1-17・許婚たち
カーテンの隙間から、月明かりが寝所に忍び込む。
アトラウスは、まだ眠るつもりはなかったが、ランプは点けず、薄く淡い月明かりの下で、壁の肖像画を見つめていた。
父親と継母に気を遣い、普段は隠していた肖像画。
だが、いま、父親はどこに居るのか知れず、継母は、この騒ぎで、娘と共に実家に戻っていた。
誰にも憚る事なく、アトラウスは肖像画を壁に飾った……自害した生母の肖像画を。
「母上……」
アトラウスは、絵を傷つけぬように気をつけながら、そっと指で母親の頬を撫でた。
「あと少しです……」
父親はいったい今、どこにいるのだろう。何の便りもない。
だが、やがて結末が来る。闇から光の中に出でても尚、探し求めたものが、もうすぐ得られる筈。
アトラウスは戦慄した。
控えめに、扉が叩かれた。
「若様。起きておいでですか」
押し殺したような執事の声に、思いを遮られ、アトラウスは苛立った。
「起きている。何か?」
「ユーリンダ様がお見えです」
余りにも意外な言葉に、一瞬返答に詰まった。
もう館の者は寝静まっている時刻、あの、ひとりではフォークも用意できないような姫君が、この深夜に、いったいどうやって来たのだろう。まさか、父公爵が許可して取り計らった訳でもあるまいに。
怪訝な気持ちを抱いたまま、彼女の待つ客間へ向かった。
「アトラ……私、来たわ。会いたかったの。叔父上のこと、信じているわ」
顔を見るなり、許婚はそんな風に言った。
「ユーリィ……会えて嬉しいよ。だけど、どうやって来たの? 父君のお計らい?」
「まさか、そんな訳はないわ。私、窓から抜け出したのよ。それから……ファルが助けてくれたの」
成る程、とアトラウスは思った。窓から一人で抜け出したとは驚きだが、ファルシスが手助けしたと聞けば納得がいく。
「ファルはどこに?」
「別室で待ってるわ」
そう言って、ユーリンダは一歩、許婚に歩み寄った。
窓から射す清廉な月明かりが、整った細面を照らし出す。やつれてはいたが、白く浮かび上がったユーリンダの顔、愛しいひとにやっと逢えた歓びに輝く黄金色のひとみは、息を呑む程に美しかった。
「アトラ……もし……もしも……」
ユーリンダは、懸命にことばを探した。
今度いつ訪れるかわからない逢瀬、普段のように奥ゆかしく振る舞っている場合ではない。限られた時間に、言うべき事を言っておかなければならない。
「もし……お父様が、結婚を許してくれなくなったら……私を、どこかへ連れて行ってくれる? 二人でどこかへ行って、一緒に……」
顔を赤らめながら、精一杯の勇気を振り絞って、ユーリンダは言った。きっとアトラは頷いてくれると信じながら。
だが、アトラウスの表情は翳っていた。
「……」
「アトラ?」
返答が遅いので、ユーリンダの貌に不安が浮かぶ。アトラウスは面を伏せた。
「ユーリィ……それはできないよ」
「! アトラ! そんな……どうして? アトラは、結婚できなくなっても、いいの…?!」
ユーリンダのひとみが、信じられない、と語るように大きく見開かれた。
衝撃に思わず、涙がぽろぽろと零れた。アトラウスは悲しそうに吐息をついて、愛おしげにその涙を指で拭う。
「そんな事は……きみを不幸にしてしまう。何不自由なく暮らしてきたきみに、逃亡の生活なんて耐えられる筈がないよ。ぼくは、ぼくの為にきみを不幸にするくらいなら、遠くからきみの幸せを見つめている方がずっとましなんだ!」
「そんな、私なら大丈夫よ。アトラと一緒にさえいられれば、幸せなの。アトラと離される以上の不幸なんてないわ!」
「いまはそう思うだろうけど……」
アトラウスは、ユーリンダの、痛いほどにまっすぐな視線から逃れようとするかのように、窓の方へ顔を反らした。
「きっと、すぐにきみに相応しい男が現れる。そうだ、ティラール卿がいるじゃないか」
ユーリンダの眉が吊り上がった。
「あんなひと、大嫌いよ!」
アトラウスは、彼女の怒りを無視した。
「元々、この婚約は不釣り合いだったんだ。きみは、聖炎の神子となる身だが、身分から言えば、王妃にだってなり得る。一方、ぼくは一族の出来損ないで、怖ろしい犯罪を犯すような男の息子だ……。ぼくは、ぼくの子供をきみに産んで貰うのが怖い。聖炎の神子から、黒い髪と瞳の子どもが生まれたら……」
「アトラ……アトラは、叔父上が……やったと思ってるの?」
「他に考えようがないじゃないか……」
「そんな事ないわ。信じなくちゃ……アトラが信じなくて、どうするの。私は信じているわ。アトラのお父様が、そんな怖ろしい事をする訳ないって」
アトラウスは苦笑した。
「ユーリィ、きみの気持ちは嬉しいけど……きみは、あの男の事をわかっていない。あの男は……」
ユーリンダは、アトラウスが自分の父親を、あの男呼ばわりするのを聞いて驚いたが、黙って次の言葉を待った。
アトラウスは少し躊躇いをみせたが、そのまま言葉を継いだ。
「妻を殺すような男だ……ぼくの母を……よく調べもせずに、何年も責め続け、死に追いやった」
「……それは……」
その経緯は、カレリンダからざっと聞いてはいたが、アトラウスがユーリンダに母親の話をするのは、実はこれが初めてのことだった。
いつも、楽しく、優しく、甘い話ばかりをしてきた。
愛おしいひとが、ようやくこんな段階になって、心の奥深くについた傷跡を垣間見せた事に、ユーリンダは何を言ってよいかまったく判らなかった。
アトラウスは手をあげ、彼女が何か言おうとするのを制した。
「あの男を庇うような事を言うのはやめてくれ。きみにまでそんな事を言われたら、ぼくはただ、益々苦しいばかりだ」
「アトラ……私……」
自分が無力だと、この時ほど感じた事はなかった。彼女はただ、黙って俯き、涙を流した。
アトラウスは、ふっと表情を和らげた。
「ごめんよ、ユーリィ。きみにこんな話を……折角、会いに来てくれたのに」
「いいの、いいの……私……なんにも判ってなくって、ごめんなさい……」
啜り泣く許婚を、アトラウスは優しく抱き寄せた。
「きみには、あかるい陽射しと、綺麗なドレスや飾り、甘いお菓子が似合う。きみはただ、それに包まれて笑っていればいいんだ。苦しみなんて何も知らずに……。そして、ぼくは、そんなきみを、この手で……」
アトラウスは、彼女の肩に回した手に、そっと力を込めた。
「この手で……守りたかった……でも、もう、出来そうにない……」
「そんな、そんな事言わないで……アトラ、私の傍にいて……」
かつてなかった程に間近に、アトラウスの顔があった。
白く澄んだ月明かりの中で、愛しい愛しいひとに抱き寄せられ、ユーリンダは、経験した事のない歓びと哀しみを感じていた。
ユーリンダは、そっとひとみを閉じた。アトラウスの吐息がひそやかに顔に感じられた。
だが、その時……。
執事が強く扉を叩いた。
「ユーリンダ様! 至急、お戻り下さい! お館からお迎えの者が参っております!」