1-11・若君と従者
ユーリンダのもとを辞し、ティラール・バロックは、従者ザハドと、宿舎に向かって馬を進めていた。
「先程は、本当に申し訳ありませんでした」
ザハドは改めて謝罪した。ユーリンダとの対話の途中に、アトラウスの闖入を許してしまった事についてである。
「もう気にするな。あの場で、あの男相手に、暴力を振るう訳にもいかなかった事くらい解っている。悪いのはあいつなんだ」
「……ありがとうございます」
ザハドは、馬上のまま深々と頭を下げた。先に行くティラールは、彼を見てはいなかったが。
「あいつと、何か話したのか?」
「いえ。ご挨拶を致したのみでごさいます」
このザハドは、ヴェルサリア王国ではなく、南方のサウシカという島国の生まれである。
ヴェルサリアには、公然とした奴隷制度はないのだが、サウシカやその更に南の大陸では、王の支配下にない小部族が多数に分かれて敵対状態にあり、他部族に敗北した者たちは、裕福な王族や貴族、商人などに、奴隷として売られるという事が、日常的に行われている。
ザハドは、ある部族の長の息子だったが、かれが物心つくかつかないかのうちに一族は滅亡し、肉親とも引き離され、酷薄な貿易商に安く買い取られ、働かされていた。
ある時、ヴェルサリア南方の、ヴェイヨン公領ランポートという大きな港町に、船で連れて来られ、ザハドはバロック公とその息子に、彼にとっては運命を揺るがす出会いをした。
長女がヴェイヨン公の長男に嫁ぎ、その婚礼の為にこの地方に赴いていたアロール・バロック公は、伴ってきた息子たちに請われて、船を見る為に港にやって来ていた。
そこで荷下ろしをしていたザハド少年は、たまたま腕を怪我しており、それでも重い荷を運ばされて、つい、荷を取り落としてしまった。
その荷が壊れ物だった為、彼の主人は激怒し、幼い少年である彼を、棒でひどく叩きのめしていた。
その光景が、馬車で通りかかったバロック公一行の目にとまったのだ。
ティラールの兄たちは、奴隷の子どもの運命に同情するなどという発想すらなく、面白がって成り行きを見ていたが、丁度ザハドと同じ年頃だったティラールが父親にせがんだ。
「父上、あの子がかわいそうです。助けてやってください」
アロール・バロックは、特に慈悲深いという評判を得た事はない男だったが、ヴェイヨン家との縁組みに満足して機嫌がよかったので、四男の願いを気まぐれに聞いてやった。
幾ばくかの金銭が支払われ、ザハド少年はバロック公の一行に加えられた。
その後、ティラールは、彼にとって未知の世界である南国の様々な不思議な話をするザハドをとても気に入り、バロック公も、この子供がとても利口で従順な性質を持っている事を知ったので、ティラールの小姓とする事に反対しなかった。
それから十数年、ザハドは常に、ティラールの傍近くを離れた事はなかったのだった。
「若、少々不躾な質問をさせて頂いてよろしいでしょうか?」
「うん? 何でも言うがいい」
ザハドは、浅黒く、引き締まった顔に、極めて真面目な表情を貼り付けたままで言った。
「若は一体、いつまで、あの姫君のところへ通われるおつもりなのですか? 大変失礼ながら、かの姫君は、許婚との仲もすこぶる良く、通いつめたところで、何か変わりのある可能性は極めて低いように思われるのですが」
「お前……随分と言ってくれるなあ……」
あまりにはっきりした言われように、さすがのティラールも、少し答えに詰まった。だが、彼は、こうしたザハドの、言いにくい事も躊躇わず言ってくるところを、忠誠のあかしと考えていたので、怒る事はなかった。
「俺はユーリンダ姫に惚れ込んでいるんだ。あのような女性は他に存在しない。非の打ち所のない美しさと、稀に見る純粋さ。それに、次期聖炎の神子となる身に与えられた知性」
これまで見た限り、ユーリンダは確かに美しく純粋な乙女だが、長所として敢えて挙げる程の知性があるのだろうか、とザハドは思ったが、流石にそれは言わなかった。
「あのような希有な女性が、あんな陰気なつまらぬ男のものになるなど間違っている。その過ちを正す為に、俺は日々、通っているのだよ。まだ、姫は人妻となった訳でもない。とやかく言われる筋合いはないよ」
「いえ。言わせて頂きます」
ザハドの答えを、ティラールは予期していなかった。
「なに……」
「若は、バロック公の令息でいらっしゃるのですよ。お立場をお考えになって下さい。なびかぬ女子のもとに、いつまでも未練がましく通うのは、お家の名に関わる事です」
「ザハド……!!」
温厚なティラールも、流石にこれには怒りを露わにし、馬をとめて従者のほうへ振り向いた。
しかし、ザハドは怯まなかった。
「若。これは、わたしの意見ではありません。お父上が、そうお考えなのです」
「なに……?」
「今朝、公爵様から書簡が届きました。お父上は、若に、身分をわきまえ、バロック公の子息にふさわしい振る舞いをなさる事をお望みです」
「ザハド、おまえ、俺のことを父上に報告したのか!」
「わたしが言わなくとも、世間の噂になっているのですよ。お父上はお怒りです。何の為にここに来たのか、どうか思い出して下さい」
ティラールは暫し黙っていたが、やがてひとつ舌打ちをし、馬を返した。
「……まったく、面白くない。折角、今日は姫と話が出来たというのに、おまえのせいで気分が台無しだ」
「申し訳ございません」
全く済まなさそうには見えない様子で、従者は、謝った。