1-14・失踪
ファルシスは単騎、愛馬を駆っていた。
この数日間で、かれの世界は、大きく変化していた。
これまでは、かれにとって何よりも大きなものは、ルーン家であり、その後継者として相応しくある為に、ただその為に生きてきたと言っても過言ではない。
両親への敬愛と思慕の念、半身ともいうべき双子の妹を慈しみ、護ろうという思い……それらは今、砕かれ、心の欠片は千々に乱れ、そしてただひとりの人間に向かおうとしていた。
リディアである。
彼女に逢いたい。
逢って、そして、ふたりでどこか遠いところへ行く。
彼女もきっと喜んでくれる筈。
彼女の婚約は、彼女の意に染まぬものなのだし、彼女は自分に想いを寄せてくれている。
ルーン家は、アトラがユーリィと結婚すれば、彼が何とかしてくれるだろう。
両親の事など、知った事ではない。
リディアとふたり、どこか遠くで生きていきたい……。
数日前まで、自分にこんな気持ちが芽生える事など、彼は想像した事もなかった。
長年の、リディアへの想いはあったが、それを実らせる事はないと、自分に言い聞かせ続けてきた。
ルーン家の後継である自分が、一介の侍女を正妃と出来る筈もない。
望めば、愛妾とする事は可能かも知れなかったが、本当に愛する娘をそんな立場に置くくらいなら、傍から、彼女が好きな男に嫁ぎ、幸福に暮らすのを見ている方がまだましだと思っていた。
将来は、愛妾の数で歴史に残りたい、という夢を持つティラール・バロックなどからは、全く理解されないであろう頑なさを、かれは持っていたのだ。
しかし今、その頑なさは、これまでと別の方向へ向かおうとしていた。
従者の目を盗み、騎士団の宿舎を夜半に抜け出し、夜通し駆け続けた。
リディアの実家のある街に着いたのは昼頃。
ローラムの一番大きな宿屋『金の角笛亭』に向かった。
そこはリディアの実家で、リディアはそこにいるか、そうでなければ、彼女が今どこにいるかを聞ける筈である。
かれは、フードを目深に被っていた。
『聖女の血筋』のあかしである、黄金の髪と瞳は、密かに行動したい時、いつも邪魔になった。
黒髪と黒目の者ばかりが暮らすこの地方で、それは余りにも人目を引きすぎるのだ。
馬を繋ぎ、入り口をくぐると、どうも様子がおかしかった。
室内は薄暗く、客を出迎える者もない。
「……誰か?いないのか?」
大きな声で呼ぶと、ようやく、小間使いとおぼしき少女が現れて、
「申し訳ありません。今は、閉めているんです。よそへ行かれて下さい」
と、頭を下げた。
「どういう事だ? わたしは、宿を借りにきたのではない。この宿の娘のリディアと話をしたいのだが」
小間使いは、驚愕の表情を浮かべ、後ずさった。
少しお待ち下さい、という言葉を残して少女は奥に消え、ほどなく、出てきた女に、ファルシスは軽く驚いた。
リディアと瓜二つの容姿。しかし、リディアではない。他の者なら取り違える事もあろうと思えたが、彼はすぐに判った。
双子の姉がいると、以前話していた。会うのは初めてだが、間違いなく、彼女がその姉であろう。
「リディアに会いたいとおっしゃっているのは、あなたさまですか」
何故か怒りと警戒を露わにした女の態度を訝しく思いながらも、ファルシスはフードを外した。
「わたしは、ファルシス・ルーン。お初にお目にかかるが、貴女は、リディアの姉上のエリア殿ですね? よろしく」
身分を明らかにすれば、エリアの警戒は解けると思ったのだが、彼女は、ファルシスの黄金色を目にして、一層顔をひきつらせた。
「あなたが? ルーン家の若君? ……いったい、どういうつもりでいらしたのですか? 悲嘆に暮れる家族の様子を見ようとでも?」
ファルシスは戸惑った。
「悲嘆……とは?」
「とぼけないで頂きたいわ。あの娘は、攫われました。人相の悪い男に、無理矢理連れ去られるのを、物乞いの老人が見ていたのよ」
「なんだって……!!」
「巷で騒がれている事件の犯人に決まっているわ。即ち……」
「お止めなさい! エリア!」
興奮した娘の言葉を、背後から中年の女が制した。
「これはルーンの若様、こんな所へわざわざお越し頂いて……」
リディアの母親だった。彼女には、何度か挨拶された事がある。
「申し訳ありません、この娘は取り乱しているのです。双子の妹が攫われてしまって……」
「リディアが攫われたとは、どういう事だ? あの事件の犯人に? まさか……」
「何が、まさか、なの? 犯人は、ルーン家のひとなんでしょう? それで、あなたは様子を見に来たんでしょう? そうでなければ、若様がわざわざ侍女を訪ねてこんな所に来る理由なんかないわ!」
「エリア! およしと言っただろう!」
母親は、娘の頬を打った。
「奥へお行き。行かないと承知しないよ」
「でも、母さん」
「うちの店に傷をつけるような真似は許さないよ。さあ、お行きったら!」
娘は、母親の目をじっと見つめていたが、やがて大人しく奥へと消えて行った。
エリアの姿が見えなくなると、すぐに彼女の事はファルシスの意識から消えていった。彼女の言葉の棘について、考えている場合ではなかった。
「アークレー夫人、リディアが攫われたというのは、確実なのですか?」
まさかこの家族の様子が演技でもあるまいし、リディアがいなくなったというのは確実なようである。 しかし、よりにもよって、彼女が噂の殺人者に拉致されたなどとは、思えないし、思いたくなかった。
「もしや、意に染まぬ結婚が嫌で、姿を隠した、という事はないだろうか?」
そうであって欲しい、という思いを、彼は口にした。
だが、その言葉を聞くと、夫人の顔は険しくなった。
「若様。あの娘の身を案じて頂いて、感謝致します。でも、あの娘は、自分で決めた事から、黙って逃げ出すような娘ではありません。幼い頃に手元から離したとはいえ、あの娘は私の娘です。それくらいの事は、私にはわかります」
これを聞いて、ファルシスは途端に恥ずかしくなった。
「……済まない。まったくその通りだと思う」
そうだ、彼女はそういう性格であり、その生真面目さ、芯の強さが彼女の魅力のひとつだと、わかっていたのに。
ただ、あの婚約を、彼女が自分で決めた、という言い方には、あまり賛同できなく思えた。そうせざるを得ない状況に、彼女は追い込まれていたのだから。そして、その原因は……。
「あの娘の許婚は、歳は少し離れているけど、本当に良い方なのですよ。リディアを本当に気に入って下すって、それはもう、良い縁に恵まれたと思っていたのです。なのに……」
涙ぐむ夫人に、それは違うだろうとは言えなかった。相手は、評判の悪い、酷薄な金貸しだろう、とは。
「若様、ところで、リディアに何のご用でいらっしゃったのでしょう?」
「ああ、それは……妹の事で、ちょっと尋ねたい事があって」
用意していた言い訳に、幸い相手は疑問を持たなかったようだった。
「まあ……お役に立てませず、申し訳ありません。姫さまに、折りを見てお話下さいませ……もう、リディアはお側に戻れないかも……知れませんと……」
離れて暮らしていても、リディアは家族から愛されているようだ。これ以上、母親の嘆きを目の当たりにしているのも辛く、攫われた時間と場所を聞き、ファルシスは立ち去る事にした。
「きっと……犯人を捕まえる。きっと、無事に助け出します」
彼がそう言うと、夫人は、深く頭を下げた。
「お願い致します、若様……どんな相手であろうと、きっと真実を明るみに出して下さる、と信じています」
どんな相手であろうと、という言葉は、勿論、噂されている相手の事を指しているのだろう。ファルシスはただ頷き、その場を後にした。
明るい日差しが眩しかった。リディアはいない。いなくなった。
束の間、呆然とファルシスは佇んでいた。
彼女を連れて逃げるつもりで来たのに、これはどういう事なのだろう? 神が彼の心を知り、彼女を隠したのか? という思いさえ浮かんだが、すぐにその思いは打ち消した。
これは、人間の仕業なのだ。目撃した者もいるのだから。
必ず、救い出す。
例え、噂されている人物を破滅に追いやる事になっても……真実を明らかにせねばならない。
攫われた場所に行き、周辺を調べた。目撃したという者にも会えて、リディアは馬車に押し込まれ、連れ去られたという事が分かった。
もう、この街にはいないだろう。その直感を頼りに、彼はアルマヴィラ都へ戻る事にした。
黴臭さと埃っぽさに鼻腔を刺激され、リディアは目を開けた。
周囲は、薄暗かった。
がんがんと痛む頭を押さえ、彼女は起き上がった。
薬をかがされ拉致された後、どこかへ移動しているようで、不快な長いまどろみの間、微かに馬車の振動を感じていた。
誰かが見ていて、彼女が目を覚ましそうになると、また薬をかがされた。
あれから、いったいどれくらいの時間が経ったのか、まるで判らなかった。
身体の下には、古いカーペットがあった。
美しい織りの上質なものだが、かなり長い間、手入れもされていないようで、黴と埃の臭いは、主にこのカーペットからきているようだった。
周囲を見回すと、彼女は、薄暗い部屋の中にいた。
以前は何か家具や道具が色々置かれていた形跡があるが、今は、忘れられたようなカーペット以外何もない、使われていない部屋だ。
空気が、ひどく淀んでいた。
一方の壁の、とても高いところに、格子のはまった窓があり、太陽の弱い光が射していた。
同じく格子のはまった扉は固く閉ざされており、格子の向こうに見える廊下には明かりもない。
外界との接触は、その窓を介して以外、ないようだったが、窓はあまりにも高く、小さかった。
(地下牢だわ)
リディアは思った。
何ゆえに、自分は地下牢に囚われているのだろう?
そうだ、それは、いま、巷を騒がせている、若い娘を攫っては殺す、狂気の犯人の仕業かもしれない。
すると、自分もまた、心臓を抉られ、殺されるのだろうか。
まだ、薬の効き目が完全に抜けておらず、ぼんやりとする意識の元でも、彼女は恐怖を覚え、どこかに逃げ道はないものかと、部屋のあちこちを探った。
(……?)
部屋の片隅、カーペットの半ば下敷きになりながら、何かが落ちていた。
拾うとそれは、小さな古びたペンダントで、裏には彼女のよく見慣れた刻印があった。
ルーン家の紋章。
やはり、巷の噂の通り、ルーン家の人が、犯罪に手を染めているのだろうか?
掌にのせてそれを見つめていた時、扉の外に何か気配がしたので、彼女は慌ててそれをポケットにしまった。
「お、気がついたようだな」
扉の格子の向こうから、男が覗いていた。
「だれ?!」
リディアは大きな声をあげた。男は笑った。
「誰でもいいさあ。いま、世の中を騒がしてる、おっそろしいお方のご命令で、おまえをさらってきたのさあ」
「それは……だれなの?本当に、ルーン家の方なの?」
髭面の小汚い身なりの男に対し、何故かリディアはそれほど恐怖を感じなかった。単に、感覚が麻痺していただけかも知れない。
しかし、牢に囚われた力無い娘の問いかけに、男は一層大きく笑っただけだった。
「ふん……もうすぐわかるさあ!」
「娘が目を覚ましたのか?」
そんな声がした。
それは、どこかで聞いた、何度も何度も聞いた声だった。
「へえ、殿様」
男がかしこまって答えていた。
リディアは、格子のはまった扉へ近づき、男の持ったランプの明かりで照らされた、薄暗い廊下の向こうを見た。
ひとりの男が、こちらへ向かって歩みを進めてきていた。
(あの方は……)
あり得ない人物を、そこに、リディアは見出した。