3-10・酒場での乱闘
「なんだって? そんな馬鹿な事を言う奴がいたのか!」
ティラールは蒼白になり、思わず声を大にして拳を握り締めた。不穏な輩がいるという話は耳にしてはいたが、こうして生々しい話を聞くと身体に震えが走る。
「あんた……まさかご領主の家族と面識があるのか?」
ティラールの反応に男は顔を強ばらせた。ティラールははっとして、宥めるように、言い訳する。
「い、いや、そういう訳じゃない。おれは貴族と言ってもしがない四男坊。おまけに家を追い出されたようなものさ。そんな雲の上の方々に会える訳もない」
「ふ~ん、あんたも大変なんだな」
あっさりとティラールの言葉を信じた様子で男は酔った頭を振ると言葉を続けた。
「さっきの質問だが、おれや大抵のもんは、そこまで過激な事は考えちゃいねぇ。こんな事件が起きるまでは、まあ確かにあんたの言う通り、よそに比べりゃのんびりした所だし、食いっぱぐれてどうかなるような奴もいねぇ、いい都だと思ってたぜ。だけどさ、あんな物騒な事件が起こっちまって、しかもそれがご領主様の仕業だなんて聞かされちゃ、誰も彼もががっくり来る気にもなるってわかるだろ? 逮捕された奴っていうのは、おれも顔見知りだったんだけどよ、あの事件で娘を殺されたのさ。そりゃあ別嬪で、おまけに働き者で身持ちも堅くて、自慢の娘って奴さ。絶世の美女だっていうご領主のお后や姫さんより美人だってみんな言ってたくらいさ。まあ勿論、聖炎の神子を近くで見た事がある奴なんかいねぇけどさ。そんな娘がおめぇ、かっ攫われて呪術の為に心の臓を抉られて、家族も誰もいねぇ所で苦しんで死んだなんて、しかもそれが、悪い評判なんかひとつもなかったご領主の仕業だなんて聞かされた日にゃ、どうおかしくなっちまっても不思議はねぇ。なぁ兄ちゃん、あんたはそう思わねぇか」
言いながらも男はティラールの顔をちらと見て麦酒を自分のカップに注ぎ足してあおる。勿論ティラールはいちいち咎め立てはしなかった。呼称がいつの間にか、坊ちゃんから兄ちゃんに変わっている事も。ただ、ようやく、求めていた庶民の生の声が聞けて衝撃を受けていた。男の言う事は理解できた。彼らはルーン公がどのような人物であるかなど全く知らないのだ。ただ、伝えられる情報を受け取るしか術がない。あの、ルーン公に毒を盛った女もきっと同じような心持ちだったのに違いない。『死の制裁を……』そんな事を叫ばれなければならない罪は、ルーン家の人々は何ひとつ犯してなどいないのに。
「おれたちはただ、厄介ごとに巻き込まれずに飯が食えればご領主に少々おかしな所があったって構いやしねぇ。だが、王宮だかなんだかのもめ事の為に殺されるような事になっちゃたまらねぇよ。そんなごたごたを引き起こすようなご領主にゃあもう帰ってきてほしくないね。これがだいたいのもんの本音だと思うね」
「……!」
さすがにこの言葉にはティラールは怒りを堪える事が出来なかった。
「まったくの冤罪であるかも知れないのによくそんな事が言えるものだな? 今までこの都の治安が乱れなかったのは、すべてご領主さまのおかげだと感謝する気持ちはなかったのか?」
男もティラールの言葉に渋面になる。
「感謝? お貴族さまなんて、おれたちから取り立てた税でうまいものを食ってるだけだろ? あんただってそうだろ? そのなまっちろい腕は、汗を流して働いたことのない腕だ。まあ、しかし世の中がそんな風に出来ちまっているんだから、別にあんたが悪いとは言わねえぜ。ご領主だってそうだ。ただ、そういう風に生まれなさったからご領主になったってだけの事だ。おれたちとは生まれながらに出来が違う……それだけのこった。あんたはさっき、努力とか言ったが、あんた自身はどうなんだい。いい飯食って、いい服着て、それはあんたの努力の結果なのかい?」
「!! ……おれの事はいい、確かにおまえの言う通り、おれは今までなんの努力もしなかった。だが、あの方を貶めるような事を言うな。あの方は高潔な方だ。それにいつも民の事を考えられて……」
思わず力がこもったティラールの声は、酒場の喧噪を僅かに引かせる程の大きさがあった。二人の周囲にいた者たちは、何の喧嘩かと興味ありげに視線を向けてきた。その殆どが、ティラールに対して好意的なものではない。男は険しい顔で空になった麦酒のカップを床に叩きつけた。
「てめえ、やっぱりルーン公を直に知ってるんだな? そんなお偉い奴がいったいこんな所で何をしてやがる? 間諜か? 上に対する不満を探って、おれたちを一斉に検挙するつもりなのか!」
店に響き渡る男の怒鳴り声に、周囲は急に蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
「なんだって?!」「おかしいと思ったんだ、あの野郎!」「まずいぞ」そんな叫びが飛び交い、店の主人が飛び出してきて「やめてくれ! 喧嘩なら表でやってくれ!」と喚くのすら誰の耳にも入らない。
「ちがう、おれは間諜なんかじゃない!」
さすがにティラールも失言を悟り、不穏な空気に腰を上げかけたが遅かった。ごつごつした太い手が後ろからティラールの襟首をつかみ、軽々とその身体を椅子から引きずり上げると、そのまま荷でも放るかのように向かいの壁に叩きつけた。テーブルが倒れ、皿やカップが大きな音を立てて割れ、店主が更に悲鳴をあげたが誰もそちらを見ようともしない。
「貴族なんざ信用ならねぇ。特に、罪人を庇うような奴はな! さっさと出て行きやがれ!」
太い腕の大男は仁王立ちになって、飛び散った酒や料理にまみれた恰好のまま、立ち上がれないでいるティラールを睨み付けた。
「だから……ちがうと……ルーン公殿下は……」
打ち付けた後頭部を押さえてティラールは何とか言いつのろうとしたが、
「黙れ! ここはおれたちの居場所なんだ、貴族の間諜なんかに大きな顔をさせてたまるか!」
と叫びながら、先の話し相手の男が容赦ない拳を顔面に叩きつけてきた。それを皮切りに、安酒に酔った男たちがよってたかってティラールに殴りかかった。息もつけない殴打と蹴りの連続に、ティラールは死の恐怖さえ感じる。男たちは先の見えない現状に苛立ち、その閉塞感を酒で紛らわせていた。そこへ場違いに飛び込んだティラールの空気を読まない発言は、彼らの鬱屈の点火剤となってしまったのだ。腕で庇うのが精一杯、細剣に手をかける暇もない。酒瓶で頭を殴られ、血塗れになったティラールは遂に失神してしまった。
「おい……死んじまったんじゃないか?」
その様子に気づいて男たちの一人がようやく我に返って声を上げた。酒場での喧嘩と言えど、貴族を殺してしまっては大変な罪になる。酔客たちの興奮がひいて、最初の話し相手の男がのびているティラールに近づいた。
「大丈夫だ、息はしている。今のうちに路地に放り出してしまおう」
細い目に狡猾な光を浮かべながら男は言い、大男に合図をすると、大男はぼろぎれのようなティラールをひょいと抱え上げた。この、最初にティラールに話しかけた小男は、この辺りでの顔役だったのだ。
「おい、デルス、こいつは本当に身分の高いやつなのか。おれたちお咎めを受けないか」
今更のように怖じ気づいたらしい一人がおどおどと言ったが、デルスと呼ばれた顔役の小男はふんと笑って、
「貴族には貴族の意地ってもんがあるらしい。まさか一人でのこのこ下町に出かけて町民にボコられたなんて言えねえだろうさ。それに……」
「それに?」
「いや、何でもねえ。おう親父、店をこんなにしちまって悪かったな。とっといてくれよ」
と店主に銀貨を一枚放って寄越した。割れた食器類などを弁償しても釣りが来るくらいだ。
「い、いいのか」
「いいさ。今日はしまいだ。さっさと忘れちまえ!」
デルスの一声に、酔いが醒めかけた男たちはぞろぞろと荒れた店を出て行った。
大男はデルスについて店からだいぶ離れた路地までティラールを運び、地面の上に傷だらけの身体を投げ出した。夜も更け、寒さがマントを纏った身にも沁みる。このまま放っておけば凍死するかも知れない、とデルスも大男も思ったが、そこはルルアのご意志次第、と構わない事にした。
大男と別れたデルスはさっきの店の近くに戻った。店の鎧戸は既に閉められていたが、看板の傍に深々とマントのフードを下げて佇む男の姿があった。
「旦那?」
とデルスは声をかける。
「俺だ」
短く男は応えると、手袋で指先まで隠した手を懐に入れ、革袋から銀貨を十枚程掴みだしてデルスに与えた。
「追加の分だ。なかなか見物だった」
「へへへ、ありがとうごぜえやす」
デルスは媚びた笑いを浮かべ、掌に銀貨を乗せて嬉しそうに眺めた。さっきの騒ぎは全て、男に依頼されてデルスが起こした事……ティラールは、男に教えられた通りに誘導したデルスに、まんまと嵌められてしまったのである。と言っても、デルスは嘘を語ったつもりはない。ティラールに話した事は全て本心でもある。だからやり易かった。
「後の事は心配するな。おまえたちを逮捕するような事はさせん」
「貴族さまでも、旦那のような気前の良い、物分かりも良いお方もおられるもんなんですな」
「追従はいい。さっさと行け」
「へい。また何かご用の時には是非」
そう言うと、デルスは身を屈めて夜の闇の中に消えていった。銀貨を与えた男は、フードの下から凍るような眼差しでその後ろ姿を見ていたが、すぐに興味を失ったように視線を逸らせ、歩き出す。
「下らぬ事をせずと、さっさとアルマヴィラから出て行けば良かったんだ。全く邪魔な奴だ、ティラール・バロック」
感情のこもらない口調でそう言い捨てると、アトラウスは振り向きもせずに下町を後にした。ティラールがこのまま死ぬか助かるか、見届けるのは面倒だった。
翌朝、下町で男の変死体が見つかった、と都警護団に報告がもたらされた。