3-13・侵入者
刻を僅かに遡り、ウルミスが就寝の挨拶をして退室した後、アルフォンスはその足音が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを聞きながら、深く溜息をついた。かれの頼みでウルミスは窓を僅かに開けたままにしておいたので、細く外界へ繋がるその隙間から、変わらず新鮮な外気が静かに入り込んでくる。暖炉の火で部屋は暖まっているが、冷え冷えとした夜気は窓の程近くに置かれたソファにかけたアルフォンスの頬を撫でるように吹き抜け、その体温を下げていった。徐々にその風の冷たさは、直接に当たる右頬が痛い程にさえ感じられ始めたが、それでもアルフォンスは動かず、何かを待ってでもいるかのように、やや前屈みの姿勢でじっと座ったままだった。正面では明々と暖炉の火が燃え盛り、炎が放つ明るさがかれを照らしてその整った貌に光と陰の模様をくっきりと映し出す。ワインの杯を両手で包むように持ったまま、かれは昏い目でただその炎を見つめ続けた。暖炉の火はただの火だ。触れれば誰でも火傷をする。だが、聖炎はちがう。かれは、妻がいつも灯していた聖炎と、それからルルアの門で見た聖炎のことを思った。
人の世に灯される聖炎は、ふたつに分類される。即ち、『癒しの聖炎』と『裁きの聖炎』。聖典にも記されている事ではあるが、一般の者にはその区別もつかないし暮らしに関わりもない。聖炎の神子が灯し続ける『癒しの聖炎』に護られているアルマヴィラの民でさえ、あまり意識していない事である。聖都アルマヴィラの外壁に常に灯されている『癒しの聖炎』……『神子の聖炎』は、聖炎の神子の生命の炎でもある。神子を継ぐと同時に、その娘は命ある限り、意識せずともその魔力を削りながら『神子の聖炎』を灯し続ける事になる。だがこれは範囲が広い為にその聖なる威力は強くはなく、一般の者には魔除け程度のものとしか実感できない。触れても熱くない不思議な炎……人々はただその事に聖性を見出すのみである。事実、アルマヴィラ都の中にも罪を犯す者はいるし、裏小路のような怪しげな場所も存在するのだから。儀式の折などに集中して灯される『癒しの聖炎』はもっと大きな力を持つが、一般の者がその恩恵を感じる機会は実はあまりない。だが勿論、聖炎の神子を妻とし、アルマヴィラの領主であるアルフォンスはその力の重要性を熟知している。
一方で、『裁きの聖炎』は『癒しの聖炎』と異なり、表立って儀式などで灯される性質のものではない。一般の者は勿論、アルフォンスでさえそれを見た事はない。『裁きの聖炎』はその名の通り、邪悪なものをルルアの御心に沿って裁き、焼き尽くす炎である。かつては、大神官によってその炎が神判に用いられていた時代もあった。が、まったく邪なところのない完全に清らかな人間など世に存在しない。神判にかけられた者は例外なく内側から焼き尽くされて苦悶の末に惨死したが、後にその中には明らかに罪状に対して無実であったと証明された者もあった為、現在はそうした神判は絶えている。代わりに現在では、罪を犯した聖職者を処罰する為に大神官は『裁きの聖炎』を用いる。その手が罪を犯したなら手を焼き、その目が見てはならないものを見たなら目を焼く。だが神職にある者以外はその場面に立ち合う事はない。
ルルアの国の聖炎は、そのふたつの両方の性質を持つとされる。死してルルアの国に入る事を許された者は、苦しみなくその魂を浄化されて、永遠の安らぎを得ると聖典は伝える。
(確かに、何とも言えない安らぎを感じた)
ルルアの門での体験を思い返す。門に近づく毎に心が軽くなっていったのは、聖炎が現世の憂いや穢れを清めてくれたからだ。だが、あの時思いもかけず現れたシルヴィアの様子、「永遠の安らぎを得たのか」という問いに対する彼女の表情が、今でもアルフォンスは気にかかり、忘れる事が出来ない。カレリンダならもっと多くの事が解るであろうに、と、妻にこの事を相談する術がないのがもどかしい。アトラウスへの伝言はティラールに託したものの、金獅子騎士が検閲する書簡にこの事をしたためる気にはなれない。
(アトラウス……ユーリィを護ってやっておくれ)
ティラールは伝えてくれただろうか。ファルシスへの書簡を彼がきっと約束通りに届けてくれたであろうという事には疑いを抱いてはいなかった。だが、ティラールとアトラウスは恋敵。無理に伝えなくていいとも言ったし、また、そう言ったのは、シルヴィアの事をアトラウスに伝える事が果たして良いことなのかと迷う気持ちがあったからでもある。外に出るまでの幼い五年間の日々、アトラウスにとって母シルヴィアは女神のような存在だった。そして、シルヴィアの死に様の凄惨さはアルフォンスでさえ未だ脳裏に焼き付いたままであるくらいだった。幼くしてそれを目の当たりにしてしまったアトラウスにとって、現在母親がどのような存在であるのか、アルフォンスにも測りかねるところがあり、彼が長じてからは特に、シルヴィアの話題には通り一遍の事以外殆ど触れる事すら憚られたのである。アトラウスには何か決して誰にも触れさせぬ陰の部分がある。だが、彼の生い立ちを思えば普通の青年と同じようでなくても当然であると思う。たった一人の大事な甥っ子であり、不憫さも相まって、息子同然に思って接してきた。だが、アトラウスの方ではどうだっただろうか。
『伯父さまのせいだ! 伯父さまがぼくを連れて行ったから、お母さまは……!』
十三年前のあの幼かった彼の言葉は今もアルフォンスの胸に刺さったままの棘だ。
シルヴィアは、「いずれまた、あなたはここに来ます。その時にすべてお話しましょう」と言っていた。いずれ……その言葉を思うとアルフォンスの表情が微かに歪んだ。いずれとはいつなのか。もしかしたらその時はもう間近いのかも知れない。裁判の末に無実の罪を被って果てるのか、それとも……。
「今夜……」
低く掠れた声でアルフォンスは独りごちた。ひんやりした風の流れが不意に変わった。だがそれでもアルフォンスはそちらを見ようとはしなかった。ひそやかな息づかいが突然、一人きりだった室内にもう一つ加わった。窓の隙間は、先程ウルミスが開けた時と寸分違ってはいない。それでも、窓の下に蹲るように膝をついた黒い人影が突如出現していた。室は三階であり、窓の下にも張り番が立っている。勿論扉の外にも。しかし、アルフォンスは驚いた風は見せなかった。
「……遅かったじゃないかね。もう休もうかと思っていたよ」
静かな声でアルフォンスは、そちらを見ぬままに独り言のように呟いた。驚きはしなかったが、当たって欲しくなかった予測が当たってしまった事に、黒い染みのような絶望感がじわじわと心に広がってくる。ウルミスと話をしている間は、なるべく気のせいだと思うようにしていた。だが徐々に強まる気配に、後はただただ気のせいであって欲しいと切に願っていた。
「……わたくしが伺う事をご存じでいらっしゃいましたか。さすがでございます」
押し殺したような若い男の声が不吉な含みを孕んで聞こえた。
「気配を感じていた。聖炎を操る者の気配を……気づいたのは夕刻だ。今まではもっと距離をとっていたのだな?」
アルフォンスの言葉に、男は軽く驚いたようだった。
「わたくしの魔道の気配をでございますか。しかし殿下は……」
「魔力などない筈だと言いたいのだろう。それはその通りだ。歴代ルーン公は殆ど皆魔力を持っていない。だが、わたしにはこれまでのルーン公と異なるところがある。聖炎の神子を妻とし、長く共に暮らしたというところが。聖炎の気配はわたしにとって何よりも馴染み深いものなのだよ」
「なるほど。魔力というより気を読まれた、というところでしょうか。これは思ってもみなかった事でございます。それでは、わたくしが何者で、どのような御用で伺ったものかも、お察し下さって頂いているのでございますか」
「聖炎の気配と共に、わたしに対する殺意を纏う者……そして、明日はアルマヴィラ領を出ようというこの夜に近づいてくる者……その意味は……」
深く息を吐いてアルフォンスは瞑目し、言った。
「『ルーンの闇』より遣わされし者……」
男は肯定のしるしとして黙って頭を深く頭を下げた。ルーンの闇、ヴィーンの闇。今は亡き父からその存在は聞かされていた。だがその父も、それが実在するのかは判らない、と言っていた。17でルーン公となって二十年近くもの年月が経ったが、その間一度たりともそれがいまも存在するという痕跡を見つけた事はない。聖炎の神子たる妻のカレリンダもまた、その存在を母親から聞かされていたが、やはり同様に何も感じる事もなく、あれはもう歴史の流れに呑まれてなくなってしまったものなのだろう、と密かに話し合った事もあった。それだけに、今日に至るまでそれに対する警戒は全く持っていなかった。
「お覚悟の上……と受け取ってよろしいのですか」
「そなたが思っているような覚悟などはない」
ふっと、初めて自嘲気味にアルフォンスは笑った。炎の影がかれの貌の上で微かに揺らめいた。
「わたしは自身の無実を証明する為に王都へ向かうところだ。ここでそなたに気前よくくれてやる程安い命ではないつもりでいる」
「そうでございますか……」
男の声には心底からの残念そうな響きがあった。そしてすいと男は立ち上がる。男は闇に紛れる為の黒い上衣を脱ぎ捨てた。その下から現れたのは、ルルア神官の正装。
「ご承知の事とは思いますが、この室は既に結界の印で囲っております。騎士の助けなどありませぬ」
「いくら魔力を持たぬわたしでもそれくらい弁えている」
「だったら何故、騎士団長を遠ざけたのですか?」
「彼がいてもそなたなら、彼を眠らせて任務を遂行しようとしただろう。それでは余りにも彼に申し訳が立たぬ」
ウルミスがどんなに腕の立つ騎士でも、予めそれを迎え撃つ備えでもない限り、魔道での不意打ちには敵わない。魔道で眠らせられて、目覚めた時に傍で自分が死んでいたら、その時の彼の気持ちは、立場は……と想像するとアルフォンスの心は痛む。
「御自身の事よりもご友人の事を気にかけられるとは、さすがは歴代ルーン公の中でも傑出していると評された殿下でございます」
男の言葉にアルフォンスは鬱蒼と笑い、ようやく杯を卓に置いて男の方を見た。
「今更追従など何の益になろうか」
「追従などではございません。わたくしは殿下のお人柄に心服しておりました。このような役目を負いました事、誠に残念でなりませぬ」
頬骨の高い若い神官は、アルマヴィラ人特有の黒い瞳にただ、いたましさを湛えている。己の課せられた任務の失敗があるとは思いもしていない表情だ。彼は懐から小瓶を取り出し、アルフォンスの前の卓上にそっと置いた。
「どうか潔きご自害を……」
アルフォンスは暫し無言のまま、その小瓶を見つめた。中身は問わずとも解っている。苦しまず、一息に死ねる毒。
「念の為に聞いておくが、前にわたしに毒を盛ったのはそなたではないのだな?」
「はい。あの時はまだ、様子を見るようにしか指示されていませんでした。お護り出来ず、己の無力さを申し訳なく思っております」
神官は頭を垂れた。アルフォンスは軽く溜息をついた。心服していたなどと言いながらも、あるじの指示を忠実に護る事を至上とする性質のようだと感じたからだ。