1-10・不安
招かれざる客が辞した後、室には許婚同士の二人が残された。
ユーリンダは、この時を待っていた。色々な不安な事があった。アトラに聞いて貰いたい。大丈夫だよ、って言って欲しい。アトラならきっとそう言ってくれる。そして、本当にそうなるに決まっている。
彼女は、今朝立ち聞いた、母とファルシスの口論について話した。
「私、怖くて……。ファルがあんな風にお母様に言うなんて。最初は、昨日起こった何かと、ファルが怒っている事が、関係あるかと思ったの。でも、違うわね? そんな、女の人が殺された事件で、ファルがお母様に怒ったりする訳がないもの。いったいどうしたのかしら……? それにしても、怖ろしいわ。ねえ、どうしてそんな怖ろしい罪が行われたのかしら?」
そんな風に言っている間に、彼女は、行方不明になった者のうちに、アトラウスの乳母の娘が含まれていたという事を思い出した。
「そういえば、アトラ、えっと、メリッサ……だったかしら? あなたの乳母やの娘さんは……?」
「彼女も遺体で見つかったよ」
アトラウスは静かに言った。
「まあ……」
ぽろぽろと大粒の涙が、ユーリンダの頬を流れ落ちた。彼女は思わず、愛しい許婚の頬を撫でた。
メリッサをよく知っている訳でもなかったが、結婚を目前に惨殺された娘の苦しみと、近しい者を亡くしたアトラウスの悲しみを思っただけで、胸が張り裂けそうに辛く感じた。
「ひどいわ……アトラ、悲しいわ、あんまり……ひどいわ……」
きらきらと輝く黄金の髪が、ユーリンダの慟哭と共に揺れ、開け放たれた窓から降り注ぐ昼の明るい日差しを浴びてなお一層の光を放った。
涙に濡れた睫毛も潤んだ瞳も、殆ど全ての男性の気持ちを揺るがし、触れてその涙を拭ってみたい気持ちを起こさせる力を持っていた。
だが、アトラウスは、泣きじゃくる彼女に、不用意に触れる事はしなかった。脆い硝子細工のような美しさを損なう事を、極端に恐れるかのように。
ただかれは言った。
「ユーリィ……泣かないで」
かれはそっと、泣いている許婚の肩に触れた。
「君が泣くと、僕はどうしていいかわからない。……メリッサは、可哀想な事だった。でも、僕はきっと犯人を捕らえて、彼女が微笑んでルルアの元へ行けるようにしたい。だから、君は泣かないで、僕を力づけて欲しいんだ」
ユーリンダは、顔を上げた。
緩やかな、くせのある長い黒髪をひとつに束ねた、常に穏やかで理知的な、彼女の想いびとの顔が、間近にあった。
かれの力になりたい、と彼女は思った。顔と顔が思いがけず、ごく近くにあったので、ユーリンダは思わず胸が高鳴り、瞳を閉じようか迷った。
だが、瞳を閉じればいかにもその事を待っているかのように見えるし、それはもしかして、メリッサの死に胸を痛めている彼の顰蹙を買うかも知れない。
そんな風に戸惑っているユーリンダの顔を、近くからじっとアトラウスは見つめていたが、やがていつものように柔らかく微笑み、おでこにごくごく軽くキスをした。
「すまない。君は本当に、何も心配しないで。ただ君が笑っていてくれるだけで、僕の力になるんだからね」
アトラウスはそんな事を言い、帰って行った。
ファルシスと母の口論について、彼は何の意見も言わなかったし、その事について安心させてくれるような事が何もなかったのに、彼女が気づいたのは、彼がいなくなって暫く経ってからの事であった。




