1-13・容疑者
アルフォンスがようやく私邸に姿を見せたのは、その2日後の夜のことだった。
その間、ユーリンダは、ただ悶々としながら過ごしていた。
兄も帰ってこないし、母は忙しそうに出かけては、夜遅く帰宅し、夜食を部屋に運ばせて、そのまま休んでしまう。
あまりに疲れた様子なので、休息を妨げて話を聞く事は憚られた。
アトラウスも、多忙で顔を出せない、と従者を介して伝言を送ってきたのみ。
そしてティラールは、何故かあの後、姿を見せない。
父親が何日も私邸に帰らないのは、珍しい事ではない。
代々の領主の中でも、特に民に慕われているアルフォンスは、自らの務めに決して手を抜く事がない。都内での様々な案件、地方からの陳情、その他多くの仕事を、常に先頭に立って骨身を惜しまずこなしてきた。
更には、毎年数回は王都に赴き、大貴族として、宮廷での重要な行事などへの務めも欠かさなかった。
しかし、この三日間の不在は、常になくユーリンダを心細くさせた。
こんな時なのに、普段、片時も傍を離れないリディアまでもがいないのだ。
ユーリンダは、我が儘と知りながらも不安に耐えられず、用が済んだら急いで戻ってきてほしい、という手紙を、今朝、館の者に託したのだった。
父親の帰宅を知り、ユーリンダは急いで、父のいる小広間へ降りて行った。
両親が、揃って卓の傍の椅子に腰を下ろし、深刻な表情で何かを話し合っていた。
「お帰りなさいませ、お父様」
彼女が挨拶すると、アルフォンスは疲れた笑顔を愛娘に向けた。
「まだ起きていたのかい。もう休みなさい」
すると、母が言った。
「いいえ、ユーリンダ。あなたにも聞いてもらいたいわ。ここにお座りなさい」
また何も教えてもらえないのかと落胆しかけたユーリンダは、ほっとして、母の示す椅子に腰掛けた。
アルフォンスは不服そうに妻を見た。
「この話はまだユーリィには……」
「何をおっしゃっているの、あなた」
カレリンダは夫の目を見て、きっぱりと答えた。
「ユーリンダはもう子供ではありません。そして、アトラウスの許婚で、聖炎の神子の後継者です。この大事を知らずに過ごせる筈もありません」
「それは……」
アルフォンスは返答に詰まり、妻の言葉の正当性を認めない訳にはいかなかった。
「……そうだね、カリィ。きみの言う通りだ。それに、他人から無責任な噂を聞くより、きちんと話をした方がいいのだろうな」
ユーリンダの心臓は、早鐘のように拍ち始めた。大事、とはなんだろうか? それに、何故いま、アトラの名前が出るのだろう?
不安に耐えかねたユーリンダは、思わず話を逸らせようとしてしまった。
「お父様、ファルは? なぜ帰ってこないの?」
「ああ、うん。ファルは騎士団の宿舎に寝泊まりしているようだ。かれも忙しいんだよ。別に、それは心配しなくてもいい」
そう言いながら、アルフォンスはちらりと妻の顔を見やった。
父は、母と兄の口論を知っているのだろうか?何か聞いているらしい様子だ。
兄は、父のことも、母に対してしたように責めたのだろうか?
そして、そのことは、大事、と関係があるのだろうか?
「ユーリンダ。今、都で騒がれている事件のことは知っているね? 若い娘が大勢殺害された」
ためらいがちに、アルフォンスは話し始めた。
「ええ、お父様」
「では、その殺され方や、犯人について、噂されている事は? 何か聞いている?」
「いいえ……それは、知らないわ。誰も何も教えてくれないもの」
両親は、顔を見合わせた。
「ユーリンダ……きみには衝撃が過ぎる話かもしれないが……娘たちは、皆、心臓を抉られ、その血を絞りとられていたんだ。大神官は、これは呪術が行われたに違いないと言っている」
「……呪術……ですって……?」
あまりに凄惨な話に、ユーリンダは意識を失いそうな気がしたが、かろうじて己を保つ事が出来た。
「いったい、何の為の呪術なの? そんなに多くの、血を……」
「それはまだわからない。ただ……わかっている事がふたつあるんだ。娘たちの死体が見つかった家……それは貸家で、それを借りに来た者は、黄金色の髪をしていたと証言されている事。そして、もうひとつは……」
苦悶に満ちた表情で、アルフォンスは思わず掌を広げ、自らの顔を覆った。
「死体が発見された夜から、カルシスが行方不明だという事だ」
「それはいったい……どういうことなの」
恐ろしさに青ざめ、かすれた声でユーリンダは尋ねた。
「叔父様が行方不明……? それは……それはもしかして、叔父様もその犯人に殺……つ、連れ去られた、という事なの? ああ、そんな……かわいそうなアトラ!」
「……いや、そうじゃないんだ、ユーリィ……。」
愛娘の鈍さに、流石にアルフォンスの面にもほんの一瞬だけ苛立ちが浮かんだが、すぐにそれは流れ去り、かれは苦笑した。
「いや、そういう可能性もない訳じゃないな。いっそ、そうだったら良いのだが」
「まあ、お父様、なんて事を!」
父親の言葉が信じられない、という表情のユーリンダに、今度は母親が諫めるように言った。
「お父様のおっしゃる事が正しいのです。もし、単にカルシスが何者かに連れ去られた、というだけの事なら、冷たいようだけど、彼一人の身のことです。でも、そうではない場合、ことは、ルーン家の名誉に関わります。ルーン家の根幹を揺さぶるようなことかも知れないのです」
ユーリンダは戸惑った。
「どういう意味……」
「ユーリンダ。いまや、国中の噂となっているこの事件の犯人が、カルシスかも知れない、と言っているんだ」
これ以上曖昧な言い方をしても伝わらない、と知って、アルフォンスは、苦い口調ではっきりと告げた。
ユーリンダは、ぽかんとした。
「叔父様が……犯人? 人殺し? まあ、なんて事を……そんな事が、ある訳ないわ。アトラのお父様が……」
「わたしもそう思いたい。だが、今のところ、そうでないという証拠はどこにもない。カルシスは、あの、死体が見つかった日、わたしとファルに知らせがくるより前に、ダリウスとアトラウスと共にその場に行ったらしい。そして、そこから帰宅した後から行方が知れない。誰かに連れ去られたというような痕跡はまったくない。執事が言うには、彼は、大慌てで旅支度を整え、一番脚の速い馬に乗って出て行ったという事だ。それから、忘れてはいけない、死体の見つかった館を借りたのは、聖女の血筋のあかしの、黄金の髪を持つ者だという事を。この事は、最早あらゆる場所で噂になっている事なんだ」
「そんな……そんな……」
蒼白なまま、涙を流す娘の肩を、カレリンダはそっと抱いた。
「わたくしたちも、どうか彼が無実であってほしいと、心から願っています。でも、それを明らかにするには、まず、彼を見つけ出さなければならないの」
「ええ……ええ、そうね。きっと、見つかるわ、無事で……そして、叔父様が無実だと、みんなにわかるわ……」
それから、ユーリンダは、はっとして顔を上げた。
「アトラは? アトラはどうしているの?」
「彼には、自宅待機を命じている。こんな話が知れ渡っているのに、出歩く訳にもいかないだろう?」
「そうね……ああ、でも、どんなに心を痛めている事でしょう! 私、明日、アトラに会いに行きます」
「駄目だ」
きっぱりとアルフォンスが言ったので、ユーリンダは驚いた。この優しい父からは、悪戯だった幼年期を過ぎて以来、厳しい事を言われた記憶がほとんどなかったからだ。
「事の真相が明らかになるまで、アトラウスに会ってはならない」
「まあ、そんな。私、アトラの許婚なのよ。いつだって、会いたい時に会える筈だわ」
「ユーリィ……ねえ、聞いておくれ。わたしだって、こんな事は言いたくない。わたしもお母様も、きみの幸せをまず第一に考えている。その事を、どうか忘れないで欲しい」
夫が躊躇い、言い淀んでいる様子を見て、カレリンダは、嫌な役目を引き受ける事にした。
「ユーリィ。そうならなければどんなに良いかと、わたくしたちも思っているわ。でも、ここまで話をしたからには、あなたにも覚悟を持っておいてもらいたいの」
カレリンダは、娘の衝撃を和らげるにはどういう言い方がよいのか、考えを巡らせた。が、結局は、簡単な言葉で、ありのままに告げるしかない、と思い定め、娘の、自らによく似た大きな黄金色のひとみを静かに見つめた。
「もしも、噂が真実だと明らかになるなら、あなたとアトラウスの結婚を許す訳にはいきません」