんて耐えられる筈がないよ。ぼくは、ぼくの為にきみを不幸にするくらいなら、遠くからきみの幸せを見つめている方がずっとましなんだ!」

「そんな、私なら大丈夫よ。アトラと一緒にさえいられれば、幸せなの。アトラと離される以上の不幸なんてないわ!」

「いまはそう思うだろうけど……」

 アトラウスは、ユーリンダの、痛いほどにまっすぐな視線から逃れようとするかのように、窓の方へ顔を反らした。

「きっと、すぐにきみに相応しい男が現れる。そうだ、ティラール卿がいるじゃないか」

 ユーリンダの眉が吊り上がった。

「あんなひと、大嫌いよ!」

 アトラウスは、彼女の怒りを無視した。

「元々、この婚約は不釣り合いだったんだ。きみは、聖炎の神子となる身だが、身分から言えば、王妃にだってなり得る。一方、ぼくは一族の出来損ないで、怖ろしい犯罪を犯すような男の息子だ……。ぼくは、ぼくの子供をきみに産んで貰うのが怖い。聖炎の神子から、黒い髪と瞳の子どもが生まれたら……」

「アトラ……アトラは、叔父上が……やったと思ってるの?」

「他に考えようがないじゃないか……」

「そんな事ないわ。信じなくちゃ……アトラが信じなくて、どうするの。私は信じているわ。アトラのお父様が、そんな怖ろしい事をする訳ないって」

 アトラウスは苦笑した。

「ユーリィ、きみの気持ちは嬉しいけど……きみは、あの男の事をわかっていない。あの男は……」

 ユーリンダは、アトラウスが自分の父親を、あの男呼ばわりするのを聞いて驚いたが、黙って次の言葉を待った。

 アトラウスは少し躊躇いをみせたが、そのまま言葉を継いだ。

「妻を殺すような男だ……ぼくの母を……よく調べもせずに、何年も責め続け、死に追いやった」

「……それは……」

 その経緯は、カレリンダからざっと聞いてはいたが、アトラウスがユーリンダに母親の話をするのは、実はこれが初めてのことだった。

 いつも、楽しく、優しく、甘い話ばかりをしてきた。

 愛おしいひとが、ようやくこんな段階になって、心の奥深くについた傷跡を垣間見せた事に、ユーリンダは何を言ってよいかまったく判らなかった。

 アトラウスは手をあげ、彼女が何か言おうとするのを制した。

「あの男を庇うような事を言うのはやめてくれ。きみにまでそんな事を言われたら、ぼくはただ、益々苦しいばかりだ」

「アトラ……私……」

 自分が無力だと、この時ほど感じた事はなかった。彼女はただ、黙って俯き、涙を流した。

 アトラウスは、ふっと表情を和らげた。

「ごめんよ、ユーリィ。きみにこんな話を……折角、会いに来てくれたのに」

「いいの、いいの……私……なんにも判ってなくって、ごめんなさい……」

 啜り泣く許婚を、アトラウスは優しく抱き寄せた。

「きみには、あかるい陽射しと、綺麗なドレスや飾り、甘いお菓子が似合う。きみはただ、それに包まれて笑っていればいいんだ。苦しみなんて何も知らずに……。そして、ぼくは、そんなきみを、この手で……」

 アトラウスは、彼女の肩に回した手に、そっと力を込めた。

「この手で……守りたかった……でも、もう、出来そうにない……」

「そんな、そんな事言わないで……アトラ、私の傍にいて……」

 かつてなかった程に間近に、アトラウスの顔があった。

 白く澄んだ月明かりの中で、愛しい愛しいひとに抱き寄せられ、ユーリンダは、経験した事のない歓びと哀しみを感じていた。

 ユーリンダは、そっとひとみを閉じた。アトラウスの吐息がひそやかに顔に感じられた。


 だが、その時……。

 執事が強く扉を叩いた。

「ユーリンダ様! 至急、お戻り下さい! お館からお迎えの者が参っております!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ