3-16・黄金色のラクリマ
曇り無く磨かれた愛用の銀の鎖で暗殺者を締め上げた女神官は、すらりとした細身の身体を、金糸で細やかな刺繍を施されたルルアの法衣に包み、理知的な美しさを備えた貌に緊張感を湛えながらそこに立っていた。その髪と瞳は、黄金色。だが、彼女はルーンの名もヴィーンの名も持っていない。千人以上が起居しているルルア大神殿でも、彼女のことを知らぬ者はいなかった。
「貴様……貴様ぁっ!! ラクリマ・ブラン! なぜここに! 外さぬか、これを!」
身体を拘束している銀の鎖を外そうともがき、すぐに魔力の籠もったものと気づいた神官は、魔道によってそれを壊そうと試みたが失敗に終わった。怒りに赤く染まった顔で神官は女神官を怒鳴りつけたが、彼女はただ冷たい視線を僅かに向けただけで縛めを緩める事はなく、ゆっくりと身体を起こしたアルフォンスに駆けよって支えた。
「大丈夫だ、ラクリマ。本当に助かった。いくら礼を言っても言い足りないくらいだ」
「いいえ、遅くなってしまって危うい目にお遭いになったのはわたくしの力不足のせいですわ。礼など仰る必要はございません。遅かったじゃないかと叱って頂きたいくらいで」
「叱るなんてとんでもない。きみは命の恩人だ」
アルフォンスは微笑した。その、今は落ち着きを取り戻した黄金色の瞳に見つめられると、ラクリマの頬にごく微かな赤みが差した。
「わたくしはカレリンダさまとアルフォンスさまの忠実なる道具でございます。お助けするのはわたくしの当然の使命でございます」
「道具だなどと。カレリンダはきみを実の妹のように思っている。無論わたしもだ」
「勿体ないお言葉でございます」
ラクリマは深く頭を下げた。神官帽の端から黄金色の髪が数本こぼれ落ちた。
ラクリマ・ブランは赤児の頃、大神殿の裏門の傍に捨てられていた。今から26年前の事である。黄金色の髪と瞳を持つ女児……表沙汰にはされなかったものの、神殿の上層部では大騒ぎになった。即ち、捨て子が『聖女の血筋』である事が明白なのだから。ルーン家にもヴィーン家にも、該当するような子どもはいなかった。それは、赤児がルーン家かヴィーン家の誰かの落胤である事を意味する。遠い分家の薄い血の者であれば、一族以外の人間との間に子をなせば、その子は黄金色を持たずに生まれる事が殆どである。つまり赤児は、ルーン家かヴィーン家の本家かそれに近い血筋の者の落とし子である事が一目瞭然だったのだ。当時の大神官は秘かに事情を調べさせたが、結局誰の子であるのか判明しなかった。そこで赤児は大神殿で養育される事になり、ルルア大神殿第二塔の塔長ミネア・ブランの手に委ねられた。ミネアは厳しく、そして多忙な人間であったので、ラクリマと名付けられた赤児は、学問こそ好きなだけ学ぶ事を許されたが、家庭的な温かさを知る事なく育っていった。その特異な背景から彼女を好意的にみる者は殆どおらず、かと言って塔長の養い子に手出しをする事も出来ぬ為、彼女は世話係の義務的な接し方と教師の困惑した顔、そして育て親の冷たく値踏みするような視線以外、ろくに身近に感じる機会すらなかった。……三歳の時に、大神殿の奥まった中庭で、噴水の傍に腰掛けて書物を広げているカレリンダに出会うまでは。自分と同じ色の髪と瞳のお姉さん。ラクリマは笑う事を知らない子どもだったので、愛想の欠片も浮かべずに、ただ純粋な好奇心のみで近づいて行った。
一方、当時十三歳だったカレリンダは、聖炎の神子である母と共に、殆ど表に出る事もなく大神殿で勉学と神子の修行に明け暮れる生活を送っていた。次期聖炎の神子であったカレリンダにとって清浄な大神殿はルルアの気配を間近に感じられる居心地の良い場所で、その静かな落ち着いた暮らしは彼女にとって何の苦もないものであった。ただ、高貴な身分と次期聖炎の神子という立場が邪魔をして、子どもから乙女へと成長するこの多感な時期に、気安く話を出来る相手に恵まれていない事だけが物足りなさを感じさせていた。
小さな闖入者は彼女をひどく驚かせた。皆が憚ってラクリマの存在も事情も説明していなかったので、黄金色の髪にきらきらと陽の光を絡ませながら現れた童女はカレリンダにとってはそこにいる筈もない存在で、一瞬、ルルアの末の娘、マリーシアがひとの形をとって現れたのかとさえ思った。
「……おねえさんは、だれ?」
幼女の細い声でカレリンダは夢見心地から覚めて、相手がただの人の子……自分と同じ『聖女の血筋』の子どもなのだと気づく。
「私はカレリンダ・ヴィーン。あなたはだぁれ?」
人に懐かない子犬のような表情の少女に、宥めるような優しい声をかけながらカレリンダは問うた。
「……ラクリマ」
「ラクリマ……ルーン? それともヴィーン?」
「どっちでもない……ラクリマ・ブラン」
それが、カレリンダとラクリマの出会いで、互いに同じ血を引きながらも、かたや尊い次期聖炎の神子、かたや捨て子という間柄ながら、ともにある種の孤独を分かち合える相手として、二人は急速に近づいていった。ラクリマがもう少し大きければ、或いは、恵まれたカレリンダの身の上に嫉妬を覚えもしたかも知れない。しかしそんな事を感じるにはラクリマは幼すぎた。世界でたった一人、自分を受け止めて愛してくれる姉のような存在……ただそう感じて慕った。次第にラクリマは笑い方を覚え、カレリンダもこの不憫な子どもが可愛くて仕方がなくなった。
二人の交流を、大神官や塔長たちは快く思わなかったものの、カレリンダの母である聖炎の神子ウィランダがそれを認めたので、カレリンダが大神殿を出て結婚の前に一旦実家に戻るまでの約三年間、二人は実の姉妹のように仲良く過ごした。
カレリンダと離れる時に六歳だったラクリマは神官見習いの身分で、自由に外出する事はままならなかった。神殿で時折顔を合わせる機会はあったものの、二人が再びゆっくりと人目を憚らずに話をする時を得たのはそれから実に三年も後の事。カレリンダがふたごを無事に出産したのと、ラクリマが九歳という異例中の異例の若さで正神官に任命されたのがほぼ同時期で、祝いの為にラクリマはルーン公私邸を訪れた。
「ルーン公妃殿下、ご出産おめでとうございます」
九歳にして、実際より幾つも上の少女と同じくらいに大人びて成長したラクリマは、もうカレリンダと自分の間に横たわる取り除きようもない身分の溝を嫌という程理解していた。直に祝いを述べる事を許されるだけでも有り難いと思うようにと養い親に散々言い聞かされ、言われなくても解っている、と静かに思う少女である。だが、カレリンダはそうは思わない。
「まあラクリマ! 大きくなって! やめて頂戴、殿下だなんて!」
言うなり、駆け寄ってラクリマを抱きしめたのである。
「カレリンダさま……」
精一杯背伸びをして、誰一人理解者のない大神殿で大人になろうとしていた少女の張り詰めた糸が切れた瞬間だった。孤独な黄金色の瞳から大粒の涙がこぼれた。自分との日々など、ルーン公妃、聖炎の神子となったカレリンダはとっくに忘れ去っていても仕方がないことと思い詰めて来たのであったから。カレリンダは、出会った頃に似た強張った少女の表情に、自分が離れていた間にどれだけこの娘が寂しい思いをしたかと悟り、後から後から涙を流し、いつまでもその身体を離さなかった。この時、ラクリマは心の底から、命果てるまでのカレリンダへの変わりなき忠誠を自らに課した。そして……。
「その子がラクリマかい?」
二人が落ち着いた頃を見計らったように室に入ってきたアルフォンス。ラクリマは慌てて膝をつき、最上級の礼をとった。式典の折などに遠くから眺める事はあっても、間近でまみえるのはこれが初めての若き公爵……だがアルフォンスは温かい笑顔を浮かべて、緊張に身を固めた少女の手をとった。
「そんなに堅苦しくしなくていいよ。妹のように可愛い、愛しい子が神殿にいるのだと、カレリンダはいつも言っていた。見れば同じ血を分けているのだし、妻の妹ならわたしにとっても妹だ。どうか楽にして、いつでもカレリンダに会いにおいで」
あれから17年が経ったのだ。ラクリマは一瞬のうちにそんな思いを胸のうちによぎらせた。アルフォンスもカレリンダも、常に彼女を肉親のように扱ってくれた。いまでは第二塔を離れ、中央塔の第七席に昇格したラクリマだが、ルーン公夫妻へは、神殿に対するよりも深い忠誠心を抱き続けている。しかし、神殿から課せられた業務に忙しく、アルフォンスが囚われた日も、遠い南の地へ赴いており、早急な帰郷が叶わなかった。ようやく大神殿に戻ると、窶れ果てた幽閉の身のカレリンダが、どうかその優れた魔道の力を以て夫を暗殺の魔の手から守って欲しいと頼んだのである。神殿の許可なく神官が魔道の力を行使するのは罪……それと判っていてもなお、自分しかいないと縋ってくれるカレリンダの心をむしろ嬉しく思い、ラクリマは大急ぎで駆け付けたのである。敵の正体も分からぬまま。
「ラクリマ、こんな事をしてきみの身が危うくならないか」
我が身を置いても臣下の事を心配するアルフォンスの気性は既に理解し尽くしている。ラクリマは余裕のある笑みを見せて言った。
「大丈夫でございます。『ルーンの闇』は表立って事を起こすことはありません。今のわたくしは、カレリンダさまのお頼みを受けてオイランのウィランダさまに付き添いに出ている事になっております。けれども本当はカレリンダさまは、こうして卑怯な魔道の罠が張られる事をとてもご心配なさってわたくしを遣わされたのです。この者の処置はわたくしにお任せ下さい。二度と殿下に害なさぬように致しますし、わたくしが関わった事も知れることはありません。ですから、あとの事はどうかご心配なさらないで下さい」
「この者を……きみは殺すのか?」
「……どうか、わたくしにお任せ下さい」
ラクリマは目を伏せる。アルフォンスはすぐに言葉が浮かばなかった。だが、その時、罵り声が二人にぶつけられた。
「ラクリマ・ブラン! 私をどうしようと、貴様もルーン公も、決して『ルルアの子ら』から逃れられぬぞ!」
神官は縛られたまま二人の会話を聞き、喚いたが、ラクリマはそれを無視した。だが、アルフォンスはラクリマの腕をとって言った。
「ラクリマ、きみのこの手をわたしの為に汚してはいけない。きみの為にも……本当はきみはそんな事を望んではいない」
そしてアルフォンスは、憎悪に顔を歪めている神官に歩み寄る。
「彼女が関わった事を決してあるじに報告しないと誓うなら命を助けよう」
「アルフォンスさま! その男はたった今、誓いを破ってお命を奪おうとしましたのよ! お忘れですか!」
思わず耳を疑い叫んだラクリマを制して、アルフォンスは努めて冷静な様子で神官に向き直った。
「先程のは、わたしへの誓いだった。それはこの者にとり、使命よりも遙かに価値のないものなのだ。だが、ルルアへの誓いならば破る事はあるまい。そうだろう? わたしの命を狙うなとは誓わせぬ。それはこの者にとって恥辱に塗れた死に等しい事だと判ったからだ。だが、ラクリマがここにいる事を喋らず、彼女に手出しをしないくらいは、大した裏切りとも言えまい。生きて再び任務を果たす機会を与えるのだから、これをしかとルルアに誓うくらいは出来るだろう」
「アルフォンスさま。わたくしの為ですか。お止め下さい。そんな事、わたくしは望みません。この者は生かせば必ず再び御身に災厄をもたらします。わたくしは、わたくし自身に災いが及ぶ事より遙かにその方が恐ろしいのです」
ラクリマはゆとりを失い、険しい顔でアルフォンスを諫めたが、その時神官は低い声で、
「判りました、ルルアに誓います。その女ひとりの事より、使命の方が私には重要な事ですから。その女が攻撃をしかけてこない限りは手出しも報告もしません」
と言い、続けてルルアへの誓言を唱えた。
「だそうだ。放しておやり、ラクリマ」
「アルフォンスさま!」
ラクリマは悲痛な声を上げたが、アルフォンスの揺るぎない視線を受けるとそれ以上何も言えなくなった。