1-12・帰省
その翌日。
ルーン家の馬車に乗ったリディアは、無事に実家へ帰っていた。
リディアの実家、アークレー家は、ローラムという大きな街で、数代前から街で一番大きな宿屋を営んでいる。
裕福な家庭だったが、数年前、リディアの父親が親しい者に多額の金を融資し、その男がそのまま姿を消してしまった事から身代が傾いた。
そこに手を差し延べたのが、同じ街の金貸しジェイク・ソルトである。
破格の金利で融通してもらい、窮地を救われたアークレー家としては、やもめの中年男に年頃の娘を縁づける話を、断る事は出来なかった。
リディアには双子の姉もいたのだが、こちらは既に嫁ぎ先の決まった身であったので、次女のリディアがこの貧乏籤をひかされる事となった。
一日ゆっくりと実家で過ごし、この日、婚約者に会いに行く予定だった。
リディアが居間に降りてくると、姉のエリアが言った。
「アルマヴィラ都のあたりは物騒な事件が起こっているそうね」
「そうね。でも、攫われた娘たちは、残念な形とはいえ見つかったんだし、きっと犯人もすぐに捕まるんじゃないかしら」
「リディア。おまえは、嫁いだらもうお勤めは辞めた方がいい」
突然の母親の言葉に、リディアは驚いた。
「何を言うの、母さん。今後の事は、もうソルトさんも了承済みの事じゃない。私は、姫さまから離れてしまうなんて出来ないわ」
「それは確かに、ルーン家と繋がりがあるのは、大層ありがたい事ではあるだろうけどね……でもね、心配なんだよ」
母親は、大仰な身振りで肩をすくめ、声をひそめた。
「だって、噂では、言われてるじゃないか。あの事件は、『聖女の血筋』のお方が……」
「まあ、やめてよ!」
リディアはかんかんに怒って言った。
その噂は、リディアも先刻、噂好きな召使から聞かされたばかりだった。
多数の乙女が惨殺された事件。その犠牲者の乙女たちが見つかった館は、貸家であり、数ヶ月前にその館を借りに来た者は、目深にフードを被っていたものの、その裾から黄金色の髪の毛が洩れていたと、館の持ち主が証言している、と。
「リディア、私はおまえの身を案じて言ってるんだよ。もしもその噂が本当なら、そんな怖ろしい犯人が、お屋敷に出入りしているかもしれないじゃないか」
「噂なんかあてにならないわよ。それに、万一本当だとしても、『聖女の血筋』のあかしの、黄金色の髪を持つ人なんて、ルーン家、ヴィーン家合わせて何十人もいるんだから。お屋敷にいつも出入りなさる方とも限らないわ」
「そうかも知れないけどね、何とも言えないだろう?ソルトさんと結婚すれば、おまえはお勤めなんかしなくても、楽に暮らしていけるんだから。おまえの事を案じて言ってるんだ。言う事を聞きなさい」
断定的な口調に、リディアはかっとなった。
「案じて、ですって? 母さんは私の事なんてどうでもいいくせに。私の事を思うなら、なんでこんな無理矢理な縁組を……」
「リディア!」
リディアの頬が鳴った。
幼い頃から離れて暮らし、母親からぶたれた経験はあまりない。
リディアは痛む頬を押さえ、涙ぐんだ。
普段、心の奥底に押し込めていた感情が、つい、噴き出してしまった。その事が、悔しかった。
今更、親と本音で話すつもりなど、なかったのに。
親が自分を愛していないとは思っていない。ただ、親は、自分より一層、アークレー家、というものを愛しているだけなのだ。
それを悪いとも思わない。仕方がないとしか思わない。
なのに、一方的に、勤めをやめろと言われて、思いがけなく、思いを押さえつけていた糸が切れてしまった。
溢れる涙を見られないよう、俯いたまま、リディアは席を立ち、部屋を出た。
姉が後を追おうとしたようだが、母親が「放っておきなさい!」と言っていた。
リディアはそのまま裏口から外へ飛び出した。
逃げ出せる訳もなかったが、できるものならそうしたい、と思った。
(ファルさま、ファルさま……!!)
声には、出せない。でも、心の中でなら、どんなに叫んでも、自由だ。
2日前の夜には、彼の想いを知って、あんなに幸福だったのに、今は、何もかもが皮肉で苦しく思える。
結婚なんかしたくない。決して想いびとと結ばれる事はなくても、他の男なんか知らないままで、彼の近くにいたかった。
そして、それすら叶わないなら、せめてただ、ほんのたまにでもいいから、彼をかいま見る事のできる位置にいたい。
彼女は、裏路地に駆け込み、しゃがみこんで泣いた。
(私は……ひどい女だわ)
あんなにユーリンダに頼りにされているのに、自分が彼女の傍にいたいのは、ファルシスとの繋がりを断ちたくないからなのかもしれない。そんな自分の醜さに気づいてしまったのだ。
(ちがう、ちがう。私は、姫さまを何より大事に思っているわ。姫さまの為なら、いつでも命を投げ出せる。離れるなんて考えられない……!)
乱れる思いにとらわれていたリディアは、他人の気配に全く気づかなかった。
気づいたのは、薬品を含ませた布で口と鼻を塞がれた時。
未婚の娘が次々と攫われ、惨殺される、その事件の犯人は、まだ野放しになっているのだと、遠くなる意識のなかで、リディアは思い出していた。