3-19・下町の少女
アルマヴィラ都警護団の本営では、この朝、ちょっとした騒ぎが起こっていた。下町で男の変死体が発見されたというのだ。ただ単に下町で男が殺されたというだけの話ならば、別段珍しくはない。治安の良いアルマヴィラ都といえども、下町という場所柄、強盗や喧嘩の末の殺し合いは、しょっちゅう、という訳ではないものの、大騒ぎする程稀な事でもない。団員が調べに赴き、下手人が捕まれば牢獄へ送られる。町民同士のいざこざに騎士団の手を煩わせる事はなく、これが本来の警護団の仕事の大きな割合を占める役目である。
では、なぜ騒ぎになったのか。男の死に様が尋常ではなかったからである。男の死体が本営の安置所に運ばれてくると、屈強な団員達が初めて見る異様なものにざわめき、中には嘔吐する者さえあった。
「なんだ、この騒ぎは?」
本営にやって来たアトラウスは警護団長のダリウスに尋ねた。
「それが……見た事もないような死に様の死体が見つかって、これも何かの呪いではないかと、一騒動起こりそうなのです。町民たちが集まって騒ぎ立てているのを、今何人か出て行って鎮めようとしています」
ダリウスの面にも、困惑と嫌悪感が表れている。アトラウスは興味を惹かれた風で、
「どんな様子の死体なのか? 男か女か? 町民なのか?」
と問う。
「ご覧になられますか? ご気分が悪くなられるやも知れませんが」
「女子どもじゃあるまいし、死体を見たくらいでどうかなるものか。見せてもらおう。その上で、騒ぎへの対策を考えよう」
そう言ってから、アトラウスはふと立ち止まって、
「見つかった死体は一体だけなのか?」
「は? はい」
怪訝そうなダリウスに、そうか、とだけ呟いてアトラウスはさっさと裏の遺体安置所へ向かう。人混みをかき分けて安置所の中に入り、筵の上に横たえられた死体を見下ろした。
「……」
死体は惨たらしいものだった。身体中が醜い腫れ物に覆われて紫色に膨れあがり、しかも苦しみもがいて掻きむしったあとから血と膿が吹き出してひどい悪臭を放っている。だらしなく開いた口から血塗れの舌が垂れ下がり、充血した眼球は瞼裂から飛び出しそうになって、涙のように血が溢れ、固まって顔中にこびりついていた。
「ひどいな」
多くの者が正視できないその死体をアトラウスは冷静に眺めて、一言そう言っただけであった。
「死人の身元は?」
「デルスという男で、下町の一介ではちょっとした顔だったそうで。昨夜は酒場で乱闘騒ぎがあったとか、そしてその喧嘩相手の男というのが行方知れずで、現在捜索中です」
ダリウスが説明している間にアトラウスは、すっかり人相は変わり果ててはいるものの、昨夜ティラールを攻撃させるのに使ったあの男であるという事を確認した。彼には、それで充分である。臭いがうつるのを嫌うように無意識に衣服を払うような仕草を見せながらアトラウスはさっさとその場を後にした。その目には何の感情も浮かんでいない。
「検屍はどうなったんだ。あれはなんなんだ? まさか疫病の類ではないだろうな。だとしたら大問題だが、何故隔離しておかない?」
「昨夜遅くに帰宅した時までは何も変わりはなかったようで、上機嫌で女房と床に入ったそうで、朝女房が目を覚ますと、ああいう状態だったそうです。病にしては急すぎると……呪いか、或いは毒を盛られたのでは、と検屍の者は言っております。それ故に、昨夜のその喧嘩相手、という男が怪しい、という事で、町民たちは殺気だっています」
「その、喧嘩相手、というのはどういう者なんだ? 顔見知りの町民なのか?」
何食わぬ顔でアトラウスはダリウスに質問する。ダリウスは生真面目に答える。
「これまでに挙がった証言では、その男は貴族のようであったと……そして、おかしな話ですが、殿の……ルーン公の間諜であったと、複数の者が言っています」
「伯父上の? まさか?」
アトラウスの眉が跳ね上がる。
「囚われの身の伯父上が何だって下町なんかに間諜を送ったりすると言うんだ? そいつらにはまともな脳がないのか! 身の程知らずにも限度がある!」
「自分もそう思いますが……思い込みというのはどうしようもないもので。特に、ひとたび疑心暗鬼に陥った集団というものは……」
「奴らはなんて言ってるんだ?!」
「……殿が、捕まった腹いせに、アルマヴィラに呪術をかけて民を道連れにしようとしているんだと……勿論、皆ではありません、一部の者が言い出しているに過ぎません」
「ばかな!」
アトラウスは大声を出した。隣の部屋にいる団員たちも思わず聞き耳を立てている。
「誰よりもアルマヴィラの民を大事になさっていた伯父上が、自分の身よりも大事になさっていた伯父上が、民を道連れになどと!!」
「アトラウスさま、お声が大きい。とにかく、これ以上流言が広がると、また不穏な状態に戻ってしまいます。裁判の結果が出るまでは……と、ようやくだいぶ落ち着いてきたところですから、この話は全力で抑え込まねばいけません。その為にも、件の貴族風の男とやらの身柄を早く確保せねばならんのです」
「その男についての手がかりはないのか。その男こそ、この犯罪に関わって伯父上を陥れようとしている者に違いない!」
「男は喧嘩沙汰で大怪我をして、路地に置き去りにされたそうです。しかし朝方にはそこにはいなかったと」
「それならそう遠くへは行っていないだろう。探せ!」
苛立った様子を隠そうともせずにアトラウスはダリウスに命じた。
うっすらと目を開けたティラールがまず感じたのは、カーテン代わりのぼろ布の隙間から差し込む朝日と、ふわりと漂う料理の匂いだった。
「……くっ」
起き上がろうと僅かに身体を動かしただけで、激痛が走った。なぜここにいるのか、ここはどこなのか、ティラールにはまるで分からない。昨夜の事をゆっくりと頭の中で反芻する。大勢に囲まれて暴力を受けて……その後の記憶はない。傷には手当てがなされている。あの男が気を静めて、家に連れ帰ってくれたのだろうか? 当の男は無惨な死体に成り果てているとは露も知らず、ティラールはそんな事を思いながら首を動かして部屋を見回した。見た事もないような、狭くて粗末な部屋だった。ティラールが占領している、ひどく寝心地の悪い寝台と、斜めに傾いたテーブルと椅子、それ以外に家具らしいものすらない。そして、テーブルの向こうの竈の前に人影があった。その人物は、ティラールが身じろぎしたのに気づき、振り向いた。
「気がついたのかい、あんた」
少女の声だった。ティラールはまだぼんやりとした意識のまま、近づいてきた少女を見つめた。
「きみは……」
見覚えのない少女だった。それは断言できた。何故なら、少女は、一度でもすれ違ったなら決して忘れ得ぬような容姿をしていたからである。雪のように白い髪と燃え盛る火のような深紅の瞳。歳の頃は14~5といったところか。顔貌は美しいが、その表情は野生の獣のように険しかった。
「あたしがあんたを助けたんだ。でなきゃあんた、今頃あのまま凍死してたよ」
「あ、ああ……ありがとう」
ティラールは状況が飲み込めず、取りあえず礼を言った後はぽかんとして少女を見つめていた。このような髪と瞳の色の者がいるとは見た事も聞いた事もなかったからだ。どこの出身なのか、と問おうと口を開きかけた時、少女の手が素早く伸びて、ティラールの襟元をつかんだ。
「痛っ……」
「ありがとう、じゃねーよ、この阿呆! 何の為に助けたと思ってんだよ? 金だよ、金! あんた、貴族なんだろう? 財布は盗られちまってるみたいだけど、ちゃんと、助けてやった分、金払えるんだろうな?」
「か……金。金なら、宿へ戻ればある」
咽せながらもティラールがなんとかそう答えると、少女は途端に満足したような笑顔になり、手を離した。
「腹減ったろ? 貴族さまの口には合わねーだろうけど、シチューを食わせてやるよ」
そう言うと、竈の方へ戻っていく。ティラールは唖然としてその後ろ姿を眺めた。こんな乱暴な口をきく娘に会ったのは初めてだった。笑うと可愛らしいのに、何故あんなにきつい目をしていたのだろう?
「きみは……なんて名前なんだ?」
聞きたい事は色々あったが、差し当たって一番無難かつ必要な事を聞いてみた。
「あたしはヴィヴィ。あんたは?」
「ティラールだ」
「そう。その髪と目は、イルランドの出身かい?」
ティラールの名とイルランドという地名を結びつけても、少女には何の驚きもないようだ。本当にティラールの素性など知りもせずに、金目当てで助けた事に間違いはなさそうだった。ティラールが頷くと、ふぅん、とどうでもよさそうに相槌を打って、少女は熱いシチューの入った椀を持って枕元に座った。温かな料理の匂いがティラールの空の胃を刺激する。
「きみはいくつなんだ? ご両親は……」
言いかけたティラールの口に、シチューを掬ったスプーンが突っ込まれた。
「あっつっ……」
「あ、すまねぇ」
ヴィヴィと名乗った少女は微かに笑う。ティラールはシチューを飲み下したが、思わず顔をしかめた。熱かったからだけではない。まずかったからだ。匂いは良かったものの、味付けは殆どされておらず、野菜の皮と屑しか口に入って来なかった。
「これしかないんだよ。我慢して食いな。宿に帰りゃ、うまいもんをたらふく食えるんだろ」
「い、いや、別にまずい訳では……」
「ははっ、無理するなよ」
ヴィヴィはにやりと笑う。
「あんた、面白いじゃない。貴族さまがこんなクズみたいなヤツに気ぃ遣うなんて」
「クズだなどと。平民をクズだと思った事などない。しかもきみは私の命の恩人だ」
「金になると思ったから拾っただけだよ」
肩をすくめると、ヴィヴィはまたシチューを掬う。それからティラールが質素な朝食を採り終えるまでの短い時間、二人は殆ど無言だった。味はともかく、ティラールは身体が随分と温まるのを感じた。
「ありがとう。元気が出たよ。宿へ帰ったら、今度は私がご馳走しよう」
ティラールの言葉にヴィヴィは苦笑して首を振った。
「あんたの泊まるような宿が、あたしなんかを入れる訳がないよ」
「どうしてだ? 服装の事なら、何か調達して……」
そう言いながらティラールはヴィヴィの全身を眺めた。痩せた小さな身体を包んでいるのは、この季節には不似合いな粗末な薄物だ。それはこの年頃の少女が着るものにしてはどうにも大人びている、とティラールは違和感を覚える。
「きみはいくつなんだ?」
「12」
見かけより幼い事に軽く驚き、先程から気になっていた質問を口にする。
「家族は?」
「父親は知らない。母さんはあたしが6つの時に死んだよ」
「じゃあ誰がきみを養育しているんだ?」
「ヨーイク、ってなにさ? あたしは6つから一人で生きてきたんだ。母さんが死んで、住んでた家も追い出された。荷運びをして小銭を稼いだり、物乞いしたり……それもうまくいかない時は、酒場のゴミを漁って食ったり」
「なんだって……」
ティラールは絶句した。平民には厳しい暮らしをする者もあるとは知識としては頭にあったものの、こうして対面して話している人間がそんな育ち方をしたなどとは、あまりに驚きが過ぎて何を言ってよいやらわからない。
「どうして……きみを庇護する者はいなかったんだ? アルマヴィラでは、孤児に対する救済施設もあると聞いた覚えもあるが……」
「あるね。でも、あたしには資格がないのさ」
「資格?」
「ああ。一度行ってみたけど、門前払いされた。そもそも、お貴族さまは知らないんだろうねぇ。『印なき者』なんてさ」