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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第三部・七公裁判篇
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3-20印なき者

「『印なき者』だって? いったい何の事なんだ?」

 初めて聞く言葉にティラールは戸惑った。ヴィヴィは白い髪をかきあげて、そんなティラールを見て笑む。その唇には紅をさしたかのような赤さがあった。ヴィヴィは椀を置いてティラールに顔を寄せる。長くて細い剥き出しの手足が触れそうで、ティラールは少し身体をずらそうとしたが、狭い寝台の上であるし、動くと傷が痛むので、避けるのもままならなかった。

「あたしの髪と瞳……こんな者には会ったことないだろう?」

「あ、ああ。いったいきみはどこの出身なんだ?」

「あたしはここ、アルマヴィラで生まれたんだ。母さんも生粋のアルマヴィラ人だったし、父親もそうだったらしい。つまり、親は当たり前の黒髪と黒い目をしていたんだ」

「だったら、なぜ……?」

 不思議な話だし、立ち入った事を聞いてしまっているのかも知れない。しかし、ヴィヴィは話したそうであるし、ティラールの方も好奇心が勝って問い返してしまう。

「ごく稀にあたしみたいなのが生まれるんだって。守護色を持たない者。生まれつき神さまから見放された者。それが、『印なき者』って呼ばれる理由さ。黒髪黒目のアルマヴィラの民は、地の神ノノスの守護を受けている。あんたのような茶褐色の髪と緑の目を持っていれば、雲神ドーンと緑神エレス。でも、あたしを守ってくれる神さまはいない」

「ルルアがいるではないか。ルルアは全ての民を分け隔てなく守護される」

 ヴィヴィの話に驚きながらも、自虐的な物言いを諭すようにティラールは言う。

 彼女の言う通り、このバルトリアの民は、元々あった八公国の……八種の人種の末裔である。混血しても、両親のどちらかの身体的特徴を受け継ぐ事が多い。そして、その髪と瞳の色は、それぞれルルアより位の低い神々の中のどの神に守護を受けているかを表しているのだ。それを持たない者がいるとはティラールは聞いた事がなかった。

「ルルアも印なき者は守護されないんだって、皆が言ってるよ。実際、何かに守られているなんて感じた事もないし。あたしは母さんが死んで以来、自分の身は自分で守ってきた」

「幼い子どもが一人で生きてこられた事こそが、ルルアの恩寵を受けている証ではないのか」

 ティラールの言葉に、何故かヴィヴィはくすっと笑う。

「だとしたら、ルルアってのも随分あたしにはひどい恩寵を与えられたものだねぇ」

「どういう意味なんだ?」

 その疑問に答えずにヴィヴィが突然とった行動は、ティラールを仰天させるものだった。ヴィヴィはいきなり、着ていた薄物を彼の目の前で脱ぎ捨てたのだ。はらりと安物のチュニックが床に落ちる。

「なっ……なっ……なにをする! やめないか!」

 子どもだと思っていたが、その痩せた裸身にはたしかに色香があった。まだ膨らむ途中の乳房も、そして薄く白い茂みにも……既に男を知っていると匂わせるものがある。

「ねぇ、あたしを買ってくれない? あ、あんたは動かなくていいよ、傷だらけだしね。あたしがあんたの好きな事をしてあげるから、助け賃を上乗せしてよ」

「何を言ってるんだ! きみはまだ子どもじゃないか!」

「子どもじゃないよ。子どもが、こんなボロ家にせよ、家なんか持てる訳ないだろ? あたしに同情するんなら、あたしを買ってくれ。言葉なんか何の足しにもならないから」

「どういう事なんだ、この家はいったい……?」

「病気になって飢え死にしかかってる所を拾われたのさ。九つの時だったかな。介抱して、温かい飯を食わせてもらって……優しいおじさんだな、って思ったよ。でも、あたしが元気になったら途端に豹変した。襲いかかってきてね。そいつがこの家の持ち主だったのさ。色んな事をされて、『印なき者の子など、どうしようと拾った俺の勝手だ』なんて言ってたっけ」

「なんというひどい男なんだ! そいつはどこにいるんだ?!」

「一年前に死んじまったよ。あたしはあいつの奴隷みたいなもんだった。でも、寝床と飯がもらえるんだから、と思って我慢してたんだ。だからあいつが死んじまって、最初は途方に暮れたよ。でも、やがて気付いたのさ、あいつがあたしに仕込んだやり方を使えば金になるってね。それで、この家を頂いて、近所の男どもと寝てやっているのさ。印なき者でもちゃんと使い道があるな、なんて言われてさ、格安だからね」

「き、きみは娼婦だったのか! 子どものくせに!」

「子どもじゃないよ。ちゃんと満足させてやれる」

 ヴィヴィはそう言って素裸のままティラールに触れようとする。

「やめろ! わたしに触るな!」

 思わずティラールは怒鳴りつけていた。ヴィヴィは一瞬不思議そうな表情になったが、すぐに悟ったように顔を伏せた。

「……そっか、そうだよね。お貴族さまがこんな貧しい『印なき者』なんか……穢らわしいよね。不自由なんかしてないだろうし」

「そ、そういうつもりではない。ただ、子どもを抱く趣味はない。今は、心に決めた女性がいるのだし。別にきみが穢らわしいなどと思わない。『印なき者』の事だって今知ったばかりだし、どう考えていいかわからない。だが謝礼については、命の恩人なのだから、そんな事などしなくともきみの欲しいだけ払うつもりなんだ、最初から!」

「本当かい?」

 途端にヴィヴィは顔を上げてにやりと笑った。最初からこういう計算だったのだ。貴族が自分なんかを欲しがる事などないというくらいは想像がついていた。だから、この、人の良さそうな男の同情をひいて、多めに金をとろうと思ったのである。だが、身の上話は全て真実であるし、もしもティラールがその気になるようなら、それでも構わない、と思っていたのも事実である。

「本当だ。そして、今の話は全て本当なのか?」

「本当さ」

 そう言うと、ヴィヴィはティラールに近づいて裸の背中を見せた。古いものだが、そこには鞭打たれた傷跡が幾筋も残っていた。

「あいつはこうやってあたしを打つのが好きだった。……どう、これでもルルアの恩寵とやらがあたしにもあると思う?」

「……!!」

 ティラールは驚きに打たれてヴィヴィの細い身体につけられた傷跡を見つめた。子どもの頃、ザハドが奴隷として主人に叩かれているのは見た。だが、この少女の鞭の跡は、それとはまた違うもののようだ。この清らかな聖都でも、最下層の暮らしの中ではそのような事も起こり得るのか……敬愛するルーン公が知れば、どのように心痛め、そしてどうするだろうか。ティラールは痛む身体を起こし、この、不運と闘いながら一人で生きてきた少女に向かい合った。

「きみはこんな暮らしを続けてはいけない。わたしがきみの保護者になろう」

「……は?」

 唐突な申し出の意味がヴィヴィにはまったく解らない。

「保護者……? つまり、あんたがあいつみたいにあたしを飼おうってこと?」

「とんでもない、そんな男と一緒にしないでくれ。きみが一人前の女性として成長し、どこかへ嫁いでちゃんとした暮らしが出来るようになるまで、わたしが後見人になってきみを世話しよう、という事だ。それが、命を救われた礼だ」

 ヴィヴィは呆れたようにティラールの顔を見つめた。からかっているようには見えない。だが、こんな底辺で娼婦としてかろうじて生きているような自分、印なき者と蔑まれている自分に、ちゃんとした暮らしを与えようとは、とても信じがたい提案だった。

(貴族なんて、ほんとに何を考えてるのか解りやしない。傷を手当てしてやったくらいで何をばかな事を。でも、有り余る程金がある貴族なら、あたし一人を養う事くらい、どうって事もないのかも知れない。……うぅん、そんな夢みたいな事を本気にしちゃダメだ。こいつは、あたしが珍しいから、捕まえて、貴族の仲間に見せびらかすつもりかも知れない)

 思いは千々に乱れる。垂らされた糸は、希望の光なのか、それとも更なる絶望への道なのか。


 実際は、感情のままに言ってはみたものの、バロック家を出てしまったティラールには、ヴィヴィを養う経済力などありはしない。今はまだ、手持ちの資金でこれまで通りの生活が出来てはいるが、やがてはその金も底をつく。そうなれば、彼自身がどうやって食べていくのかすら定かでないのだ。だが、宰相の息子として何不自由なく生きてきたティラールには、誰も彼にかしずく事もなく、日々の食事を得る為に働かなければならなくなるなど、どうしても実感できない。だから、ただ、自分の矜恃の為に、この命の恩人である少女を、惨めな境遇から救う事が自分の義務だという気持ちが先走った。あとの事など考えてはいない。


 ヴィヴィは、馬鹿じゃないの、と毒づこうかと思った。貴族の道楽で見世物にされるくらいなら、金を出来る限りふんだくって、今まで通りに自分の力で生きていく方がいい。蔑まれ、安い金で誰にでも抱かれる暮らしが楽しい筈もなかったが、それでもヴィヴィは、たったひとつだけの自分のもの……自分の身体を使って生きている事に、ある種の誇りを感じてもいたのだ。あたしは強い、どんな底辺にあっても自分の力で生きていける、という誇り。貴族に生まれついて、何の苦労もせずにお気楽に暮らしてきた奴なんかにあたしは負けない。

 だが、ティラールの真摯な緑の目を見ていると、それが強がりだと自覚する自分もいる事に気づく。この男は、本当にまともな暮らしを与えてくれるのだろうか? 日々のパンを得る為にどんな嫌な奴にでも足を開かなくてもいいような暮らしを?

「あたし……あたしみたいな、印なき者が、まともな暮らしができる訳ないじゃない。嫁ぐ、ってなによ。誰かに飼われるのだけは、もうごめんだよ」

「印なんか関係ない。きみはわたしを助けてくれた。悪ぶっていたって、本当は優しい心を持っているのだとわたしにはわかる。わたしを信じてくれ」

 ティラールは真剣に言った。その誠意に、ヴィヴィが少し心を傾けかけた時だった。家の扉が激しく叩かれた。

「ヴィヴィ! 出てこい! 男を匿っているだろう! 都警護団の方達がそいつを探されているんだ! デルスを殺した男だ! おまえが連れて帰った事はもう判っているんだぞ!」

 複数の男の声。ヴィヴィもティラールも、青ざめて顔を見合わせた。


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