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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第一部・揺籃篇
19/129

1-16・兄妹

 ひんやりと心地よい風が、頬を嬲る。

 だが、黄金色の髪は、しっとりとした汗で額に張り付き、風にふわふわと揺れる事はなかった。

 冒険の第一段階の成功に、ユーリンダは興奮を覚え、涼しい夜気にあたっても尚、身体の火照りを感じていた。

 軽やかな足取りで庭園を駆け抜け、馬屋の傍までたどりついた。

 ここで馬を騒がせては、見張りの目にとまってしまうかも知れない。

 慎重に、近づこうとしたその時……。


「誰だ?」


 背後からの声に、ユーリンダは心底驚き、とびあがった。

 暗がりに、男の影がみえる。誰かに見つかってしまった。彼女は、なんとかこの場を誤魔化す為に、色々と考えていた台詞を頭の中に並べてみた。

「わ、わたし、怪しい者ではありませんわ。そ、その、姫さまのご用で、お使いに行くところで……」

 影が、一歩近づいた。

「まさか……ユーリィ?」

 雲が動き、月明かりが男の貌を照らし出した。

「ファル……!」

 ローラムから戻ったファルシスが、単身、裏門から入り、馬を戻したところだったのだ。

「いったい、こんな時刻にこんなところで何をしているんだ?」

 信じられない、という目で、ファルシスは双子の妹を眺めた。

 しとやかで従順な姫君な筈の彼女が、夜中にたった一人で馬屋に忍び込もうとしている、という状況は、臨機応変な彼の頭脳にも、すぐには受け入れがたいものだったのだ。


 ユーリンダは、暫し動揺していたが、やがて開き直った。

「私、アトラに会いにいくの」

「……え?」

「お父様もお母様も、ひどいわ。私はアトラの許婚なのに、会ってはいけないなんて。私を見張らせて、部屋に閉じこめているのよ。だから私、自分で会いに行く事にしたの」

「……なるほど、そういう事か」

 ファルシスは、事情を飲み込んだ。あの両親なら、そうする事だろう。

「止めないでね、お願い」

 妹は必死の表情で、自分を見ている。ファルシスは、ふっと笑った。久しぶりに、笑う気分になった。

「止めないけど……どうやって、裏門から出るつもり? 見張りの兵がいるよ?」

「それは……お使いを頼まれた、って言うわ。顔はフードに隠して」

「真夜中に何のお使い? 顔も見せない相手を通す程、彼らは不真面目じゃあないよ。それに、君の態度は怪しすぎる」

「そんな……」

 ユーリンダは、思わず涙ぐんだ。自分では、完璧だと思ったのに、そうではないのだろうか?

 ファルシスは、そんな妹に歩み寄り、ぽんと頭に手を乗せた。

「大丈夫。協力してあげるよ」


 ユーリンダは、目深にフードを下ろし、兄の腕に包まれて馬の背に揺られていた。

 夜半に帰館したばかりの若君が、顔を隠した女性を愛馬に乗せて、また裏門から出てゆくのを、見張りの兵は無論咎める事もなく、通してくれた。

 夜のお忍びは、この公子には特に珍しい事でもなく、父親も黙認しているのだ。

 フード越しに星明かりを感じながら、ユーリンダは深く吐息をついた。

 うまく抜け出せた事は嬉しいが、自分一人では絶対に無理だったと、兄に断言された事が少し悔しい。

「ユーリィ、絶対に顔や髪を出しちゃだめだよ」

 門を出る前にも行った注意を、ファルシスは再度妹の耳に囁いた。

 自身も、注意深くフードを引き下ろしている。

 事件のせいで、都には普段の賑わいはなく、表通りも人通りは少ない。

 だが、そんな中でも、この夜更けに、大量殺人を犯したとされるルーン家の者が出歩いているのを見咎められたら、それがどんな事に発展するやも知れない。

 民に篤く慕われる領主の子女とわかって狼藉を働く者はそうはいないと思われるが、ファルシスには、リディアの姉エリアの、敵意に満ちた瞳が忘れられない。

 あのような視線を向けられたのは、生まれて初めての経験だったのだ。

「わかってるわ、ファル」

 そう返答しながらも、ユーリンダは、ルーン家の名を、隠さなければならないと言われた事が悲しい。

 無論、こうした状況下でなくとも、深窓の姫君が、夜中に館を抜け出す、などという事が、他人に知られてよい筈もない事ではあったが。


 こうして、兄と二人きりで外に出るなんて、いったい何年ぶりである事か。

 幼い頃は、何もかもを分かち合った双子の兄妹であったのに、成長と共に、貴族の習慣が二人の間に見えない壁を築いていった気がする。

 今しかないと思ったので、ユーリンダは尋ねてみる。

「ファル……どうしてこの間、お母様に怒っていたの?」

 ファルシスは微かに身じろぎした。

「ユーリィ……知っていたのかい」

「ええ……偶然聞いてしまって……ごめんなさい」

 ファルシスは、馬の足を緩めた。

「ぼくもユーリィも、ルーン家の者として生まれて、誇りに思う事、素晴らしい事もたくさんあったと思う。だけど……この家に生まれたばかりに、本当に大切な人と共に生きられないのなら、それはやはり不幸な事なのかも知れない……」

 ユーリンダは、胸がどきんとした。彼女は勿論、本当に大切な人と生きていくつもりで、それが成らないとは思っていなかったからだ。

 それから次に、ファルシスの大切な人とはいったい誰なのかと思った。

 ファルシスは、遊び慣れた主に年上の女性と、何度も浮き名を流している。

 本当に想う娘と、身分違いの為に結ばれる事がない、という空虚さを埋める為の行動であるなど、ユーリンダには思いもつかず、顔を知る何人かのレディのうちの誰なのであろうか、と思わず想像を巡らせた。

 だが何となく、それは誰なの、とは聞けなかった。

「父上も母上も、所詮は、ルーン家の世嗣としてのぼくが大切なんだ。そして、ルーン家の為には、誰かを不幸にしようと構わない。手段を選ばないんだ」

「そんな! そんな事はないわ! お父様やお母様が、誰かを不幸にするような事を、なさる筈がないわ!」

 驚きの余り、無意識にフードをはねあげ、ユーリンダは兄を振り返った。

ファルシスは冷静に、妹のフードをまた元に戻した。

「じゃあ、きみはどうなの、ユーリィ。本人同士にはなんの咎もないのに、アトラとの仲を裂こうとされているだろ」

「それは……」

ユーリンダは返答に詰まった。

「ぼくは別に、両親が冷酷な人間だと言っている訳じゃないよ。ただ、ぼくたちはもう、自分の事、ルーン家の事、自分で考え、決められる年齢になっているのに、それを認めず、ぼくたちの生き方を操り、ぼくたちの大切な人の事などどうでもいい、という考えが許せない、と言っているんだ」

 ユーリンダはうなだれた。

 ファルシスの言う事は、きっと正しいのだろう。両親が自分や兄を愛してくれている事は間違いない。自分や兄に、幸福に生きて欲しいと願っている事も、多分間違いない。

 でも、それが、その手段が、正しい事なのかどうか。それで自分や兄が本当に幸福になれるのかどうか。

 答えが、見つからなかった。

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