3-14・ルーンの闇
「納得できる訳もない……わたしはルーン公として決して背反する事はない」
毒の入った小瓶を見つめながら、無駄とは知りつつもアルフォンスははっきりと言った。神官の表情は動かない。
「バロック家の子息に書状を託された事で殿下のお立場は決定的なものになってしまいました。何故あのような暴挙を……?」
「暴挙……か。そう言われても仕方のない事かも知れんな。しかし、わたしは己の信じる道に従って行動しただけだ。現にどうだ、かれはちゃんとファルシスに書状を届けてくれたのだろう?」
『ルーンの闇』が実在し、自分の一挙手一投足を監視していたのならば、当然書状を託したティラールの行方も追っていただろう。そう思いアルフォンスが問うと神官は静かに頷いた。
「はい。もしも少しでもおかしな素振りがあれば直ちに書状を奪うようにと、あちらを張っていた者に指令があったと聞いていますが、ともかく書状は無事にファルシスさまに届けられたようです。しかし、結果ではなく、秘伝を危険に晒したという事が問題視されているのです。秘伝はルーン公殿下、大神官さま、聖炎の神子さまのお三方以外に決して渡ってはならぬという、ルーン公国建国以来の掟を、殿下は私情で軽んじられた」
「軽んじてなどいない。ましてや私情ではない。ファルシスはわたしのあとを継ぐ者。何も伝えるいとまもなく別れてしまったので、わたしに万一の事あらば秘伝を受け継げるようにと計らっただけだ」
「突然不慮の死を遂げられたルーン公はこれまでの歴史にもありましたが、それでも秘伝が途切れた事はない。危険を犯す必要はなかったのです」
「わたしが刑死すればカレリンダだってどうなるかわからない! 我が妻、聖炎の神子。ああそうだ、確かにルーン公と聖炎の神子は責任を共有するめおとになど、なるべきでなかったのかも知れない! この愚かなわたしと結婚などしなければ彼女の身は安泰で……!」
常になく感情的になってアルフォンスは言っても仕様のない事を口にした。だが神官は能面のように表情を動かさず、そうでございますね、と同調しただけだった。
「いま、図らずも殿下は御自身で口になさいました。殿下が亡くなっても聖炎の神子さまが安泰であれば秘伝を伝える責任は全うされると。そこがまた、問題なのでございます」
人知れず使命を果たすまでに時間の余裕はまだあると踏んだのか、神官はまるで生徒を諭す教師のような口ぶりで淡々と指摘する。
「どういう意味だ?」
アルフォンスは訝しげに神官を睨み付ける。『ルーンの闇』より遣わされし者は、ルーン公を葬る者。そう伝え聞かされて来ただけに、さしもの温厚なかれも、この不気味な来訪者に穏やかな目を向ける気にはなれない。だが神官は目を逸らす事もなくその視線を真っ直ぐに受け止めた。その黒い瞳はまさしく深き闇のごとく、何かを思って揺らぐ事はないように見えた。
「聖女アルマさまとエルマさまの時代より三百年の間、ルーン公爵、聖炎の神子、ルルア大神官の三者の間は均衡を保ってきました。三者のうちの二者が寄ったり、或いは争ったりしてはならぬ。この極めて重要な掟が、時が流れるうち、お三方の間で次第に形骸化してきてしまった。猊下ですら、真の意味をご存じないのです」
「猊下ですら……だと?」
秘伝は魔道的なものである為、大神官は自分よりずっと全容を把握していると思い込んでいたアルフォンスは神官の言葉に驚きを隠せなかった。本当はこんな問答をしているよりも、何とかこの場を逃れる術を考えるべきなのだが……術は、ない。『ルーンの闇』が遣わしたこの神官はかなりの高位魔道の使い手であろうし、対する自分は身体も弱っているし武器すらないのだ。それに、ルーン公としてこの話は、知らずに過ごせるものではないと感じた。たとえ、かれの時間があと僅かしかないものだとしても。
「『ルーンの闇』と殿下は仰いました。聖炎の神子さまや大神官さまにとっては『ヴィーンの闇』。ですが、あの方々は『ルルアの子ら』とお呼びすべきです。ルルアが聖女さま方にお伝えになった秘伝を護る意義を正確に把握しているのは、歴史の影でただその使命を果たす為に己を殺して意志を受け継いでこられたあの方々だけなのですから」
「かれらがそう自称していたとは聞いた事がある。だが、ルルアが直接にかれらに神託を与えられる訳ではあるまい。この地上で誰よりもルルアに近しいのは聖炎の神子、そして大神官。『ルーンの闇、ヴィーンの闇』とはただの暗殺集団に他なるまい。それらはルーン分家、ヴィーン分家の陰でひっそりと組織され、自分らの掟に則り、不適格と見なしたルーン公、聖炎の神子、大神官を闇に葬る為の組織だと聞いた。ルルアの子らなど、思い上がりも甚だしい。わたしを裁けるのはルルアと国王陛下だけだ」
「これは随分と聞き捨てならぬ仰りよう……殿下のように聡明なお方でも、死を前にしては錯乱なさる事もあるのですな。しかし殿下のご名誉の為に、今のお言葉は拝聴しなかった事に致しましょう」
「わたしは錯乱などしていない! 死ぬべき時が来たらいつでもその覚悟は出来ている。ただ、おまえなどに、『ルーンの闇』などに命をくれてやる訳にはいかぬと言っているだけだ。第一、ルルア神官の正式な高位魔道によって張られた結界の中でわたしが殺されれば、王室や宰相の疑いの目はその方へ向くだろう。恐らくは宰相がどこかから聞いて欲している秘伝が関わっていると……」
「そのご心配には及びません」
神官の薄い唇に、初めて微かに皮肉めいた笑みが走るのをアルフォンスは見逃さなかった。表情は変えずとも、『ルーンの闇』を貶めた事が彼の気に障っていたようだった。
「殿下はご丁寧に、『遺書』を用意されているではないですか。騎士団長を遠ざけ、アルマヴィラ領を離れるこの夜に、先行きを儚まれて自害なさったという筋書きを誰も不審には思わないでしょう」
はっとアルフォンスは息を呑む。確かに神官の言う通りだった。
(まさか……こんな事になろうとは!)
この状況でかれが服毒死を遂げ、あの遺書がかれの脇に添えられていたとしたら、ウルミスやノーシュまでもがかれの心を疑うかも知れない。希望の薄い裁判の行く末に急に心弱くなって……と。それだけは嫌だった。たとえ世の人から臆病者と誹られても、彼らが真実を知っていて家族に伝えてくれるのならば自分の誇りは護られると思っているが、妻や子どもたちまでもが、自分が弁明もせずに自害の道を選んだと思う事には耐えられない。かれは思わず懐に手を入れ、そこに持っている遺書を破ってしまおうとした。だが、神官はすかさずその手を押さえ、アルフォンスの手から遺書を奪い取る。
「何をする! 無礼者!」
かっとなってアルフォンスはそれを奪い返そうとしたが、神官が身を躱すとかれはそのままその場に膝をついてしまった。
(いまいましい……身体さえ普段のようであったなら、せめてあれくらい、魔道を使う間もなく奪い返せようものを!)
「無礼者と仰るが、ルルアの子らは既に殿下を、ルーン公の資格なし、と見なしているのです」
嘲るような神官の言葉に、アルフォンスはぎりと唇を噛む。
「……教えてくれ。先程の言葉の意味を。カレリンダの事を言っていたな。あれはどういう意味なのだ?! ルーン公と聖炎の神子の婚姻に何故そこまで問題があるのか? しかも今更、そのような問題を持ち出して……まさかカレリンダにも刺客を送ったのではないだろうな?!」
「それはありません、ご安心下さい。幸いにも、聖炎の神子さまは殿下程にはご聡明でいらっしゃらない。聖炎の神子である事を除けばごく普通の愛情深い女性、敬虔なルルア信者に過ぎない。殿下の……ルーン公の継いだ秘伝と、御自身の聖炎の神子の継がれた秘伝の相違に疑問を持っておられない。秘伝を口外する危険性も薄い。だが、殿下は違う。殿下と聖炎の神子さまはめおととなり、恐らく、お二人の知る秘伝は同じものと思い込んでお話しされた事があるのでしょう。そして殿下は気づかれてしまった……秘伝の秘に。歴代のルーン公でこの事に気づかれたのは、まさに殿下だけなのです」
アルフォンスの背を冷たい汗が流れ落ちる。まさかそんな事まで知られているとは……だが、自分の考えを口にした事はない。カレリンダに対してさえもだ。いくら神官でも何でも、心の中までは読める筈もあるまい。アルフォンスは必死で考えを巡らせ、ごく当たり前と思える答えを口にした。
「それは……それはそうだ、だが、だから何なのだ? わたしもカレリンダも、余人に決して秘伝を明かしたりしない。ティラール卿に託した書状だって、仮にかれが中を見たとしても、何の事かさっぱりわからなかっただろう。あれはわたしとファルシスにしかわからないように書いていたのだから! それよりも、秘伝の相違が何だと言うのだ? 『ルーンの闇』は我々よりも秘伝の事を知っているのか?!」
テーブルに片手をついて身体を起こしながらアルフォンスは若い神官を見据えて問い糾す。父でさえ伝説の一部だと思っていたような組織が三百年もの間保持され、誰よりも秘伝に通じているのかも知れない、という思いもかけぬ事態。知らねばならない。知る事こそが、危機を脱する為の微かな光明に思える。
「殿下は、御自身の掴まれている情報がいかに危険で重要なものなのか判っておられない。しかし、もしも今回の事が、宰相の罠に殿下が陥るような事がなければ、或いは聖炎の神子とルーン公の婚姻こそが大陸を救う結果になり得たかも知れないという見方もあったのです。殿下はルーン家の歴史に残るような業績を多く残された優れたお方、この方と聖炎の神子を結びつけたのは結局ルルアのご意志であり、殿下こそが『鍵を開く者』であるのだろうと。しかし違った。殿下の身は囚われ、拷問によって秘伝が洩れる危険さえも出てきた」
「待ってくれ、何の事を言っているのかわからない! 『鍵を開く者』だって?」
「本当は、殿下とカレリンダさまの婚約が決まった時、殿下を消そうという動きもあったのです。でも、殿下がいなくなればルーン公を継ぐ者は暗愚なカルシスさまとなってしまう。そちらの方が障りがある。だから、いわばそのおかげで殿下は見逃されていたのです。そしてようやく今、掟を破った罪を購って頂く時が来たのです」
神官は次第におのれの言葉にこころが昂ぶってきたようだった。今から確実に殺す相手と思い定め、決して言葉に紡ぐべきでない秘密を喋ることで、位が高くもない自分が、バルトリアの命運を握っているような気にさえなりかけていた。ルーン公がなんなのだ、いくら聖女の血筋とはいえ、自分の前ではいまは、ただの愚かな無力な男ではないか、と思った。
「お話はこれで終わりです。あとは……そう、ダルムの氷獄でゆっくりお考えになるといい。掟破りのルーン公の行く所はそこしかありますまい」
左手にアルフォンスの遺書を持ち、神官は右手で小瓶を持ち上げてアルフォンスに突きつけた。
「さあ。それとも、無理やりにお呑ませせねばなりますまいか」